第98話:Rainbow After the Rain
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5mのバーの10cm程高い場所。
若越の身体は、雨上がりの青空に虹を掛けるかのような、見事な曲線を描きながらバーの上を通過した。
江國の5m1本目を残し、ここで暫定1位に躍り出た若越。
マットの上に立ち上がった若越は、5m上空で微動だにしないバーを見上げながら、安心のため息を吐いた。
(…よし。ここまでは問題ない。
…こっからが本番だからな。ここまではプロローグに過ぎない。
…こっから、未知の領域への戦いだ。)
若越が視線を下すと、助走路には既に第3跳躍者の江國が控えていた。
もう既に何回か見ている彼の一連のルーティーンが、彼のいつも通りの脅威を物語っていた。
(…ま、どうせお前もここまで来るんだろ?江國。
…でも、譲れない。譲りたくないんだ。
お前にも…誰にも…。『誰よりも、高い空』は、な…。)
その思いを乗せた若越の視線を、江國は全く気がつく様子はなく、ただ自らとの対話に集中していた。
(…最低でも5m10、5m25くらいまでは更新したい所…。)
江國は小さく息を吐くと、そのままポールの先を高く持ち上げた。
風は微風。トラックの競技もスタート前という事もあり、僅かに騒ついてる程であった。
(…自らを更新し、常に上を求め続ける。)
いつもと変わらない江國の助走な筈なのに、目に見えない圧力はこれまでとは一味違った。
5m00cmの記録でインターハイ全国7位となった彼は、既に若越より一枚上手の箔が付いている。
それが故なのか、インターハイまでの彼とは少し違っていた。
踏み切って空中に放り出された江國の身体は、5mのバーよりも更に高く跳び上がった。
空中の江國の腹部とバーとの間には、10cm以上の浮き差が生じていた。
これにより、5m1本目の時点で若越と江國が同率1位。
1本目を失敗した皇次が3位に着けていた。
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同時刻、ホームストレート側では女子の走り幅跳びが行われていた。
28名が参加するこの種目では、2組に分かれて競技を行い、3本の試技数の中で出した最高記録の総合順位上位8名が、都大会へと駒を進める。
A組に出場している睦小路は、1本目を終えて4m51cmを記録していた。
同組では、1本目時点で4m76cmを記録した選手もおり、現時点で睦小路は2位となっていた。
第8跳躍者の睦小路は、2本目を迎えるまで近くのグラウンドのスペースで動きを確認していた。
(…悪くない。いい感じで来てるけど…。
まだB組もあるし、B組には結良さんと鶴井さんもいる…。
もう少し、記録を伸ばさなきゃ…。)
1本目にして手応えを感じながらも、睦小路は油断する事はなかった。
その時、観客席から彼女に向けた声がした。
「…茉子ちゃーん!調子どう?」
睦小路が驚いて観客席を見上げると、そこには彼女に向けて手を振る弓ヶ屋の姿があった。
「…千聖っ!?棒高跳び見てるんじゃなかったの!?」
弓ヶ屋の質問に、睦小路は別の質問で答えてしまった。
それ程に、彼女がそこにいる事が睦小路にとって予想外であった。
睦小路の問いに、弓ヶ屋は自信に満ち溢れた顔で大きく頷いた。
「大丈夫っ!跳哉さんは都大会決まったからっ!
それに、有嶋コーチが跳哉さんに付いてくれてるからっ!
私は茉子ちゃんの応援するよっ!」
そう言う弓ヶ屋の姿を、睦小路は複雑な心境で見つめていた。
最後まで若越の様子を見たかったであろう彼女が、わざわざ自分の為に来てくれた事への罪悪感。
それでも、不安に駆られる自分の為に来て、側にいてくれる事の喜び。
しかし、そんな睦小路の複雑な心境など知らない弓ヶ屋は、純粋に心配した表情で再び問いかけた。
「それでぇー、茉子ちゃんは順調なのー?」
弓ヶ屋の純粋で仲間思いな姿が、睦小路の目には温かくて優しい太陽のように映った。
そんな彼女に心配させまいと、睦小路は笑顔でグッドサインを送った。
「大丈夫っ!任せてっ!もうすぐ2本目だから、行ってくるねっ!」
そう言う睦小路の様子に、弓ヶ屋も安心した様子であった。
「そっか!頑張ってねっ!茉子ちゃんっ!」
そう言うと、弓ヶ屋は観客席に戻って行った。
第5跳躍者が助走路に入った事を確認して、睦小路はジャージを脱いでユニフォーム姿になった。
(…何だろ。安心するんだよね、千聖がいると。
…若越さんも思ってるのかな?同じ事…。
…だったらいいのになぁ…。)
第5跳躍者の跳躍が、4m60cmを記録した。
2本目を迎えて、じわじわと詰め寄ってきている状況にも、睦小路は動じなかった。
(…若越先輩も、不安と戦ってるって言ってたもんな…。
それでも、あんなに凄いパフォーマンスが出来る…。
私も、先輩みたいになりたい。結良さんに、追いついてみせるんだっ!)
