夏休みの恋人
「佐藤が好きだ。付き合って欲しい」
「は?」
俺に告白してるのは、同じクラスの飯島湊。顔よし、頭よし、運動神経よし、スタイルよし、背高い、足長いと、理想がそのまま人間になったような奴。
対して告白されてる俺は、顔普通、頭脳普通、運動神経たぶん普通、背普通、足の長さ……普通でありたい、そんな平々凡々の塊。なんでそんな男に告白する必要がある?
「あ、罰ゲーム?」
「佐藤、言っていいことと悪いことがあると思うけど」
眉を顰められる。
「ごめん。でも、なんで俺?」
罰ゲームじゃないならなんなんだ。これと言った接点もないし、好きになる理由がわからない。
「任されたことを丁寧にやり遂げるところと、笑顔に惹かれた」
「えがお…」
「うん。先生に頼まれたこととか、みんな先生が見てないところで手を抜くのに、佐藤はそういうこと一切しないなって気になり始めて、笑顔が可愛いなって気が付いてどんどん好きになっていった」
「そう……」
それは変わった趣味だ。でもどうしよう。俺が飯島と付き合うってなったら飯島ファンが怖い。ここは穏便に断ろう。
口を開く。
「待って」
「むぐ」
口を手で塞がれる。
「断ろうとしてるだろ」
こくこくと頷くと、溜め息を吐かれた。
「理由は?」
「?」
「断る理由は? 俺、ちゃんとした理由もなく断られても諦めないよ」
「………」
“ファンが怖い”はちゃんとした理由じゃないんだろうか。考えてみてもわからない。
口を覆っていた手が外される。
「お試し」
「え?」
「一か月、お試しで俺と付き合って」
お試し…。
でも。
「もう夏休みじゃん」
今日は終業式。学校はない。
「うん。だから夏休みの間だけ恋人になって欲しい」
「夏休みの間だけ?」
「その間に佐藤に俺を好きになってもらう」
すごいな。やっぱり飯島は自分に自信があるんだろう。俺は誰かに自分を好きになってもらうなんて宣言できない。
「さっきも言ったけど、ちゃんとした理由もなく断るなら、俺のファンの子に『佐藤に理由もなく振られたけど、どうしたらいい?』って相談するから」
「!?」
脅し!?
そんなことされたら、俺、学校に来れなくなる。
「お試し……だめか?」
「………」
ちゃんとした理由が浮かばない俺には、選択肢はないようなものだ。
「……俺が飯島を好きにならなかったら?」
「そのときはきっぱり諦める」
「好きになれないことへの、ちゃんとした理由を求める?」
「……求めたいけど、無理強いはしない」
無理強いしないならファンの子に相談するのもやめてもらいたい。でも…一か月だけなら、いいか。悪い奴じゃなさそうだし。
「………じゃあ、一か月お試しってことで」
「ありがとう!」
抱き締められてしまった。こういうときはどうしたらいいんだ。経験のないことに固まっている俺に気付いた飯島が、ぱっと離れる。
「ごめん、嬉しくて…」
「い、いや…大丈夫」
「じゃあ、よろしく。春季」
手を差し出されるので、その手を握り返す。
「よろしく、……湊」
一か月だけの、お試し。
夏休みの恋人ができた。
◇◆◇◆◇
恋人とは言っても、湊の家は俺の家の最寄り駅と五駅離れてるし、そう会うこともないのかな。そして恋人ってなにするんだ…よくわからない。
なんて考えていたらスマホが短く鳴った。見ると湊から。
『今日、なにか予定ある?』
『ない』
返信する。
するとすぐにまたスマホが鳴る。
『デートしない?』
デート…。なるほど、恋人だからデートか。
『どこ行くの?』
『静かなところ』
「………」
静かなところってなんだ。なんか怪しい感じがする。断るか。
『一時間後に迎えに行く』
俺、行くなんて一言も返してないのに。まあいいか。
家の場所わかるのか、と送ったら、昨日帰りに送ったときに覚えたとメッセージが来た。一回で覚えるってすごいな。
昨日の帰り、湊は俺をわざわざ家まで送ってくれた。嬉し過ぎて離れがたいと言って。そこまで喜ぶ相手だろうか、俺は。ほんと、湊ってよくわからない。
『わかった』
準備をしていたらまたスマホが短く鳴った。
『持ち物:宿題』
宿題?
