勇者の幼なじみだった
私たちの村は、本当に小さなところだった。
地図に名前さえ載らない、山間の谷あいにぽつんと息づく、静かな村。三方を森に囲まれ、畑が陽を浴びて金色に輝き、小川がその間を縫うように流れている。そして、肩を寄せ合うように並ぶ瓦屋根の家。風が吹けば、麦の穂が波のように揺れて、木の葉が囁くように話す。そんな場所。
子どもの頃、私はその小さな世界が、すべてだと思っていた。
隣の家には、君がいた。同じ年ごろの子どもが他にいないこの村で、遊び相手といえば、君と私だけだった。
君は、元気いっぱいで、いたずら好きで、ちょっぴり泣き虫だった。けれどその奥には、誰よりもまっすぐで、優しい心があった。
木登りの競争ではいつも私が先に登って、君は「ずるい!」と口を尖らせた。でも私が足を滑らせた時、いの一番に手を伸ばしてくれたのも、君だった。
七歳の誕生日のことは、今でも鮮明に覚えている。
夕焼けの中、君はいつになく真剣な表情で私の前に立ち、頬を真っ赤に染めながら言ったのだ。
「大きくなったら、結婚して!」
私たちはまだ幼くて、結婚がどういうものかなんて、よくわかっていなかった。それでも、子供ながらに、私は君と結婚して、この村で子供を育てていくのだろうと、当たり前のように思っていた。
私はうなずいて、小指を差し出した。ただずっと一緒にいたい――それだけの気持ちで、指切りを交わした。
その時の君の目はまっすぐで、私はなぜか泣きそうになった。小さな誓いだったけれど、それが永遠の約束だと信じて疑わなかった。
風向きが変わったのは、十二の春だった。
陽の長くなったある日、村に見慣れぬ騎士たちが現れた。王都の使徒だという男たちは、金と白の刺繍の入った重そうなマントを翻し、重々しい口調で、信じがたい言葉を告げた。
「この村の少年こそ、神に選ばれし《勇者》である」
その場にいた誰もが、何を言われているのか理解できなかった。ただ呆然と、ぽかんと、口を開けて立ち尽くしていた。けれど君だけは、不思議なほど落ち着いた顔をしていた。
私は怖かった。何が起きているのかわからなくて、ただ、君が遠くへ行ってしまう予感だけがはっきりとあった。
「必ず戻る。待っていて」
君は言った。私の手を握って。泣いていた私を、真っ直ぐに見つめながら。
「待つよ。絶対、待つから」
そう返した私の声は震えていて、指先は冷たかった。
その日のうちに、君は旅立った。王都へ向かう馬車の上で、最後までこちらを見て手を振っていた。
私はひたすらそれを見つめていた。言葉を飲み込み、涙を噛みしめ、胸にこみ上げる何かを押し殺しながら。
小さな背中が、森の向こうへと消えていく。
私は一歩も動けず、そこに立ち尽くしていた。
――それからの数年。
私は《勇者》という名を背負った君の消息を、ただ噂でしか知ることができなかった。
村には新聞も魔法通信もなく、外の世界の情報はすべて、たまに訪れる旅人や行商人たちの話に頼るしかなかった。それでも、君のことは頻繁に語られた。
「北の要塞をひとりで守り抜いたらしい」
「竜に乗って空を翔け、王国を救ったんだと」
「今は王女様が直々に同行しているらしいよ」
最初はただ、嬉しかった。胸が高鳴った。
君は本当に選ばれた人で、世界を救っているんだ。そう思うと、誇らしくて、なんだか自分まで特別な気がしていた。
でも、時が経つにつれて、自分の胸の奥で、輪郭のはっきりしない重苦しい塊が、膨らむのが分かった。
それは嫉妬とも違う、悲しみとも違う、ただ冷たく静かな確信だった。
そして、ついにその日が来た。
「魔王が討たれた」
その知らせに、私は笑った。心から、君の勝利を喜んだ。
君が無事だったことに涙した。
王都では盛大な祝賀が開かれ、夜空には千の花火が打ち上がり、人々は涙を流しながら英雄の名を讃えたという。
宴の中心には、金の鎧をまとった君と、その隣に並ぶ、白いドレスの聖女――王女の姿があった。
勇者と王女、二人の婚約が発表された。
その報せを聞いたのは、隣町まで買い出しに出かけた帰り道、市場で出会った行商人が、誇らしげに語ったときだった。
「勇者さまと王女さま、ついにご婚約ですって。いやあ、夢のような話ですよねえ。お似合いだなあ」
私は笑ってうなずいた。胸が痛いのかどうかも、よく分からなかった。
悲しくはなかった。あれから幾年も経ち、私はもう子どもではなかったから。
だって、君は国を救った英雄。
誰よりも輝く、遠い存在。
あの日、確かに私の隣で「必ず戻る」と言ったけれど、今では雲の上の人。泥にまみれて畑を耕す村娘とは、もう住む世界が違う。
なにより、君が一番辛い時に支えたのは、私じゃない。長く続いた戦いのなかで、君は彼女と、生きる日々を積み重ねたのだ。
私がいない時間のほうが、ずっと深く、濃かったのだろう。私は、君の未来にふさわしくない。
君はもう戻ってこないことは、ずっと前からわかっていた。
だから私は、隣村の青年の妻になった。
彼は、君のように空を翔けたりはしないけれど、朝には畑を耕し、夜には私の冷えた手を握ってくれる。
初めて会った時、私はまだ君の影を引きずっていた。だけど彼は、それを咎めることなく、ただ静かに傍にいてくれた。土の香りのするその手は、剣の代わりに、私の手を包んでくれた。
私は、現実を生きている。君のいないこの世界を、生きている。
あの頃と変わらず、小川のほとりの木は、今日もやさしく葉を揺らしていた。その木の下に腰を下ろし、私はふくらんだお腹をそっと撫でた。
「この子が大きくなったら、いっぱい遊ばせてあげたいな」
そう呟くと、なぜか、君の声が風の中に溶けた気がした。
『大きくなったら、結婚して!』
ねえ、君。私は君を憎んでなんかいないよ。裏切られたとも、思っていない。
ただ、ただ、感謝している。
君が世界を救ってくれたから、この小さな村にも春が戻り、この子を迎えることができる。
きっと、君と私の未来は、あの七歳の誕生日に交わした小さな指切りの中でしか、存在しなかった。
それでも、君と過ごした幼い日々は、私にとっては幸せな思い出。君にとっても、そうだったら良いな。
ありがとう。
私の、幼馴染の勇者さま。
勇者が結婚の約束をしていた幼なじみと結ばれないのは酷いのか、というと……自然な流れではあるよね。村娘と英雄とでは釣り合わないし、辛い時も一緒じゃなかったから仕方ない……と思うのに、ア〇タカにはもやもやしてしまうのはなぜか。
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