第4話 君が最後に残したもの
名前を呼ぶには、痛みが伴います。
それでも、呼びたい相手がいたのなら——
四度目の夜、扉を開いたとき——そこには、見慣れない静けさがあった。
マスターは変わらずカウンターにいたが、今夜の彼は、いつもよりも“遠い”。
「本日は、特別な一杯になります」
そう言って差し出されたグラスには、まるで夜そのものを閉じ込めたような、深い黒の液体が揺れていた。
手に取っただけで、胸の奥がざわつく。
これは……ただの記憶じゃない。もっと深く、もっと重い。
一口飲む。
冷たい。けれど、どこか懐かしい冷たさだ。
——雨の匂い。
濡れた舗道。傘の下で並ぶふたつの影。
「……いいの、忘れてくれて」
あの声。確かに、聞いた。あの言葉を。あの震えを。
彼女は、忘れられることを望んだのだ。
自分が、彼女に何をしたのか、ようやく理解した。
彼女の願いを、叶えてしまった。
思い出すたびに苦しむなら、全部消してしまおうと——そう、決めたのは、自分だった。
「……僕が、彼女の記憶を捨てたんですね」
マスターは静かにうなずいた。
「彼女の願いを守ったあなたは、立派でした。ただ、それが本当に望んだことだったかどうか……」
「違ったのかもしれません。彼女は“忘れて”と言ったけど、本当は、“忘れないで”って言ってたのかも」
記憶の中、最後に交わした視線。
あれは、別れの眼差しじゃなかった。
“それでも、覚えていてほしい”という、切実な願いだった。
目を閉じる。
その声が、指先が、確かに残っている。
「……今なら、あの人の名前が出てきそうです」
「出すかどうかは、あなた次第です」
「でも、もしその名前を呼んだら……僕は、自分を取り戻せなくなる気がします」
「そうでしょう。名を呼ぶことは、すべてを思い出すということ。
それは、喪失と再生の狭間に立つことです」
カウンターの上に、グラスが一つ。
次の一杯は、もう決まっていた。
「最後の一杯を、ください」
「……承知しました」
願われた“忘却”と、願えなかった“永遠”。
そのあいだに立たされたとき、人は自分に何を許せるのでしょう。
最後の一杯が、すべてを照らします。