再就職! ペンギン相談係
鹿島ユウキ、二十八歳。
職業無職。
俺だってなりたくて無職になったわけじゃない。
と言うのも数か月前までは社内の心理カウンセラーとして働いていた。けれど急にやってきたYouTuberの有名メンタリストとかいうやつ。やはり誰でも人気者、有名人の方が信頼できるらしい。
そして俺はクビになった。
父親には「ああ、まあ」とか鈍い返事を返され、母親には「だから心理学部なんて選ぶんじゃなかったのよ」と言われた。大学生活は楽しかったのに、有意義に過ごしていたと思っていたのに。クビになるまでは。
「ハァ~~、真面目が損する時代かよ。一昔前までYouTuberは信用ならないとか言ってたくせに」
職を失って、すでにかなりの時が経とうとしている。
コンビニ店員も板についてきて、このままフリーター生活でもいいかもしれない、そう思うといつも両親の顔がよぎる。
そんな行き場のない悩みを巡らせ、あてどなく動かしていた足を止めた。
俺の歩みに紛れようとする足音がワンテンポ遅れて聞こえてくる。
誰かにつけられている?
いやいやいや、そんなはずはない。借金をした覚えはないし、ストーカーされるほど自分が魅力的だとも思わない。
しかもここは住宅街。たまたま家の方向が俺の行く先と同じだけかもしれない。
俺は気分転換にと、視界に入ったファミレスへ足を踏み入れた。
やっぱりつけられている。
と言うか、ずっと視線を感じている。ねずみ講の勧誘だろうか? そんな今最下点にある気分をより落としてくれるなら掴みかかって殴ってやる。
俺は出来もしないそんなことを考えながら、注文が届くまでの間タウンワークを開いて小さな文字を眺めた。
「すみません」
店員に声をかけられたと思って俺は顔を上げた。目を通し進めたところを指で押さえて、声の主に応える。
「はい」
店員ではなかった。
小綺麗な女性。すっきりとしたファッションセンスだが、アクセサリーを欠かしていない。くたびれた俺に到底声をかけるような人間ではなかった。
「どうかしましたか? 何か、俺、落としたとか……」
落とし物か、そう思って尋ねると女性は目の前の席に腰を下ろした。
「うちで働きませんか? 鹿島ユウキさん」
女性は可愛らしげにこてん、と首をかしげてみせた。小ぶりのピアスが顔の横で揺れていた。
「うちの会社、鹿島さんが勤めていらっしゃった会社と契約しているんです」
彼女の名前は瀬戸田みほ。どうやら水族館の経営会社の人事部長だという。見た目は俺よりも若そうなのに、すごいことだ。そんな風に褒めたら彼女は明かした。彼女は社長の娘らしい。
「ずっと私、心理カウンセラーを雇おうと思っていたんです」
社員のためか。俺は頷く。
水族館の飼育員は生物を育てる心理的負担が大きいと聞く。楽しいという声もあるが、絶大な責任感が伴うのだ。
彼女専属の運転手が運転する車の後部座席で、俺は彼女の話を聞いていた。しかし、前の会社と契約していたとはいえ、どうして俺なんかに目を付けたのだろう。俺は会社でいてもいなくてもいいような人間だったはずなのに。
「どうして俺を?」
「それは真面目だからです」
「真面目……」
「生き物は真面目な人が大好きなので」
もしや俺は水族館の生き物の世話まで担うことになるのだろうか。全くの未経験で、資格もないがそれはよくないんじゃないか。
瀬戸田さんはくすっとほほ笑んで、口元に人差し指を当てた。
「もうすぐ着きますから。サプライズ、ですよ」
サプライズ、その意味が俺にはわからなかった。大方、心理カウンセラーの投入がサプライズ、ということだろう。
ずっと前に数回来ただけの水族館は思ったよりも大きな施設だった。俺は思わず見上げて口を開ける。
「ほら、こっちです」
