第92話:Unseen World
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日曜日、学校も部活も休みという事もあり、若越は家で1人テレビを見ていた。
母、歩実華は今日も仕事である為、家には若越しかいなかった。
静かな部屋の中に、テレビの音が響き渡る。
『世界陸上、男子棒高跳び決勝。
…バーの高さは6m16cmに上がっています。
この高さをクリアすれば、現在の世界記録である6m15cmを15年ぶりに更新する偉業となります!』
実況アナウンサーの熱の入ったコメント共に、1人のアメリカ代表選手が映し出された。
『…この高さに挑みますのは、24歳アメリカのエース、ケルン・ロドリゲス選手ただ1人ですっ!』
若越は、彼の事を知っていた。
ふと、若越はテレビ台の脇にある戸棚の上に飾られた、写真の一枚に視線を送った。
そこに写っていたのは、若き日のケルンの姿と、浮地郎、歩実華、そして、小学5年生11歳の時の跳哉自身であった。
ケルンは僅か18歳という若さで、世界陸上の舞台に足を踏み入れた。
当時、浮地郎は34歳。
既にベテラン枠ではあったものの、日本代表としては最後となる世界陸上に挑んでいた。
浮地郎は惜しくも、予選落ちの結果に終わってしまったものの、ケルンは弱冠18歳ながら、5m95cmの記録で世界3位を記録した。
それから、驚異的な活躍を見せていき、次第に世界大会上位の常連にまで登り詰めていった。
その彼が今、文字通り"誰よりも、高い空"の一歩手前にいる。
若越は、6年前の記憶を蘇らせながら、あの日出会ったアメリカ人の優しいお兄さんの勇姿を、しっかりと目に焼き付けていた。
『…初の世界陸上出場から6年。3年前にはアメリカ記録も更新しましたケルン…さぁ…その跳躍は…っ!』
実況が熱く語る最中、ケルンは長いポールの先を高く持ち上げて、1歩1歩力強く且つ素早く足を動かしている。
テレビの中で、ケルンは力強い踏み切りから、一瞬にして6m以上高い空へと跳んでいった。
『ケルン・ロドリゲスが…世界一の空を…越えたぁぁぁぁぁぁぁっっっっ!!』
『うわぁぁぁぁぁっっっ!!!凄いっ!凄いですっ!』
テレビからは、実況アナウンサーと解説者の興奮する声が聞こえて来た。
映像の中のケルンは、見事な跳躍でマットに着地すると、そのまま勢いよくマットを駆け降り、各国代表のライバルたちと喜びを分かち合った。
そして、観客席から見守っていた多くのファンの元へと近づいて、大きくガッツポーズをしながら喜びを爆発させていた。
(…これが…"誰よりも、高い空"…。)
若越は、ただただ黙ってソファーに座りながら、テレビに映るケルンの跳躍のハイライトを、呆然と見つめていた。
その時、若越は強い衝撃を受けたような感覚を覚えた。
(…いや…これか…っ!これだったんだ…。
…俺が本当に求めたかった…父さんが求めていた…目標…『誰よりも、高い空を跳ぶ。』って…。)
若越は思わず、テレビを見ながら立ち上がった。
膝の上に乗せていたテレビのリモコンが、ゴトリと音を立てながら床に落ちる。
気がつくと若越は、両手を強く握りしめながら、テレビに視線を釘付けにしながら、呆然とテレビの前に立ち尽くしていた。
(…そうか…そうだよな…。
ライバルたちに勝つ…伍代先輩を越える…それももちろん、『誰よりも、高い空を跳ぶ。』だった…。
…でも本当は…父さんが求めていたものは…これだったんだ…。)
その時、若越の脳裏に1つの光が通った。
これまで求めてきた、目下の目標、相手、記録。
しかしそれは、ほんの通過点にしか過ぎなかった。
(…インターハイ…高校生として勝つ事は、1つの通過点なんだ…。
それを追い求めた先にある、大きな空…"世界の空"を制することこそ、『誰よりも、高い空を跳ぶ。』ってことなんだ…。)
若越は、リビングの隅にある仏壇に視線を送った。
"38歳"という若すぎる死を遂げた父親の笑顔の遺影は、やっと大切な大きな事に気がついた17歳の息子の成長を喜んでいるようにも見えた。
(…そうだよな。だったらまず、俺がやらなければならない事…。
俺は、伍代先輩のように全国で勝つ。
…なんとしてでも、あのポールを使いこなす…。
…そして、狙う先は…"5m55cm"の空だっ!!)