◇◆◇◆◇
インターホンが鳴り、モニターを見ると湊だったので、バッグを持って玄関に向かう。
「久しぶり、春季」
「昨日会ったじゃん」
「だって俺、寂しかったんだよ」
少し拗ねた顔。可愛いと思ってしまった。
「あっつ…どこ行くの?」
湊と並んで歩くと、駅のほうに向かう。
「俺の家」
「湊の家?」
「そう。ほんとは外でデートしたいけど、この暑さで春季が熱中症になったら困るから、おうちデート」
「で、宿題?」
「そう。早めに終わらせたほうが後が楽だから一緒にやろう」
そういうのいいかも。ひとりでやるより捗りそうだし。
「手」
「手?」
「繋ごう」
手を握られた、また…いいなんて言ってないのに。
それに。
「暑いよ」
「夏だしね」
「そうじゃなくて」
暑い中で手を繋ぐ必要なんてないんじゃないか。
「こういう思い出、積み重ねたいんだ、春季と。夏休み中は恋人なんだから、許して?」
「……」
そんな言い方されたら、しょうがないなって気持ちになる。手を振り解くほど嫌じゃないし。
…でも、まるで最初から諦めているかのような目をする湊は嫌だなと思った。俺の気持ちはどうなるかわからないけれど、最初から諦められているのもなんだかな、という感じ。
「暑いな」
「うん…」
湊に答えながら複雑な思いになる。そうまでして夏休みを俺と過ごしたかったのか、という気持ちと、湊が諦めてるなら本当に夏休みだけだな、という気持ち。ぐるぐる交じり合って心に渦巻いた。
「お邪魔します」
「親は仕事でいないから大丈夫」
「……ふたりきりってこと?」
「そう」
まあ、なにもないだろう。湊の部屋で宿題を取り出す。
「春季はなにが苦手?」
「数学と生物。特に生物の実験スケッチが苦手」
「スケッチってなにか出てた?」
「出てない」
それはすぐチェックした。
「そう。じゃあ宿題に出てる、春季の苦手なところは見てあげようかな」
「いいの?」
「そのために一緒に宿題やるんだから。そのかわり、春季にも教えてもらいたいな」
「え。湊になに教えるの。そんな頭脳持ってないよ」
「じゃあ春季のことを教えてもらう」
俺のなにを知りたいんだ。特に面白い話は出てこない、はず。
「俺がひとつ教える毎に、春季も俺の質問にひとつ答えること」
「ええ、なにそれ…そんなに質問あるの?」
俺は構わないけど、楽しいか? でも湊はにこにこしてる。
「春季のことはたくさん知りたいから」
「ふーん。いいけど」
湊が楽しいならいい。俺はわからないところを教えてもらえるから助かる。
「じゃあ湊、ここ教えて」
「これは…」
湊が教科書を開く。
「この公式を使うんだよ」
「ありがと」
「じゃあ春季、好きな食べ物は?」
「なんでも好き」
好き嫌いはない、はず。ぱっと浮かぶような嫌いな食べ物はないから、なんでも食べる。
「特にこれっていうのは?」
「特に? そうだな……そういえば久しぶりにかき氷食べたら、めちゃくちゃおいしかった」
「かき氷?」
「うん。イチゴシロップの」
「舌が赤くなった?」
「なった」
湊が楽しそうに笑うので、こんなことでいいのかとちょっと気が抜けた。もっとなんかドギツイこと聞かれるかと思ったから。
「他にわからないところあったら言って」
「うん、ありがと」
ふたりで宿題って楽しい。俺が湊に教えてもらって、俺も答える。どのくらいそうしていただろう。ふと疑問が。
「俺は湊のことなんにも知れないんじゃない?」
「あ、そっか。春季のこと知れるのが嬉しくて頭が回らなかった」
恥ずかしそうに笑う湊。どんな表情もかっこいいな、ずるい。
「宿題はここまでにしようか」
「もう?」
「ゆっくりふたりでやりたいから。夏休みはまだ今日からだし」
「そっか…」
バッグに宿題をしまって伸びをする。それでも二時間くらいやっていたみたいだ。時間が経つのがあっという間。
「じゃあ湊、次なにする?」
「え?」
「え?」
俺が聞くと、湊が間抜けな顔をする。こういう顔もするのか。