裏のスタッフ専用の扉をくぐり、長い廊下を歩く。水族館特有にも、廊下はひんやりと冷気が伝わっていた。
ぎい、と分厚い扉を押し開けると、そこは魚の生臭いにおいで充満していた。俺はジャージだからいいが、瀬戸田さんのきれいな服は魚臭くならないのだろうか。それとも経済的に困っていないということだろうか。
「『ペンギン舎』?」
白と黒の愛らしい動物。足元から体温を冷やそうとしてくる空気はペンギンのための温度調節だ。
「開閉注意です。開けるときは強めにノックしてください」
「あ、はい」
俺は言われるまま扉を強くノックした。
そして、力を入れて扉を開ける。
「……」
ペンギンだ。
右にもペンギン。左にもペンギン。後ろに回ってきたのもペンギン。
ペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギンペンギン──。
「⁉」
「かわいいでしょう」
「かわいいですが! ぺ、ペンギンですよ? カウンセリング予定の飼育員の方は……」
「はい? 飼育員は関係ありませんよ」
「ど、どどどどういうことですか?」
俺は足元に集まってくるたくさんのペンギンを見下ろした。もう動けない。瀬戸田さんは俺を見て笑っている。
「おにいさんおにいさん」
「え?」
俺は瀬戸田さんを振り返った。
「瀬戸田さん、俺のこと呼びました?」
「いいえ?」
俺は再び足元を見下ろした。ここには俺と瀬戸田さんと、たくさんのペンギンしかいない。
「おにいさん」
「しただよ~」
「あたらしいひとだー」
「やった!」
「おにいさーん」
「……。うわああああああああああああああっ!」
俺は驚きのあまり水にぬれた床に足を滑らせた。ペンギンたちは俺につぶされないように器用によけて、クッションを失って倒れた俺は堅い床に腰を打ち付ける。
「いって……」
「だいじょうぶ? おにいさん」
「だいじょうぶじゃないねぇ」
「いたいねぇ」
「いやいやいやいやいや、ペンギンがしゃべってる! しゃべってますよ、瀬戸田さん」
俺はずっと俺の悲鳴を黙って聞いている瀬戸田さんを振り返った。が、彼女は目を細めて笑うと肩をすくめた。
「国民は知らないだけで、実はペンギンってしゃべるんですよ……」
「馬鹿なこと言わないでください!」
「あはは、冗談です。でも、今聞こえているのは本当にペンギンたちの声です」
「マジでなんでしゃべってるんですか……」
腰をさすりながらゆっくりと立ち上がると、ペンギンたちは足元にまたすり寄ってきた。かわいいけど生臭い! 匂いに慣れるまで時間がかかりそうだ。
「さあ、どうしてでしょう。いつの間にかしゃべっていました。そしたら彼ら、言うんです。ずっと狭いところで苦しいって。『心理的ケアを要求する!』って」
「ペンギン、そんな難しい言葉使わないでしょ……」
「ふふ、嘘です。でも息苦しいのは本当らしいですよ。だからカウンセラーを投入することになったんです」
「は、はあ」
驚きすぎて疲れた。今日はもう寝て、このことはなかったことにしたい。
第一、親になんて言えばいいんだ。「ペンギンの心理カウンセラーやることになったよ!」なんて、自分が親の立場なら病院へ連れていく。
「では、無職の鹿島さん。祝、再就職です!」
俺の退路を断つかのように瀬戸田さんは大声で言った。
ペンギンたちも「さいしゅうしょく! さいしゅうしょく!」やら、「さいしゅうしょくってなに?」と思い思いに話す。
「……はあ」
俺はもう一度だけ深いため息をついた。
「よかったじゃないの」
母親は夕食時、呑気に言ってのけた。
俺は手に持っていた箸をからん、と落とす。
「かわいいし、大学での勉強を生かせるじゃないか。よかったな」
父親も何の疑問も持たずに米を食らっている。
なんだ、俺がおかしいのか?