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次の日の昼休み、若越は突然紀良に校舎の屋上に呼び出された。
若越が屋上に辿り着くと、そこには青空に流れる白い雲を、呆然と座りながら眺めている紀良がいた。
「…なんだよ、光。こんなところ呼び出して、改まって話なんて…。」
若越は少し億劫そうに紀良にそう言うと、紀良は空を見上げたまま大きく息を吸った。
そしてゆっくり、口を開いた。
「…若にはちゃんと言わなきゃって思ってな…。
…俺、杏珠と付き合う事になったんだ。」
紀良に近づく若越の足が止まった。
それは、衝撃というより驚きであった。
「…えっ?」
理由もわからず、若越は目を丸くしながら紀良を見た。
紀良は、改めて若越に視線を送ると、ゆっくりと説明し始める。
「…あぁ。言ってなかったんだけどな、俺…杏珠の事ずっと気になってて…。」
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「…俺も、若や蘭みたいなかっこいい姿、見せたいんだよ。だから、部長引き受けるって決めた。
…変わったねって所、見せたかったから。
見てもらいたかったから。」
高津にそう言う紀良の目は真剣であった。
初めて見せる彼の真剣な眼差しに、高津は少し戸惑いつつも、真っ直ぐ紀良と視線を合わせた。
「…えっ…?」
高津の口から思わず溢れ出したのは、その一言であった。
「…杏珠、俺…杏珠の事…好きだ。」
紀良は何度も、最も適した言葉は何かを脳内で試行錯誤した結果、率直な言葉が溢れ出したかのようにそのまま伝えた。
高津はただただ目を丸くしながら、口を少しだけ開きながら紀良の顔を見ていた。
彼女は暫く、何が起きたのかを判断するのに時間を要していた。
「…これ以上、上手い言葉も綺麗な台詞も見つからねぇ。
…だから、これが俺の気持ちだ。」
高津の呼吸が早くなるのを目に見えて感じた紀良は、そう言って何とかその場を繋ごうと必死になっていた。
漸く視線を動かした高津は、そのまま足元を見下ろして俯いてしまった。
そして、そっと息を吸う。
「…何で、私…だったの?」
高津の口から出たのは、その言葉であった。
その問いに対しても、紀良は間髪入れずに丁寧に答えた。
「…初めて…肯定してくれたんだ。俺の事を。」
紀良は一言そう言うと、視線を空に向けた。
「…前にも言ったけど、俺には特段"才能"はない。
それに、これといった特技もない。
…何もかも"普通"で"平凡"。
それがいい事もあるのかもしれねぇが、俺はそれが途轍もなく"嫌"だった。
…周りに認めてもらえる…褒められるような要素の1つもねぇ。
…だから、少しでも何か周りよりも秀でたい。
それが、"陸上"を選んだきっかけだった。
…足が速ければかっこいいとか、周りに認めて貰えるなんて、小学生みたいな考え方とは少し違う。
何か1つでも、頑張って打ち込めるものがあれば、俺のこのつまらねぇ毎日も楽しくなるのかなって。
…そんな気持ちが強かった。
…でもまあ、現実そんな甘くなかった。
やっぱり、俺が何か秀でる事を求めるのは違うのかって迷った時、杏珠が肯定してくれた。」
紀良はそこまで言うと、再び視線を高津に向けた。
「…"人それぞれだから。続ける…進み続ける理由なんて。"
"負けない"努力"をすれば、可能性はゼロじゃない。それは私も同じだから。"
…杏珠のこの言葉に、俺が大した事ない思ってた事も、信じ続けていいんだって…努力し続けたっていいんだって肯定された気がしたんだ。
…杏珠はそんなつもり、無かったのかもしれないけど…。
…だから、例え大した事ない思いでも、信じて努力し続けた先の、成長した俺の姿を…1番近くで見て欲しいって思ったんだ。…杏珠に。
…それが、俺の気持ち。」
紀良はそこまで言うと、深呼吸をした。
高津に伝えたい事の全ては、紀良の口から、紀良の言葉で確かに全て語り尽くした。
高津は依然、俯いたままであった。
2分程の沈黙の後、漸く高津は顔を上げた。
その瞳は僅かに潤んでいながら、普段あまり見せない優しい笑顔を、彼女は紀良に見せた。
「…私、あの時光季がそんな事思ってたなんて…全く思ってなかった。
…だから…私が無責任に君に、"縛り"を課してしまってたのかもしれないね…。」
高津がそう言うと、紀良は慌てて首を横に振った。
「…"縛り"だなんて…。」
紀良がそう言いかけた時、被せるように高津が言葉を続けた。
「…でも、大丈夫。…光季には、私がついてる。
例え私たちの努力が、報われなかったとしても…全員から否定される事なんて無い。
…私はちゃんと見てるから。
…今までも、"これから"も…。」
高津はそう言うと、紀良に向かって一歩近づいた。
2人の距離は僅かにしか空いていない。
少しでも蹌踉めけば、どちらかにぶつかってしまう距離にいた。
「…私も好きだよ?光季の事。
…少し大人ぶってる所も、それでも勉強も運動も卒なくできる所も、意外とすぐ落ち込んじゃう所も、誰よりも周りをちゃんと見てる所も。
…だからさ、これからは…"私のこと"を、ちょっとだけでいいから…多く見ててくれない?」
そう言って微笑む高津の顔は、紀良も初めて見る表情であった。
それは恐らく、若越や蘭奈はもちろん、巴月も知らない顔…。
紀良は、微笑む彼女の頭に優しくそっと手を乗せた。
「…もちろん。"これからも"ちゃんと見てるから。」
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昼下がりの空を見上げながら、事の次第を語り終えた紀良の顔を、若越は口角を上げながらニヤニヤと見ていた。
「…よかったな?光季。」
若越のイタズラなニヤつき顔に、紀良は怪訝そうな顔をしたが、若越はすぐに真面目な顔つきになった。
「…いや本当、よかったじゃん。
"高校生活を充実して楽しみたい"って言ってたでしょ?
