第1話 名前のない客と、温かいカクテル
記憶をなくした青年が、ひとつの扉を開けます。
はじまりは、温かいカクテルの湯気の向こうでした。
夜の底から立ち上る霧のように、香ばしい匂いが鼻をかすめた。
扉を押し開けたその瞬間、空気が変わる。静謐という言葉が、ようやく肌に馴染んだ。
そのバーに名前はなかった。
看板もなく、路地裏にぽつりと灯るだけの、古びた小さな扉。
だが、不思議と足は迷わなかった。引き寄せられるように、吸い込まれるように、そこにいた。
「いらっしゃいませ」
カウンターの奥にいた男は、グラスを拭きながらそう言った。
落ち着いた声。灰色の髪に、磨き抜かれた眼差し。
“マスター”としか呼べないような雰囲気をまとっていた。
「何を……頼めばいいかわからないんです」
自分の声が、どこか遠く感じられた。まるで誰かのセリフを口にしているようだ。
自分の名前が、思い出せない。どうしてここにいるのかも、わからない。
だが、そのことに焦りはなかった。ただ、静かに、何かが欠けているという実感だけがあった。
「では、これを」
マスターが手早く用意したのは、温かいグラスに注がれた琥珀色の液体だった。
アイリッシュ・コーヒー。
カウンター越しに差し出されたそれは、グラスの表面からほのかに立ち上る湯気をまとっていた。
一口。
舌の上に広がる、コーヒーの苦味とウイスキーの熱。
それを柔らかく包むように、生クリームの甘さが届いた。
その瞬間——視界が滲んだ。
やわらかい笑顔。冬の空。白い息と、一瞬だけ触れた手のぬくもり。
誰かがいた。
誰かを、知っていた。
だが、その“誰か”の名前だけが、どうしても思い出せなかった。
グラスが空になる。
温もりが消えてゆくのと同じ速度で、記憶の輪郭も溶けていく。
「……今のは?」
問いかけると、マスターはほんのわずかに微笑んだ。
「記憶のカクテルです。温かいうちに飲めば、思い出せることもある。
ただし、冷めると、記憶も一緒に消えてしまいます」
「じゃあ、僕は……」
「何かを思い出しかけた。ですが、それが何だったのか、あなた自身がもう忘れている。
それだけのことです」
言葉にできない喪失感が胸の奥に渦巻く。
だが不思議と、それを悲しいとは思わなかった。
「……また、来てもいいですか?」
「もちろん。その代わり、次は代償が必要になります」
「代償?」
マスターはうなずいた。
「記憶のカクテルには、記憶で払うのがルールです。ひとつ思い出せば、ひとつ忘れる。
それでも、よろしければ」
空のグラスが、カウンターに静かに戻された。
温かさが、まだ指先に残っていた。
思い出せそうで、届かない名前。
それでも、温もりだけは確かに残っていたのです。
この物語は、そんな感触を辿っていきます。