第97話:Underdogs
~
それは以前、夏休みに若越と弓ヶ屋が横浜を訪れた時の事…。
「…じゃあ、俺こっちだから。
今日はありがとうね。」
そう言って、若越が帰りの電車に向かおうとした時、弓ヶ屋は黙って若越の手に小さな紙袋の取手を引っ掛けた。
「…えっ…?」
戸惑う若越に、弓ヶ屋は微笑んだ。
「…実は私…こっそり調べてみたんです。
棒高跳びの事、もっと知りたくて。
…きっと、競技の役に立つんじゃないかなって思って、買ってみました。
よかったら…使ってみてくださいっ!
今日はありがとうございました。」
弓ヶ屋はそう言うと、逃げるようにして足早に改札を越えて行った。
彼女の行動に呆気に取られていた若越が、恐る恐る紙袋の中を覗いてみると、そこには"KIMURAスポーツ"を象徴する"K"のロゴの赤い刺繍が入った、オレンジ色のリストバンドが入っていた。
加えて、小さなポストカードも入っており、若越はそれをゆっくりと取り出した。
そこには、こう記されていた。
"跳哉さんへ
もしかしたら、跳哉さんには邪魔になってしまうかもしれませんが…。
実は、有嶋コーチに棒高跳びの選手が使えそうなアイテムをお伺いして、こちらのリストバンドを紹介してもらいました。
跳躍の時、手首にポールが当たって痣になる事もあるって聞いたので。
跳哉さんも、いつも跳躍の時にテーピング巻いてるのを思い出したので、私はピッタリだと思いました。
もし、跳躍の邪魔になってしまうようでしたら、全然気にせずいつも通りにしてください。
私にできる事は、こんな事しかないかもしれませんが…。
これからも、跳哉さんのお役に立てるようにがんばります!
千聖"
(…弓ヶ屋…いつの間に…。)
若越はすぐにその紙袋とポストカードを持っていたバッグにしまうと、ゆっくりと帰路に向かって行った。
~
弓ヶ屋に向けて挙げた左手を下ろすと、若越は手首に着けたリストバンドの"K"の文字を見つめた。
(…"KIMURA"のって事は…さては新作だな?
…ったく、侑介さんって人は。)
若越は、呆れながらも満足そうに左手首を見つめ、左手を強く握りしめた。
(…弓ヶ屋もここまでしてくれるんだ。
勝つしか、ないよな。…なぁ?父さん。)
若越は心の中でそう呟くと、秋の晴天が広がる空を見上げた。
_
一方その頃、トラックでは…。
女子100m予選、全9組のうち第5組までがレースを終えていた。
全てのレースの結果から、タイムレースにて総合順位が出される100m。
チャンスは1本のみ。たった1本の走りの記録が、次へと繋げる為の唯一の手掛かりであった。
第2組にて出走した橋本は、13秒09にて予選5着。後続の結果を待つも、入賞は危うい状況であった。
第5組にて出走した高津は、12秒64にて予選1着。上位入賞を狙えるタイムであった。
そして第7組、第6レーン。
水色のセパレートタイプの"羽瀬高"ユニフォームに身を包んだ西澤は、誰よりも自信に満ち溢れていた。
(…新金岡中のエース…堺の中学女王の力、東京の連中に叩き込んだるわっ!
うちが…東京でも天下取ったるんや、覚悟しときやっ!)
西澤の鋭い視線が、ゴールのその先を捉える。
その姿を、ホームストレート側の観客席から、十橈氣、二重橋、畠ヶ井、綺瀬、綿井、巴月、平咲が見守っていた。
「…芹那、一段と気合い入ってるようね…。」
彼女の姿を心配そうに見ながら、畠ヶ井がそう呟いた。
「…まあ実力的にも、勝機はある気はするけどな。
西澤が俺たち1年の突破口を開いてくれる…そんな気はするぜ。」
畠ヶ井に合わせて二重橋がそう言うと、十橈氣は皆に聞こえる程の大きなため息を吐いた。
「…ったく、甘ぇんだよ。
そんな気持ちじゃ、すぐに出鼻くじかれちまう…。
あいつがそれを証明してくれるんじゃねぇか?
…負けてびーびー泣く顔が嫌でも浮かぶぜ。」
自信満々にそう罵倒する十橈氣を、皆不満そうに見ていたが、綺瀬だけは怪しげな笑みを浮かべていた。
「…そうかしら?案外負けて悔しがるのは、秀くんかもしれないよ?」
『…On Your Marks…。』
綺瀬がそう言うと同時に、出走の合図がアナウンスされた。
十橈氣はチッ。と舌打ちをして綺瀬を睨みつけたが、それ以上は何も言わずに黙ってトラックを見つめていた…。
パァァァァン!!!!