「今日は宿題終わりだろ? まだ帰るの早いし」
「……」
「湊?」
「春季は帰っちゃうんだと思ってた」
「だってまだ昼じゃん。おうちデートってそういうものなの?」
「……」
湊が固まってしまった。手を指でつついてみたら、その手を握られた。
「嬉しい…ちゃんとデートって思ってくれてたんだ」
満面の笑みを向けてくる。眩しい。
「…湊がデートって言ったんじゃん」
「うん。ありがとう、春季。映画でも観る?」
映画…好きだけど。
「せつない系とか悲しい系以外なら」
「苦手?」
「泣いちゃう」
「じゃあせつないの探す」
「なんでだよ」
湊がタブレットを手に取ってビデオチャンネルで映画を探し始める。せつないのはやだな、と思っていたら『これにしよう』と画面を見せてくれた。ラブコメだ。
「春季の泣いてるところも見たいけど、やっぱり笑顔が好きだから」
「……」
「嫌ならほんとにせつないの探す」
「これがいい」
湊って優しい気持ちにさせる。みんなに好かれるのは、外見だけが理由じゃないんだ…。
気が付いたら夕方で、湊が家まで送るというのを断ったら、心配だからって押し切ろうとするから、じゃあ駅までってことで納得してもらった。
「湊」
「なに?」
「…明日も宿題やりたいな」
別に勉強好きじゃないけど、楽しかった。俺が言うと、湊がびっくりした顔をする。なんか今日一日だけでも知らない表情をたくさん見た気がする。
「じゃあまた迎えに行く」
「駅までな。そこまでならひとりで来れるから」
「…わかった」
あまりわかりたくなさそうな顔をして湊が頷く。改札前で別れて、電車に乗った。
◇◆◇◆◇
今日も宿題。
俺がわからないところを聞くと湊も俺にひとつ質問する。やっぱり湊が俺のことを知っていくばかりなので、俺は教科書を閉じた。
「春季?」
「おしまい」
「疲れた?」
「ううん。そうじゃなくて、今度は俺も湊に質問する」
「え」
びっくり顔。俺だって湊のこと知りたい。それが恋愛感情に繋がるかどうかはわからないけれど、教えて欲しいと思った。
「湊の好きな食べ物は?」
「焼肉」
「ステーキは?」
「焼肉のたれの味が好きなんだ。ご飯いくらでも食べられる」
「へー」
俺はステーキのほうが見た目も豪華で好きだけどな。
「焼肉のたれって辛いじゃん」
「辛くないのもあるよ。春季は辛いの苦手?」
「得意じゃない」
「そっか」
「じゃあ次は俺から春季に質問だね。どうしようかな……」
湊との時間は楽しくて、あっという間に時間が過ぎていく。
一日一日をふたりで過ごして行って、俺は湊を知り、湊は俺を知る。そんな日々が続いて、夏休みも半ばになっていた。
「湊、ここ教えて」
「どれ? ああ、これは…」
湊が俺の教科書を覗き込み、顔が近付いてどきっとする。問題の意図がわからないと言うと、丁寧に解きほぐしてくれる。それを聞きながら視線は湊の唇を捉えてしまった。
「……」
やっぱり、湊はキスしたいとか思うんだろうか。いや、されたら俺は困るけど………困る、のか? 夏休みだけ恋人だけど、いつも宿題してお互いのこと質問し合ってって過ごしてばかり。これが恋人かな。
「ねえ、湊」
「なに?」
「キスしたことある?」
「!?」
すごい顔してる。ほんとに色んな顔を見せてもらってて、学校じゃ絶対見られないような湊を俺がひとり占めしていいのかなって気持ちになる。
「……春季はあるの?」
「ない。彼女いたことないし」
「でも今、彼氏はいるよね?」
「お試しじゃん」
「試供品だってちゃんと本物だよ」
それは…そうか。シャンプーの試供品とか、中身は商品と同じもの。
「俺と春季は、お試しでもちゃんと恋人なんだよ? そういうこと聞くとどうなるかわかってる?」
「あ…」
俺の手に湊が自分の手を重ねて、心臓がバクバク言い始める。どうしよう、これってキスする流れ? でもやっぱりお試しの恋人はお試しで。そんな不確かな関係でキスなんて……!