第7跳躍者の2本目の試技を終え、睦小路の4m51cmの記録はA組の中で4位であった。
総合記録順とはいえ、組で4位以内の記録である事は、総合順位で8位以内に食い込む為の1つの指標ではあった。
(…もっと。記録を上げないと。)
助走路に立つ睦小路は、息を呑み砂場の奥を見つめる。
「…行きまぁぁっす!!」
彼女の高く大きい声が、競技場に響き渡った。
「「「はぁぁぁぁい!!!!」」」
睦小路の宣言に、多くの声が答えた。
恐らく、弓ヶ屋たちホームストレート側にいる羽瀬高のメンバーであろう。
それを確かめる余裕は睦小路にはなかったが、それを信じて彼女は走り始めた。
1歩1歩、悔いを残さぬように力強く全力で地面を蹴る。
その力が、徐々に彼女にスピードを与えていく。
18歩目に差し掛かった時、睦小路のスピードは最高潮に達していた。
踏み切り板までの距離も十分。
残り2歩、彼女は一気に足を回した。
ガコンッ!!
左足で力強く踏み切り板を蹴る音が響く。
宙に浮き上がった彼女の身体は、フワッと前に突き進んでいった。
少しでも遠く長く宙にいる時間を保つ為、両手足を一気に掻き込んで、身体をまっすぐに折り畳む。
ザァァァッ!!
柔らかな砂場に、睦小路の身体が滑り込んだ。
彼女はすぐに振り返ると、審判員の旗の色を確認した。
走り幅跳びでは、踏み切り板を越えての跳躍は、どんなに距離が出ても失格となる。
審判員は白旗を挙げていた。
その様子に一安心した睦小路は、素早く立ち上がると、身体に付いた砂を丁寧に払って砂場を出た。
補助員が素早くメジャーを伸ばして、記録を測定する。
「…4m73cmっ!」
その記録が読み上げられると、睦小路の不安感が僅かに払われた。
この時点で再び組2位の記録。
総合順位でも8位以内がかなり確実となっていた。
(…よしっ!…でも、まだ油断できない。
3本目もしっかり、伸ばしていかなきゃ…っ!)
睦小路は胸に手を置いて、小さく深呼吸をした。
「…茉子っちゃん、中々良いかもね。」
観客席では、100mの観戦を中抜けして弓ヶ屋の元にやって来た綺瀬が、彼女の隣でそう呟いた。
「…えっ?そうなの?凄いじゃん、茉子ちゃん!」
弓ヶ屋は全体的なレベル感が全く分からずにいたが、綺瀬がそう言った事で信憑性を感じ、純粋に喜びを表した。
「…まあ、あの子なら先に進める可能性はありそうね。
中学の頃も上位にいたイメージあるし。
…ただ、ねぇ…。」
綺瀬も睦小路の実力は認めつつも、懸念点があるのか険しい表情をしていた。
「…ただ?」
弓ヶ屋は綺瀬の顔を覗き込むように、不思議そうな顔でそう呟いた。
「…鶴井 楓嘉。確か、白鳳女子に進学した筈なんだけど…。
…私と同じ、千歳中出身でね。
小ちゃくて可愛いし、真面目でストイックな子なんだけどね…。」
そこまで言うと、綺瀬の顔は更に険しくなった。
弓ヶ屋も不安そうな顔で見つめる中、綺瀬は続けた。
「…何ていうか、嫉妬深いっていうのかな。
執念深いっていうのか、ストイックすぎる時があるんだよねぇ…。」
綺瀬は、過去を思い出しながらそう説明した。
その彼女の表情は、徐々に不安感が増していった。
(…茉子っちゃんが覚えてるかわかんないけど、中学時代に楓は茉子っちゃんに最後の最後で負けたのよね…。
…楓の事だから、絶対まだその事を根に持ってる筈…。
…気をつけてね…茉子っちゃん…。)
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トラックでは、女子の100mが終わり、男子の100mのタイムレースが始まろうとしていた。
その第1組のスタート前に、電光掲示板には女子の総合順位が発表された。
第4位には西澤、第6位には高津の名前がランクインしていた。
その結果を、第1組に出場し、その出走の瞬間を待つ紀良も見つめていた。
(…良かったな、杏。まずは第一関門突破ってところか。
…杏の努力が無にならなくて良かったよ。
…俺も、負けてらんねぇな。)
紀良は高津の結果に安心しつつ、自らのレースに強い気合いを入れていた。
『…On Your Marks…。』
男子100mが始まる。
全13組、総勢100名近くの選手が激突するタイムレース。
次なる都大会への切符を手にするのは、僅か8名。
紀良は慣れた手つきでスターティングブロックに入り、ゆっくり両肩に体重をかけた。
『…頑張ってね、光季。私も、頑張るから。』
試合前に2人きりで交わした、高津との会話。
短い言葉に纏められた大きな思いを、紀良はしっかりと受け取っていた。
(…"努力"に意味があるって証明をする。
…それが、俺の結果に含まれる意味だ。)
『…Set…。』
パァァァァン!!!
