第88話:Still, still
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5m52cm。
かつて、新潟県上越南央高校の若越 浮地郎が記録したその高校生記録は、未だ誰にも破られていない圧倒的な記録であった。
その、僅か1cm上。
5m53cmの記録に、伍代は今、食らいつこうとしていた。
5m40cmを3本目に成功させ、驚異的な逆転で優勝の座を掴み取った伍代は、バーの高さを"5m53cm"に引き上げた。
1本目、2本目を失敗し、残されたチャンスは1回…。
(…それでも、まだってことねぇ…。)
助走路に立つ伍代は、"5m53cm"のバーをじっと睨みつけていた。
"インターハイ優勝"を勝ち取ってもまだ、その顔に笑顔が溢れることはなかった。
(…信じるしかない。…俺の…可能性を…っ!)
伍代は大きく息を吸って、ポールの先を高く持ち上げた。
「…行きまぁぁぁぁっす!」
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5m40cmを成功させた伍代は、真っ直ぐ控えテントの若越の元に向かった。
「…伍代先輩、敵わないですって。…優勝、おめでとうございます。」
若越は、伍代の目を真っ直ぐ見ながら、曇りのない顔でそう言った。
「…若越…大丈夫なのか?」
唯一の直属の後輩の、珍しく素直な賞賛に対し、伍代は心配そうに若越を見ながらそう言った。
「…心配させてすみません。大事なときに…。
…俺の中途半端な思い上がりの結果です。
…今はもう、身体の異変も特にないです。」
若越はそう言うと、伍代に深々と頭を下げた。
周りの決勝メンバーたちは、2人の対話をただ黙って見守っていた。
「…そうか…。俺のことは気にしなくていいから。
…自分を、もっと労れ。若越。」
伍代はそう言うと、タンマグで白くなった手を若越の頭に置いた。
「…俺はな、若越。1人じゃ、ここまで来れなかった。
…もちろん、有嶋さんや玻菜…桃木がいてくれたのもそうだけど。
…やっぱり振り返ってみて1番は、若越、お前がいたことが大きい。
…あの日、お前が入学してすぐの時。
俺はお前の気持ちを何も考えずに、お前にしつこく声をかけてた。
…今思えば、それがたくさんお前のことを苦しめ、傷つけてたって思う。
…本当、申し訳なかった。」
伍代はそう言うと、若越の頭の上に置いた手を外し、若越に軽く頭を下げた。
若越は、初めて聞く伍代の本音に、様々な感情が込み上げてきた。
しかし、それをすぐに抑制すると、再び伍代の目を見た。
「…今更…そんな事いいですよ。
それに、伍代先輩に無理矢理にでも引っ張って貰えなかったら、俺はここまでの1年半を絶対無駄に過ごしてました。…間違いないです。
…だから…俺はそれなりに感謝してますよ。
技術的な事とかも、色々参考にさせて貰いましたし。
…それ以外でも、学び経験できたことはたくさんあります。」
若越はそう言うと、伍代に向かって拳を突き出した。
「…先輩、やるんでしょ?"5m53cm"。
…越えてくださいね?…でないとまだ完全に…
"俺の気持ちを無視して無理矢理誘った"先輩のこと、許せないかもしれないので。」
若越は、相変わらず伍代だけに見せる生意気な態度と一緒に、珍しい笑顔でそう言った。
~
伍代は、力強く地面を蹴りながら走り、力強く地面を蹴って跳び出した。
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春から夏にかけた、長きインターハイの戦いは幕を閉じた。
男子棒高跳びは、驚異的な逆転劇をみせた伍代が、"5m40cm"の記録で優勝。
伍代の目標であった、若越 浮地郎の高校生記録を越える"5m53cm"は、惜しくも失敗に終わった。
雪辱を果たすべく挑んだ若越であったが、その戦いは無情な結果にて幕を下ろす事となった。
インターハイ全国大会を迎えた頃に、学校は既に夏休みに突入していた。
全国大会を終えたばかりという事もあり、部活動は2日間の休暇期間が設けられた。
夏の暑さは本格的となり、外に出るには少々億劫になる気温であった為、若越は1人で家の自室で横になっていた。
昨日、病院での精密検査を受けて、大きな問題は見つからなかった。
しかし、それは有形な物にとっては。
若越の心の傷は、未だ深く残されたままである。
大きく引きずるような事はなかったものの、なかったことには出来ずにいた。
(…終わっちゃった…か。…全部…。)
扇風機の風が、生温い空気を室内に循環させているからか、若越の額には汗が滲み出ている。
とはいえ、冷房機器の使用は体に良くないと、彼は頑なに壁に掛け付けられたリモコンを手に取ることはなかった。
手を伸ばせば掴み取る事が出来そうな快適さにすら、その手を伸ばす事が出来ない。
若越は全てを投げ出すかのように、大の字になって部屋の床に転がった。
ピコリンッ♪
突然、スマートフォンが音を鳴らした。
スマートフォンの画面に光が点ると、そこにはメッセージを送った相手の名前とメッセージの冒頭が表示されていた。
『弓ヶ屋 千聖
跳哉さん…病院の結果どうでした…?…』
その相手は、弓ヶ屋であった。
メッセージの内容は以下の通りである。
『跳哉さん
跳哉さん…病院の結果どうでした…?