ぎゅっと目を瞑る。
「やーめた」
「?」
そろりと目を開けようとしたら、手で視界を覆われた。
「湊…?」
前髪を避けておでこに柔らかいものが触れる。目を覆っていた手が外されて、湊が目の前に。
「…今の…?」
「なんだろうね?」
悪戯っ子みたいに微笑む湊。それがあまりに優しくて、心臓の高鳴りが更に激しくなる。
「ほら、次はなに聞きたい?」
「え? あ…えっと」
「じゃあ俺から質問」
「うん」
湊が俺を真剣な瞳で見つめる。
「俺を好きになれそう?」
「好きに…?」
「うん。さっきの質問もだけど、俺に興味を持ってくれてるっていうのは、春季の中ではどういう意味を持つのかなって思って」
どういう意味…難しい聞き方。
考える。俺はどうして湊が知りたいのか…。
ちらりと湊の顔を見る。笑ったり、しかめっ面したり、びっくりしたり、間抜けな顔をしたり。表情だけじゃなくて色々な湊を知りたいと思った。それは、好き…?
「…うーん…」
「思ったままに答えてみて?」
「湊が想像より面白いから、色々知りたい」
思ったままはこれ。きょとんとした顔。
「俺、面白い?」
「うん。かなり」
「どのへんが?」
「色んな顔するところ。次はどんな顔するのかなってわくわくする」
「……そう」
あ、嬉しそうな顔。表情が素直って言うのか、気持ちがそのまま表れるから安心する。
もっと色んな顔が見たいな、そう思った。
◇◆◇◆◇
宿題も残りわずかになった。全部終わったらなにをしようか。外に遊びに行くには暑いからな、と思いながら電車に乗って湊の家の最寄り駅へ。俺の家でもいいんだけど、母親がいるから湊が気を遣うかなって、湊の家ばかり。改札前には湊が待っている。もう、ひとりでも道がわかるのに、必ず迎えに来る。ちょっとでも早く会えるのが嬉しいと感じる俺は、甘えてしまっている。
ふたりで英語のプリントをやろうってプリントを出す。シャーペンの走る音だけが聞こえる。俺はふと顔を上げて手が止まる。
あの日、おでこに触れた柔らかい感覚はキスだったに違いない。他の人の唇なんて触ったことがないから、どんな感触かなんて知らなかったけれど、とても柔らかかった。湊の唇をじっと見ると、湊が視線に気付く。
「春季?」
「………」
キスってどんな感じなんだろう。
…湊に触れるのは、どんなに心臓が跳ねるだろう。
そうしようと思ったわけじゃない。
身体が勝手に動いていた。
湊に顔を近付けていく。下ろした瞼の向こうに湊がいる。唇を重ねるけれど、違和感。
「……?」
目を開けると、唇と唇の間に宿題のプリント。ゆっくり顔を離して、湊をじっと見る。
「キスに“お試し”はないんだよ」
「……試供品だって本物なんだろ?」
「でも俺達は本物かな」
「本物じゃないの? 今は彼氏だって言ったの、湊じゃん」
「そうだね。だけど春季は俺が好きなわけじゃないんでしょ?」
せつなげな瞳に胸が苦しくなり、慌ててプリントや筆記用具をバッグに詰め込んで立ち上がる。
「春季?」
「帰る!」
せつないのは苦手だって言ったのに。
泣きそうになっている自分に混乱しながら湊の部屋を出る。
「待って、春季」
引き留める声を無視して靴を履いて湊の家を飛び出した。ぎゅっと唇に力をこめて、涙を堪える。帰宅して自分の部屋に入ったら、堪えたものが零れ落ちた。
せつないのは、苦手なんだよ…。
「湊のばか…」
◇◆◇◆◇
翌日、俺は部屋でごろごろしていた。宿題もやる気にならない。ただベッドに横になってひたすら後悔し続ける。
なんであんなことしたんだろう。
なんであんなこと言ったんだろう。
「……本物」
本物になりたい。
知らなかった湊をたくさん知った。字にちょっと癖があるのを気にしているとか、実は大食いだとか、ホラーがだめとか。料理は、好きなものをたくさん食べたいから親に教えてもらっているとか。小さいことでも、知ると心が弾んだ。手を握られると、握り返したいって思うようになった。
たぶん、俺の中にある気持ちは、“好き”。ちゃんと湊が好きなのに…。
「湊…」
湊はもしかしたら夏休みだけのつもりなのかもしれない。俺がなにかしたのかな。自分から言い出したことだから、夏休み中だけは我慢しようと思ってそばにいるだけ…?