もくもくと食事を続ける両親の顔を、俺は交互に見やった。
かくして俺、鹿島ユウキはペンギンの相談係となったのだ。
「ユウキさん。いつもぼくのえをかきにきてくれるおねえさんがいるんだけど、これって《《みゃくあり》》ってやつかなぁ?」
ペンギン、人間に恋をする。
脈あり、なんて想像もしない言葉を言われて俺は笑顔をひくつかせた。
「……えっと、君はどこでその言葉を覚えてきたのかな?」
「えらいおねえさんだよ!」
「偉い……ああ、瀬戸田さんか」
瀬戸田さんはたまに顔を出しては、俺のことをペンギンの親分とからかうようになった。それも俺のカウンセリングは好評らしく、後ろをついて歩くようになったためだ。瀬戸田さんの言うように親ペンギンになった気分だった。
「たぶん、絵を描きに来てる人は、ペンギンを描いてるんだよ」
「ペンギン?」
そもそもこれはカウンセリングだろうか? 幼稚園か小学校の先生が子供たちに道理を教える行為に似ていない苦もない。
「きっと君たちの集団を描いてるんだってこと」
「ぼくがかわいいから⁉」
「……そうだね。そうかもね」
ペンギンは短い足──実は羽毛に隠れているだけで足はすごく長いのだと瀬戸田さんが言っていた──で左右に揺れながら、あたりをはねるように歩き回る。
「やったぁ! ぼくじまんしてくるね!」
「うん、行ってらっしゃい」
魚臭いことだけが難点だが、毎日ふわふわの動物に囲まれて、健気に生きる様子は愛おしい。
荒んだ心にまるでゼラチンが混ぜられているかのよう。そしていずれはゼリーのような柔軟な心に生まれ変われる。
「えっと、次のペンギンの方ー」
ペンギンたちに絶賛されている病院スタイルで、次のカウンセリングの相手を呼ぶ。
そのペンギンは隊列を組むときに決まって俺の真後ろに、つまりペンギンたちの先頭に立ってついてくるペンギンだ。凛々《りり》しい眉毛のように見える毛並みが特徴のペンギン。いかつく見えるが、このペンギンもほかのペンギンと同じようにかわいい。
「よう、かしま」
威張り散らしたような口調だが、全く怖くない。
「こんにちは。今日も、お昼の魚がおいしかった話か?」
「ああ、きょうも《《かわ》》にだんりょくがあって……ってちがう!」
違うのか。
このペンギンはいつも魚の食レポをしてくれる。この子なりのコミュニケーションなのかは知らないが、あいにく俺は生魚を丸のみする趣味はない。皮を食べるのも焼き魚だけだ。
それが今日の要件は違うと来た。さっきのペンギンと同じ、恋愛相談か?
「かしまがきてくれてからにしゅうかんたった」
「二週間って……もうそんなに経つか」
「そうだ。そこでそうだんしたいことがある」
二週間記念のお祝いとか言われたら俺、泣いちゃうかもしれない。できればサプライズで進めてほしかったが……そんなことを頭の隅で考えながら頷く。
「おれたちはこのすいぞくかんをだっそうしようとおもう」
「うんうん」
「だっそうしようとおもう」
「……うん? 脱走? 水族館から出たい、ってこと?」
水族館から出たい?
いやそんな相談されましても、手伝ってやれないが。
ペンギンたちがここでの活動を快適にするために俺は呼ばれたわけだ。それでペンギンたちが脱走したとなれば、俺はどうなる。社会的に追放され、ペンギンの可愛さに理性を失った男として、全国の新聞の一面に顔がでかでかと。そして狭い尋問室でかつ丼を食らうのだ。
「いや! 脱走はやめよう」
「なんでだ」
「俺がすごく困る。それに俺は相談係ではあるけど、カウンセラーっていうのが本職なんだ。脱走の相談には付き合えない」
「わかった。じゃあ、おれたちだけでだっそうのけいかくをすすめる」
「ちょーっと待てい」
てとてとと小刻みに歩いて背中を向けようとするリーダーペンギンを、俺は抱え上げた。もう慣れたものだ。
ペンギンは俺の腕の中でバタバタと手を動かす。
「わーはなせ!」
「脱走は絶対なしだ。約束してほしい。そうじゃないと俺はまた無職になるし、何なら永遠に無職になる!」
「そうか。かしまがそんなにこまるというなら、しかたないな」
「わかってくれて何よりだ」
リーダーペンギンを床に下ろしてあげると、ささっと毛並みを整えた。そしてその可愛い手を振ってくれる。
「じゃましたな」