…正に順風満帆王道ストーリーって感じだな?今。」
若越のその言葉に、紀良は改めて驚いた顔をした。
紀良が1年半前に言った些細な言葉を、若越はしっかりと覚えていた事が、紀良にとっては衝撃だった。
「…それだけじゃねぇよ。」
キーンコーンカーンコーン…♪
紀良がそう言った時、昼休みの終わり5分前を告げる予令が鳴った。
「…あっ、次移動教室じゃね?早く行こうぜっ!」
若越は慌ててそう言うと、急いで教室に戻ろうとした。
紀良はその後ろ姿を黙って追いながら、若越の後ろ姿を見つめていた。
(…お前にも本当感謝してるよ。若。
…お前がいなかったら…強くなりたいって思いも…杏珠との仲も…みんなとの仲も無かった気がする…。
…俺も絶対、忘れる事はないからな。
若越 跳哉の、『誰よりも、高い空を跳ぶ。』って目標。
…いつになったっていい。絶対叶える姿…見せろよな。)
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その日の放課後のホームルームで、担任教師から2枚のプリントが配られた。
1枚は夏季休暇明けテストの日程、もう1枚は学園祭についての書類であった。
「…えー、まあ言うまでもないと思いますけど、明日から夏休み明けのテスト期間が始まります。
…2年生だからって、この夏休みを無駄に過ごしてしまった人たちがもし、いるとするなら…今日は真っ直ぐお家に帰って勉強するように。」
若越、紀良、高津の2年4組のクラス担任である、現代文担当の若い女性教師がそう言うと、クラスはざわつきはじめた。
「まな先生~っ!真っ直ぐ進んだら壁にぶつかっちゃいますよ~!」
「たっつー先生、現代文甘くしてくださいよ?天凪だけに~!」
サッカー部の大橋をはじめとする数人の生徒たちは、担任の龍井 天凪を勝手にあだ名で呼びながら、そうやって囃し立てていた。
「もーっ!うるさいよ~?あんたたちーっ!
そんな事言ってると、知らないよ~?
万が一赤点出たら、体育祭の出場種目と文化祭の役割、私が勝手に決めちゃうからね?」
龍井先生はそう言って頬を膨らませて見せたが、その様子に怒っていると感じている生徒は殆どおらず、むしろ大半からは"可愛い"とすら思われていた。
それでも龍井先生のその一言は、クラスの生徒たちのテストへのやる気に火をつけた。
「やってやろうじゃん?いいよなぁ?みんな。」
大橋は、相変わらずの煽り口調でクラスの皆に同意を求めた。
特に異議を唱える者もおらず、2年4組ではテストで赤点が出れば、担任が学園祭のクラスでの役割の全てを決める事が約束された。
クラス中が盛り上がる中、若越はそっと前の席の紀良の背中を叩いた。
紀良が慌てて振り返ると、若越は口に手を当てながら、紀良の耳元に小声で囁いた。
「…なぁ、今年の徒競走、光季行けよ。」
若越の突然の提案に、紀良は驚いた。
「…はぁ?無理だろ。俺より若の方が速いだろ?
…それに、どうせ今年も蘭が出てくるだろ?
…俺には若みたいな接戦出来ねぇって…。」
紀良が消極的になっていると、若越はすかさず言い返した。
「…なぁに、そんな事もねぇって。
それに、ぶっちゃけ俺テスト自信ない。
俺に勉強教えてくれ。…そしたら、俺がもっと速く走るコツ、教えてやるよ。」
若越はそう言うと、片目を瞑って紀良にウインクしてみせた。
…とても、人に頼み事をしている側の態度とは思えなかったが、紀良は渋々了承した。
「…はぁ。わーったよ。
…その代わり、赤点取ったら"たっちゃん先生"に決められちゃうんだから、徹底的に勉強すんぞ?」
「…もちろん、そのつもりだって。」
その日の放課後、宣言通り紀良はマンツーマンで若越に勉強を教えた。
気がつくと、校舎の閉まる20時を越えようとしていた…。