スターティングブロックを蹴り、真っ先にゴールラインを駆け抜けたまでの時間、11秒09。
その記録を打ち立てたのは、水色のユニフォーム。
紀良であった。
ゴールを越えて足を止めた紀良は、肩で大きく息をしながら空を見上げた。
(…やっぱ凄ぇな、若。お前のアドバイスを何とか体現しようとして来たら、前よりも楽に速く走れるようになった気がするぜ…。)
紀良は満足げにそう思うと、振り返って大勢待機する100mの集団を見つめた。
(…九藤、蘭。頼んだぜ…。)
その後、レースが続き次々と記録が出て行った。
第9組に差し掛かる頃には、現状の総合トップタイムは10秒89であり、紀良の11秒09の記録は全体の4位に残っていた。
第9組、第3レーン。
緊張の面持ちのまま、九藤はスターティングブロックに入っていった。
(…全部確認出来たわけじゃないけど…今のところ11秒20を切らないと、8位入賞は不可能…。
…練習でのベストタイムは、11秒29…。)
心臓の鼓動が早まる。
少しずつ強くなって来た実感を持ちつつ、それでもライバルたちの走りを目の前にし、九藤から不安が消える事は無かった。
『…Set…。』
パァァァァン!!!
10秒53。圧倒的な速さを見せつけて1着でゴールしたのは、継聖学院の選手であった。
電光掲示板に表示された、"東海林 悠臣"というその選手の名前を、九藤はじっと見つめていた。
九藤の名前が表示されたのは、その次。
記録は、"11秒32"。
前を行く継聖学院の東海林の姿を、必死に追い続けていたとはいえ、九藤の最速タイムでは無かった。
(…速い…。流石継聖学院…。)
自らの走りに不満はなかったものの、記録に対して満足している様子はなかった…。
そして、第12組。
第4レーンには蘭奈、第5レーンには継聖学院の司波 一の姿があった。
(…こいつの横かよ…。まあ、負ける気はねぇ…。)
司波は、蘭奈の姿を横目にスターティングブロックに入った。
一方の蘭奈は、真っ直ぐゴールの先だけをジッと見つめていた。
(…さぁ、かまして行こうぜ。)
スタートのピストルが鳴ると、第9組とは真逆のレース展開となった。
集団を一気に引き剥がす、水色の"羽瀬高"ユニフォームの蘭奈と、それを追う"継聖学院"ユニフォームの司波。
"10.43"
蘭奈が叩き出した記録は、2着の司波の"10秒51"を僅かに上回る記録となった。
そして、蘭奈が総合1着へと躍り出た。
「…しゃぁぁぁぁぁぁっ!!!!!」
蘭奈の勝利の雄叫びが競技場に響き渡ると、それを合図に響めきと賞賛の声が観客席から溢れ出した。
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女子走り幅跳びは、A組の3本目の跳躍を迎えていた。
助走路の睦小路は、安心感を覚えつつもまだ貪欲に記録を求めている。
(…泣いても笑っても、これが最後…。
次に繋げる為に…後悔しないようにっ!)
睦小路は、細く白い右腕を高く挙げると、不安を払拭した笑顔を見せた。
「…行きまぁぁぁぁぁっす!!」
「「「はぁぁぁぁい!!!!」」」
仲間からの声を合図に、睦小路は右腕を大きく振り下ろすと、その勢いのまま姿勢を低くしてそのまま身体を大きく振り出した。
地面を掻くように捕らえて、徐々に助走のスピードを上げる。
睦小路は20歩の助走を駆け抜けると、左足で力強く地面を踏み込んだ。
(…もっと前に…もっと遠くにっ!)
A組内での順位は、現状3位。
記録は十分。それでも、睦小路はもっと上を目指して、高く宙に跳び出した。
記録のお陰か、3本目のプレッシャーを感じさせない睦小路の跳躍は、ダイナミックであった。
ここまでの不安はもう残っていない。
全てを賭けて跳び出した、睦小路の描く跳躍ラインは、"雨上がりの虹"が現れたかのような綺麗な位置をなぞっていた。
「…4m77っ!」
「…やったっ!」
補助員の読み上げた記録に、睦小路は思わず声を出して喜んだ。
結局、この記録が組3位の記録となり、続くB組の記録を待つのみとなった…。