「どうも。また何かあったら相談に来てくれよ」
「おう」
そしてリーダーペンギンを説得できたと思った。
思ったのは俺だけだったんだ。
俺はペンギンの知能を侮っていた。
リーダーペンギンから脱走の相談を受けて、一週間後だった。飼育員も、相談係の俺もペンギン舎を離れた一瞬のことだった。俺はトイレに立っていて、ハンカチで手を拭きながら扉を強くノックした。
「向こう側に誰もいないな? 開けるぞー」
そう言って、いつも通り開けたときそこにはペンギン一匹いなかった。
「みんな水遊びしてるのか?」
飼育員しか入れない客から見える水浴び場を、扉に取り付けられた窓から覗き見る。どこにもいない。窓ガラスの向こうに首を傾げて、ペンギンの不在を嘆く客だけだ。
「う……うそだろ、おい」
俺は水族館内を駆けまわった。
廊下。
ほかの生き物たちの部屋。
それから従業員の部屋。
どこにもいなかった。
俺は混乱しながらも、外につながる扉を開けた。他に向かった場所はそれ以外考えられなかったのだ。
「瀬戸田さん?」
見つけたのはペンギンではなかった。
瀬戸田みほ。彼女は普段通りの素敵なオフィススタイルで、その白い腕を後ろで組んで、俺に背中を向けていた。
「瀬戸田さん!」
彼女はエンジンをかけた大型トラックが、水族館を出ていくのを見送っているところだった。しばらく手を振ってから、彼女は絶え間ない笑みを浮かべたまま俺の方を向いた。
「どうかされましたか?」
「ぺ、ペンギンたちが脱走を」
「ペンギン?」
瀬戸田さんの様子はおかしかった。
何のことだと全く分かっていない様子で、首を傾げる。
「俺の担当しているペンギンたちが脱走したんです」
「ペンギン? あなたの担当? 何の話でしょう」
「……は?」
「確かにペンギンたちは今しがた隣の水族館に運ばれていきました。そして数日後には新しい集団が入ってきます。ですが、あなたにそれは関係ありますか?」
俺は彼女が何を言っているか理解できなかった。
もとよりその予定なら、早くに言ってくれたらこんなにも焦らずに済んだのに。というか、俺に関係があるのかって、あるに決まっている。俺はペンギンたちの相談役として雇われたわけで──。
「仕事に戻ってください。鹿島さん」
彼女はひどい他人行儀のような素振りでそう言った。しかも、名前は俺の名前バッジに目を向けて。
「瀬戸田さん。どういうことですか、瀬──」
「瀬戸田さ──」
俺は伸ばした手で空を掴んでいた。
目の前に人はいない。
「ユウキー? 新しい仕事に遅れるんじゃないの?」
母親の声。ここは紛れもなく自室で、視界には見慣れた天井が映っていた。
俺はおぼつかない足取りで、寝間着姿のまま何ごとかわからずリビングに降りる。母親はやけに優しい表情で、ダイニングの椅子を引いてくれた。
「よかったわね、ユウキ。病院代も仕事もくれる人に出会えて」
「あ、ああ」
俺の脳は混乱しているのに、手は慣れたように動く。母親の用意した朝食に手を伸ばし、皿の上の食パンにまばらにバターを塗ってかぶりついた。
そして《《久々の》》水族館に足を運び、知らない人に指示を受けてつなぎを着た。手には静音性の高い掃除機を持たされて。
「じゃあ、このフロアを掃除してください」
管理者のような身なりの男性はそういうと、俺が掃除機にスイッチを入れたのを見て頷きどこかに行った。
場所はペンギン舎の前。ガラスの向こうに知らないペンギンたちが水遊びをして戯れている。俺はそれを客と同じ側から、息をひそめて目移りしていた。
「この水族館にはとても賢いペンギンちゃんがいるんです!」
聞いたことのある声。
俺は客の後ろからその人の姿を捉えた。汚れないようになのか服装はジャージだったが、髪のメイクも完璧で美人なあの人だった。
「瀬戸田さん」
名前を呟いたら、彼女はこちらを向いたような気がした。
俺は希望が見えた気がして、息をのんだ。そして掃除機を握る手が強くなる。
けれど、すぐに彼女はどこか別の方を向いた。
「ではペンギンちゃんに、その芸を見せていただきましょう! 大きな拍手でお迎えください!」
俺はガラスから目を背けた。そして執拗に、同じ場所ばかりに掃除機をかける。
結局何が何なのか、さっぱりわからなかった。
ペンギンの素晴らしい芸も、喋るほどのことでもなかった。