ピストルの合図と共に、トラックの8人の選手が一斉に飛び出した。
低い体勢から身体を起き上がらせた頃には、集団から一歩前に西澤は飛び出していた。
「行けぇぇぇ!西澤ぁぁぁ!!!」
「芹那ぁぁぁっ!!ファイトォォォッ!」
僅か6秒程で、西澤は既に50mラインを通過した。
上半身が全くブレずに、下半身と両腕だけがひたすら動き続ける彼女の走りは、残りの7人の選手と比べても違いが明確である。
結局、真っ先にゴールラインを越えたのは、西澤であった。
ゴール横の電光掲示板は、"12.49"と示している。
「…高津先輩より速ぇじゃん…。あいつ、口だけじゃねぇんだな…。」
その記録と彼女の走りに、二重橋は目を丸くしながら驚いてそう呟いた。
「…まあ、あの子は中学時代、大阪では結構名が知れてたらしいからね。
何せあの子のお兄さんは、大阪学院大学2年で今年のインカレチャンピオンの、西澤 龍悟。
2年前のインターハイで、10秒00の現高校生記録を叩き出して優勝した、今日本で1番注目されてる選手よ?」
綺瀬がそう言うと、二重橋と畠ヶ井はえっ!と大きく驚いていた。
黙って知らんぷりをしていた十橈氣も、その名前にピクッと僅かに反応を示した。
「…すげぇ…。そんな奴が同じチームにいたなんて…。」
二重橋はそう呟き、思いがけない現実にただただ圧倒されていた。
「…ま、本人あんまりその事言われるの好きじゃないみたいだから、あの子の前でお兄さんの話はしないであげてね。…私も何でか知らないけど。」
綺瀬は、口元に人差し指を置きながらそう言った。
4人の1列後ろに座っている、マネージャーの巴月と平咲は、前列の会話を他所に慌ただしく記録をまとめていた。
「…大変そうっすね。」
その様子を見ながら、綿井はボソッとそう呟いた。
巴月は素早く、手元のタブレット端末を操作しながら、今し方終了した女子100m予選の全ての結果を、表計算シートに入力していた。
「ま、これが私たちの仕事だからね。
何でも、監督から直々にお願いされてるから。
やらない訳にはいかないの。」
巴月は、綿井に優しくそう答えた。
「今すぐは分かんないけど、いつかこの記録が役に立つ日が来るかも知れないからね。
あっ、明日の槍投げもしっかり記録するからね!
頑張ってね、マーク。」
続けて、平咲も手元のパンフレットにメモを記入しながらそう言った。
「…あっ…うん。」
綿井は急にどこか不安そうな表情をしながら、歯切れの悪い返事をした。
「…お疲れ様。流石ね、芹那。」
レースを終えた高津は、トラック脇のスペースでスパイクの紐を緩める西澤を、そう言って讃えた。
「ありがとうございます。先輩も、お疲れ様です。
都大会も負けへんつもりなんで、宜しく頼みますね。」
レースを終えてから時間が経っているにも関わらず、まだ少し呼吸が乱れている高津に対し、先程レースを終えたばかりの西澤は、既に平常を保ちながらそう答えた。
「…まだ結果はこれからでしょ?
…まあでも、芹那の入賞は間違いなさそうね。」
強気な西澤に少し呆れながら、高津はそう言った。
すると、西澤は急に真面目な表情を見せた。
「当たり前やないですか。
うちはこんなとこで"負け犬"になんか、なっとられへんのです。
…せやないと、顔向けできへんのやから。」
強い口調で意味深にそう言う西澤の表情は、少し寂しそうにも見えた。
既に入賞困難が明確な記録の橋本は、西澤の言葉に嫌悪感を抱き、小さく西澤を睨んだ。
「…顔向け…?誰に?」
高津が不思議そうにそう問いかけると、西澤は我に返って普段の明るい表情に戻った。
「…いえ、なんでもないです。気にせんでください。
うちの問題なんで。先輩には関係あらへんです。」
西澤は吐き捨てるようにそう言うと、脱いだスパイクを手に、ランニングシューズに履き替えて足早に控えベンチへと戻って行った。
「…何なんですか、あの言い方…。失礼ですよね?杏珠さん。」
彼女の後ろ姿を睨みながら、橋本は不機嫌そうに高津にそう言った。
「…まあ、そっとしておいてあげよ。
色々あるんでしょ。あの子にも。」
高津は橋本が思う程、西澤の言葉を気にしていなかったのか、少し心配そうにそう言って橋本を宥めた。
_
一方、バックストレート側で行われている男子棒高跳び決勝は、バーの高さが既に5mまで上げられていた。
4m50cmの記録に終わった柏宮の試技後、若越、江國、皇次の3名は、あっという間にこの高さまで成功跳躍を収めていた。
4m95cm時点で、同率1位。
3人とも、この高さを1本目にてクリアした為、勝負の行方は5m以降に委ねられる事となった。
柏宮を含めた4名は、この時点で都大会への参加標準記録を越えている為、自動的に都大会は約束されていた。
それでも、若越、江國、皇次の3人は一切の気の緩みを見せていなかった。
5mの1本目。
第1跳躍者である皇次は、既に助走路にスタンバイしていた。
(…若越と江國に勝てなきゃ…俺はこのままずっと"負け犬"だ…。
…何としてでも…せめてこの支部予選だけでも…こいつらの上を行く…っ!)
