第93話:Straight Ahead
_
圧倒的な反発力、そしてそこから放り出される浮遊感。
伍代が全国インターハイ決勝で使っていたポールで、若越は漸く跳躍を形にする事が出来ていた。
「…これでもまだ、ギリギリってところか…。」
若越はマットの上に座り込みながら、握ったり開いたりを繰り返す右手を見つめ、そう呟いた。
強いポールの衝撃に対抗する踏み切りと、跳躍の形は固まりつつあるものの、依然それはただの荒削りの力技でしかなかった。
現に、練習用のゴムバーに空中で触れてしまっている事で、5m20cmの高さにあるバーは揺れていた。
「…少し、休憩しますか?跳哉さん。」
伍代から受け継いだポールを、地面に落ちないようにしっかりとキャッチしていた弓ヶ屋が、そのポールを手にしながら、マットの上の若越にそう問いかけた。
「…いや、このままもう1回行ってみるよ。
…今は少しでも、感覚を身体に染み込ませたいんだ。」
若越はそう言うと、素早くマットから降りて弓ヶ屋からポールを受け取った。
グラスファイバー製のポールは、物質的な重さ以上に若越の手に深くその重さを突きつける。
(…ここで躓いてちゃいけない…。でも、ここで焦ってもいけない。
…確実に強くなる為に、少しずつでも…確実に…。)
ポールを持って助走開始位置へと戻っていく若越の後ろ姿を、弓ヶ屋は少し不安そうに見つめていた。
「…若、悩んでる?」
そこへ、ジャージ姿の紀良が現れ、弓ヶ屋にそう声をかけた。
「…あっ紀良さん!お疲れ様です!」
弓ヶ屋は慌てて笑顔になりながら、そう挨拶をした。
「…伍代先輩が使っていたポールに変えたみたいなんですが…多分まだしっくりきてない感じがします…。
…あっ!と、とはいえ…私のただの素人目線なので、跳哉さんはそんな事ないのかもしれませんが…。」
弓ヶ屋が若越の様子について紀良にそう言うと、紀良はふぅん。と言いながら若越の姿を見ていた。
「…案外、その通りかもしれないな。
若は、あいつ自身が思ってる以上に、自分の感情とか状態が表に出る。
特に、調子悪い時は絶対にそうだ。
弓ヶ屋、まだ半年も経ってないのに、あいつの事ちゃんと分かってるみたいだな。」
紀良はそう言って、弓ヶ屋に感心した。
弓ヶ屋は紀良のその言葉に少し赤面しながら、それを隠すように顔の前で手を大きく何度も横に振った。
「…そっ、そんなそんなっ!…私なんてまだまだ全然…。
…でも、桃木先輩みたいに、しっかり皆さんをサポート出来るようになりたいとは、思ってます。
…特に、フィールドブロックのみんなの事は…。」
そう言う弓ヶ屋の顔は、次第に真剣な表情であった。
その彼女の様子に、紀良は何かを確信したかのように、首を大きく縦に振った。
「…そっか。いいじゃん、頑張んなよ。
でも、弓ヶ屋には弓ヶ屋にしか出来ない事もある。
…今の若にとって、それはきっと大きな力になってるはず…だと思うよ。俺は。」
紀良が弓ヶ屋にそう言った時、2人の目の前を若越が勢いよく通過していった。
空中動作までは卒なく出来ているものの、まだポールの反発に投げ出されるように跳ね上がった身体を、若越はコントロール出来ずにいた。
マットに落下した若越は、そのまま天を仰ぎながら大きなため息を吐いていた。
「…若ーっ!あんま調子良くなさそうなら、この前の約束、今からどうだ?」
紀良は、マットの上の若越に向かってそう言った。
若越はゆっくり体を起こすと、堪忍したように髪を掻き上げた。
「…そうだな。そうするか。」
「…"約束"って…?」
2人の会話を不思議そうに聞いていた弓ヶ屋は、紀良にそう問いかけた。
「…あぁ。若に速く走るコツ、教えてくれって言ったんだ。
テスト勉強教えてやる代わりに、な。
…あいつ、案外勉強出来そうに見えて、そうでもねぇから。」
紀良のその言葉が聞こえたのか、若越は足早にマットから降りてきた。
「…余計な事言うなよ、光っ!