「……なんだよ」
思ったのと違ったとか?
そうだよな…そもそも最初から、湊と俺じゃ………。
「みなとのばーか…」
こんなに苦しい気持ちにさせてるんだから、責任取れ。
◇◆◇◆◇
始業式になってしまった。
結局あれから湊とは一度も会ってないし、連絡も取っていない。湊からは数回、『会って話がしたい』とメッセージが送られてきたけれど返信しなかった。宿題も終わってない。手を抜かないところを湊に好きになってもらったのに、と自嘲する。
あの日、帰ってきてからそのままになっていたバッグを開けると同じプリントが二枚入っていた。湊の名前が書いてある。間違って持ってきちゃったんだ…。
湊の名前の書かれている少し下の部分が皺になっている。そこが、キスを遮った。
プリントをじっと見て、湊の唇が触れた場所に口づけた。
◇◆◇◆◇
「春季、なんで返信してくれないの?」
ホームルームの後、湊に捕まった。さっさと帰ろうとしたらすれ違い様に腕を掴まれてしまい、逃げられなかった。そのまま屋上前の踊り場に連れて行かれ、向かい合う。
「……これ」
通学バッグから湊のプリントを出す。
「間違えて持って帰ってた」
「そんなことどうでもいい」
「………」
わかってる。
でも、話を逸らさないと嫌なことを言ってしまいそうだから俯く。少しの間沈黙があって、俺は意を決して顔を上げる。
「俺、湊を好きになっちゃった」
湊が目を瞠って、なにか言おうとするので湊の胸にプリントを押し付ける。
「……でも、本物にはなれないんだよな?」
まずい、泣きそう。
泣き顔なんて見られたくないから逃げようとしたらまた捕まる。手を引かれ、気が付いたら湊の腕の中に収まっていた。
「…湊…?」
「本物になれるよ」
「だって……」
顔を上げて湊を見る。その瞳が少し揺れていて、どきっとする。
「ごめん。あの日は本当にお試しのキスだと思った。俺はそれでも嬉しいけど、傷付くのは春季だから…」
「じゃあ、本物にしてくれる?」
「俺がそうして欲しい」
湊の顔がゆっくり近付いてきて、本当に唇が重なった。優しく触れて、離れる。
「春季、宿題終わった?」
「……終わってない」
「じゃあ一緒にやろうか」
呆れられたり、ちゃんとやらないとだめとか言われるかと思ったら、湊はさらっと『一緒にやろう』と言う。こういうところ、すごく好き。
「実は俺も終わってないんだ」
湊が恥ずかしそうに頬を染める。びっくりして顔を凝視してしまった。
「湊が?」
「うん。宿題やろうとしても春季のことばっかり考えちゃって、あれからなにもできてない。だから一緒に片付けよう」
「…そうだな」
ふたりで階段を降りる。
「春季、手繋いでもいい?」
「学校出たら」
暑いけど、手を繋ぐのもいいかもしれない。いや、繋ぎたい。校門を出たところで俺から手を繋ぐと、湊は少しびっくりした後に微笑んでくれた。
お試しの恋人は、本物になった。
END