春先からのインターハイを経て、皇次には強い対抗心が育っていた。
若越や江國、霧島といった同級生の面々が、次々と全国大会の舞台へと進む姿を目の当たりにし、その悔しさは計り知れない程に膨れ上がっていた。
前年の記録を持ってしても、伍代や森川、桐暮といった面々に敗れ、最後の大一番の戦いにすら参加できなかった兄、宙一の結末も、皇次を焚き付ける強い燃料と化していた。
それからというものの、皇次は夏休みの間にひたすら走力と筋力の強化に励み、その肉体を僅かに大きくすらしている。
(…"負け犬"じゃねぇ。ここまで、全てを放棄して賭けてきた努力と時間を証明する。
…だから、今日こそ"5m"を越えて、若越と江國に並ぶ…。いや、あいつらを越えてみせるっ!)
皇次は、満遍なくタンマグを塗った両掌で、激しく両頬を2回強く叩いた。
その頬は赤くなりながら、タンマグが付着して白くもなっている。
皇次が手に持つポールは、かつて宙一が5mを越えた時に扱っていた物であった。
(…その為に、俺はこいつに拘ってきた…。
…もう負けねぇ。"負け犬"だなんて言わせねぇっ!)
丁度その時、吹き流しが強い追い風を示した。
トラックで行われている男女の100mの影響もあるだろうが、それだけではない。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁっす!!!」
ポールの先を高く持ち上げ、皇次はそう叫んで走り出した。
皇次の合図に答える声は少なく感じられたが、今回はいつも応援してくれる面々も、各々の種目に挑んでいる。
それ故に、皇次の動きがブレる事はなかった。
力強く地面を踏み蹴りながら走る助走は、まるで獲物目掛けて広野を翔る狼の様な、荒々しい殺気を放っていた。
助走の勢いを保ったまま、踏み切りに差し掛かった時、皇次の身体に強い衝撃が走った。
ボックスに突き刺したポールの反発力は、容赦なく皇次に襲いかかる。
しかし、皇次も負けじと踏み切り体勢を保ちながら、大きく身体を振り上げた。
5m上空のバーの上に差し掛かると、皇次はポールを払うように手放し、身体をくの字に曲げながら、バーに触れないようにその上を越えようとした。
しかし、力で押し切った代償がその時に訪れた。
空中で崩れた体勢を立て直せず、皇次はバーを巻き込みながらマットへと落下して行った…。
(…ちっ…まだまだだって言うのかよっ!
…負けねぇ…負けてたまるかっ!)
マットの上でゆっくり身体を起こした皇次は、表情一つ変えずに依然険しい顔でマットを降りた。
続けて、第2跳躍者の若越が助走路に立った。
(…今日は負けない…負ける訳にはいかねぇ。
…重たい荷物は、全て"あの夏"に置いてきた筈だ。
…もう、みっともねぇ姿見せられねぇんだよ。
"伍代 拝璃"が残していった、"羽瀬高棒高跳び"の名前…。
…俺はもう、みっともねぇ"負け犬"に食い下がるつもりはねぇ。
あの人がいない以上、プレッシャーはねぇ。
俺を支えてくれる全ての人と、『誰よりも、高い空を跳ぶ。』為に…っ!)
若越の手元には、伍代がインターハイ全国大会で使ったポールが握られていた。
まだ完璧と言うには少し心許ないが、全く使えない訳でもない。
若越の前には、"5m"以上の大きな壁が立ち塞がっていた。