…まあでも、お陰様でテストは及第点に落ち着いたのも事実だけどな。
今日はこの辺にしておくよ。
じゃあ片付け終わったら、ちょっとやってみるか?」
若越はそう言って、その日の跳躍練習を終わりにした。
紀良と弓ヶ屋の協力で、3人は片付けを行った。
片付けが済むと、若越は跳躍の姿から走る姿へと装いを変えた。
その頃には、陸上部の殆どの部員が練習を終え、クールダウンに入っていた。
「…俺はこのまま、光と自主練入るけど…弓ヶ屋は上がっちゃってもいいよ?」
若越がそう言うと、弓ヶ屋は少し俯いた。
そして顔を上げて言った。
「…もし、お邪魔じゃなければ…自主練もお手伝いしたいですっ!…ダメですか?」
若越は紀良と顔を見合わせた。
紀良は、別に良いという風に小さく頷いた。
「ダメじゃないけど…じゃあお手伝いお願いしようかな。」
そこに、先にクールダウンを済ませていた高津がやって来た。
「あんたたち、まだ練習するの?」
高津の姿を見た若越は、バレないように紀良と高津をキョロキョロと見ていた。
「あぁ。若が速く走るコツ、教えてくれるって。
杏珠もやる?一緒に。」
その若越を他所に、真っ先に紀良がそう言って高津を誘った。
「あっ、そうなの?もうダウンしちゃったけど…まあ、邪魔じゃなければ、やろっかな。」
こうして、若越と紀良、高津、弓ヶ屋の4人は、皆の練習が終わった後、ナイター照明に照らされるグラウンドに残って、自主練をする事になった。
_
「…まあ、これは昔父さんに教えて貰った事なんだけど…。」
若越はそう言うと、10mくらいの距離のスタートラインから垂直に伸びた線を地面に引いた。
「俺が走る時に大事にしてるのは、大きく3つ。
まずは、"前で展開する"事。
腕の振り、足の回転は、なるべく自分の中心より前で行うようにするって事かな。
よく、腕を肩より後ろまで大きく振る奴とかいるけど、前に進みたいのに後ろに力が流れちゃうんだよな。そのやり方だと。
同様に、足もそう。蹴ろう蹴ろうとする意識だと、自然と力は後ろに流れてしまう。
だから、速く前に進みたいなら、動きを自分の中心より前で素早くやる意識が必要だな。」
若越はそう言いながら、自らの身体を動かして実演してみせた。
若越の上げる足と振る腕は、若越の肩よりも前で展開されている。
紀良と高津はもちろん、その説明に弓ヶ屋も興味を示しながらじっと聞いていた。
「次に、今ここに線を引いたけど…。
走る時に、この線より左右に自分の中心軸が振れないようにする事。
これも、さっきの説明と似たような話にはなるけど、前に進みたいのに身体の軸が左右にブレたり、変に足を交差させたり、この中心線を踏むように走ってしまうだけで、折角前に進もうとしてる力が変に分散されてしまう。
自分の中心軸…臍や首、鼻の位置がずっとこの線に沿っていくように。
左半身は常にこの線より左側、右半身は右側にあるようにすれば、自ずと軸がブレずに真っ直ぐ走る事ができる。
これは特に、俺はめちゃくちゃ意識してるというか…俺はいつもポールを持っているし、そのポールを真っ直ぐ前に出さないと、効率よく力を利用して高く跳び上がれないから、ってのもある。」
若越はそう言うと、その線の上を軽く走り抜けた。
線上を大きなブレもなく、真っ直ぐ走り抜けていく若越の姿を、3人は興味深く見ていた。
「最後は…これは陸や勝馬さんたちがそうだから、俺が言わなくても分かるだろうし、みんなも自然と出来ている事だけど…ゴールより10mくらい先まで見通す事かな。
ゴールラインで終わりだと思ってしまうと、力はそこまでしか出ない。
でも、その先にゴールを設定しておけば、実際のゴールラインを越える時に、失速する事はない。
…まあ、距離が伸びたら難しいかもしれないけど、100mくらいならこの原理でいける。
…ってまあ、こんなところかな?俺が教えられる事は。
とりあえず、今俺が言った事頭に入れながら、何本か試してみてよ。」
若越がそう言うと、紀良と高津はそれぞれ何本か50m程の距離を繰り返し走りながら、イメージを頭と身体の全体で理解しようとした。
2人が走っている間、若越と弓ヶ屋は並んでその姿を見ていた。
「…凄いですね!3つのポイントだけで、2人とも少しずつ、走りが整っていってるような感じがします。」
弓ヶ屋が感心していると、若越は腕を組みながら2人の姿を見て言った。
「…そう言えば、弓ヶ屋に話した事なかったよね。
俺の父さんの話…。
"若越 浮地郎"、かつて棒高跳びの日本代表にもなった、現男子棒高跳び日本記録保持者。
