第3話 カクテルに名を与える者
今夜のカクテルには、まだ名前がありません。
それを名付けるのは、あなたの記憶だけ。
その夜、グラスの中で揺れていたのは、琥珀色ではなかった。
淡くにごった、やや白みを帯びた液体。香りは、ほんのりと花のようだった。
「これは……?」
「今日は“輪郭”の記憶をお出しします」
マスターはそう言って、カウンターの奥へ静かに身を引いた。
グラスを前に、しばらく手をつけられずにいた。
なぜだかわからないが、この一杯は、今まで以上に胸の奥がざわめいた。
一口、含む。
——風の音。
春のようなやわらかな風が、頬をなでていた。
並んで歩く影。差し出された本。笑い声。
ああ、この記憶は——優しかった。
けれど、何かが決定的に、欠けている。
そこにいた“彼女”の顔が、どうしても見えない。まるで、霧がかかったように。
「思い出せそうで、思い出せない」
ぽつりとこぼすと、マスターが答えた。
「記憶にも、焦点があります。あの日の光や風は覚えていても、名前や表情までは曖昧なものです」
「けど……そこにいたのは、誰かだったはずなんです」
「ええ。その“誰か”に、あなたは大切なものを預けていたのでしょう」
カウンターの上に、ひとつの小箱が置かれていた。
開けると、中には何も入っていない。だが、なぜか懐かしさが胸を締めつけた。
「これは?」
「記憶の器です。そこに何が入っていたかを思い出せれば、あなたは“その人”の本当の姿に近づけます」
「でも、名前が……どうしても出てこない」
「カクテルの名を与えるのは、あなたです」
「僕が……?」
「はい。この店では、どんなカクテルも、飲んだ者の記憶が名をつけます」
思わず、視線がグラスへと戻る。
その味は、言葉では表せない——けれど、確かにそこに“誰か”がいたという温もりが残っていた。
名もなきカクテル。
その余韻だけが、心に残っていた。
忘れたはずの誰かが、ふとした風景に紛れて立っている。
名もなき記憶に、名前を与えること。
それは、もう一度その人と向き合うということなのかもしれません。