…3年前、試合中の事故でこの世を去ってしまったけど…それが俺の父さんなんだ。」
弓ヶ屋は思わず、えっ…と声を漏らしながら目を丸くした。
初めて聞いた、若越の父親の偉大な実力と悲惨な運命。
その2つが、同時に弓ヶ屋に大きな衝撃を与えた。
「…そう…だったんですね…。」
弓ヶ屋はただ、そう返す事しか出来なかった。
「今は母さんだけが俺の唯一の家族だけど、その母さんも昔は陸上選手でね。
だから、小さい頃から陸上に触れて来てて、度々こういう話とか指導は受けてきた。
小さい頃は、練習も大変だなぁとか嫌だなぁって思う事もあったけど、父さんと同じ棒高跳びが出来るようになって、足も次第に速くなってきて、漸く今まで言われてきた事の意味が分かったんだ。
今思えば、こうやって何か1つでも自信持って人に話せる事を教えて貰えた事は、本当に親に感謝って感じかな。」
そう言う若越の顔に、曇りはなかった。
それに、嘘のない言葉だからこそ、それは弓ヶ屋に深く突き刺さるものとなった。
「…前はさ、本当に嫌になって辞めようって思ってたんだ。陸上。
…でも、今は辞めたいどころか、もっと強くなりたいって思ってるんだよね。
『誰よりも、高い空を跳ぶ。』
これは、父さんがかつて掲げていた目標なんだ。
…だから、俺の目標も"これ"なんだ。」
そう語る若越は、真っ直ぐ目の前を走る紀良と高津の姿を見ていた。
その若越の姿を、弓ヶ屋はじっと見つめながら言った。
「…跳哉さんって、本当凄いです。
紀良さんが言ってました。跳哉さんは気持ちが表に出やすい人だって。
…でも、その意味が私にも分かる気がします。
あっ、もちろん良い意味で、ですよ?
…跳哉さんがそこまでしっかり思っているから、私はいつも跳哉さんの跳躍にワクワクさせられますし…本当凄いなって思います。」
「…ありがとう、弓ヶ屋。
でも俺はまだ、その目標に届いてるわけじゃないから。
…まだまだ、頑張らなきゃいけないんだよね。
少しずつでも、真っ直ぐ前に進んで行かなきゃ…。」
そう言う若越の視線が、自然と夜空に向いていた。
秋の夜空の星の輝きのその先を見るような、そんな表情をしていた。
「…はぁ…はぁ。若っ!どうだ?ちょっとは変わってきた気がするけど…。」
「…そうね…。何となく、私もいつもより変わってきた気がする。」
紀良と高津は、それぞれ僅かながらに手応えを感じていた。
「うん、まだ修正できるとは思うけど、2人とも確実に良くなってる気がするよ。
あとは、日頃から少しずつ、体幹とか必要な部分を鍛えていけば、もっと良くなると思うよ。」
こうして、若越のアドバイスの甲斐あってか、少しずつ2人の走りも変わっていった。
_
数日後、放課後のホームルームにて。
「…はーい、みんな。テストお疲れ様。
みんなよく頑張ったね?今回の赤点は誰もいなかったみたいね。
…じゃあ約束通り、みんなで学園祭の役割、決めちゃおうか。」
2年4組の担任である龍井先生は、上機嫌にそう言った。
クラスメイトは盛り上がりを見せながら、学園祭に関する話し合いはスムーズに決定していった。
「…じゃあ、後は体育祭の出場種目ね…。
徒競走とクラスリレー…あとは選抜リレーの選手が決まればって感じね。」
黒板に板書をしながら、龍井先生がそう言うと、大橋が勢いよく立ち上がった。
「若越ぇっ!今年も徒競走かましてくれんだろ?
蘭奈だっけか?今年こそ、あいつに勝ってくれよ?なぁ?」
大橋が突然名前を出した事で、クラスメイトの視線は若越に集中した。
しかし、若越はそんな事を気にする素振りはなく、黙って手を上げて話し始めた。
「…先生。徒競走、今年うちのクラスの代表は、紀良くんが良いと思いまーす。」
若越がそう言うと、クラスメイトがざわつき始めた。
白羽の矢が立った紀良も、驚きながら若越の方に振り返った。
「…おいっ、何言ってんだよ若っ!
…大橋の言う通り、俺より若が歯切った方が絶対いいだろ?」
慌てる紀良の姿を、若越はニヤリと笑みを浮かべながら見ていた。
「…さぁ?どうかな。俺は光季が走る方が、全然意味がある気がするけど…?」
すると、若越の隣の席でバドミントン部の雛町 姫佳と、紀良の隣の佐藤が揃って若越の方を向いた。
「…えっ、若越くん走らないの?」
「去年あんなに速かったのに…若越くん今年なら勝てそうな気がするけど…。」
そう言う雛町と佐藤の2人に、若越はまたも笑みを浮かべながら、口元に人差し指を当てて静かにするように合図した。
「…良いから。今年は光季に走らせたいんだよね。俺は。」
そう言う若越は、そっと少し離れた席から若越を見ている高津の姿を見ており…。