何もなければ、幸いです。
インターハイの日、跳哉さんに生意気な事言ってすみませんでした…。
…あの、跳哉さんが良ければなんですが…
お詫びしたいので、この後お会いできませんか?
…突然、すみません…。』
メッセージの内容に一通り目を通すと、若越は素早く指先でスマートフォンの画面を操作し、カレンダーアプリを開いた。
スケジュールを確認すると、再びメッセージアプリに戻り、弓ヶ屋のメッセージに返信した。
『お疲れ様。
改めて、インターハイの時はありがとう。
不甲斐ない結果でごめんね…。
それと、心配かけちゃってこちらこそすみません。
俺はもう全然元気だし、この後も何もする事がないから、大丈夫だよ。
どこか、行きたいところとかあるの?』
そのメッセージを打ち込む若越の顔は、無表情であった。
メッセージ送信後、弓ヶ屋のメッセージ閲覧表示はすぐには出てこなかったので、若越はそのままスマートフォンの画面を切って、ぼんやりと天井を眺めた。
(…何であの時、弓ヶ屋はあんなに必死になってくれたんだ…。
…それに、弓ヶ屋の言葉があったから、今辛うじて自分を保ててるのも事実…。
…俺の方こそ、弓ヶ屋にお礼しなきゃだな。)
それから、話が進むのはあっという間であった。
気づけば若越は、出かける支度を整えていた。
すると突然、若越の元に紀良からの着信が入った。
「もしも…。」
『あっ、よかった。ちゃんと生きてっか?
…全く…心配したぜ…。』
紀良は、若越が話すよりも早くそう言った。
それ程、紀良は若越を心配してた。
『…ってか、メッセージ見た?
この後、もし大丈夫だったら、みんなで集まらね?
花火大会の事とか、計画したいし。
今のところ、杏珠、蘭、七は来るって言ってる。』
紀良がそう言うと、若越は電話中にも関わらず、少し考え事をして黙り込んでしまった。
若越は、紀良に言われて初めてそのメッセージに気がついた。
弓ヶ屋との約束を今し方取りつけてしまったという若越のスケジュールを、皆は知らない。
日頃、割と突発的なスケジュールでも参加する方の若越は、誘いの最適な断り方を知らなかった。
『…若?聞いてる?』
あまりにも反応がない為、思わず紀良はそう問いかけた。
「…あー…悪ぃ。ちょっと先約があって…。
花火大会の日はちゃんと予定空けてるから、みんなで決めちゃってよ。
俺は異論なし。」
若越は少し考えた結果、紀良からの誘いをそう素直に断り、弓ヶ屋の誘いを選んだ。
『…えー?んだよ…。まあ、しゃーなしか。
じゃあこっちで決めとくけど、お前文句言うなよ?』
「…言うわけないだろ?文句言える立場じゃねぇって。すまんが、頼むわ。」
若越がそう言うと、紀良との電話は終わった。
考えて選んだ結果ではあるものの、若越は自分の決断の理由について、全く明確なものがなかった。
言うならば、殆ど"直感"で選んでいた。
その事を頭に浮かべながら、何気なくスマートフォンの時刻表示を見て、若越は少し慌てた。
若越の予定出発時間は、5分過ぎていたのだ。
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若越と弓ヶ屋は横浜駅で合流した。
「…ごめん、弓ヶ屋。久々に来たから駅の中迷っちゃって…。」
人混みを掻き分けながら、申し訳なさそうにそう言う若越の姿を見ると、弓ヶ屋は満面の笑みを見せた。
「あっ!跳哉さん!…全然ですよ!私も、さっき着いたばかりなので。
それより、こちらこそすみません…。
試合でお疲れのところ、お誘いしてしまって…。」
若越と会えた事を喜ぶ笑顔を見せつつ、弓ヶ屋はそう言って申し訳なさそうな顔をした。
「いやいや、全然。…ってか、部活とか学校以外で会うの初めてだから…なんか新鮮だね。」
若越がそう言うと、弓ヶ屋は急に恥ずかしくなったのか、顔を真っ赤にした。
「…そっ…そうですね!あはは…。」
そう言って揺れる彼女の髪が、やけに柔らかく若越には映っていた。
いつもは下ろしただけのボブヘアの髪だが、今日は毛先だけが少しだけ巻かれていて、風を受けるたびにふわりと揺れた。
白のレースブラウスは、繊細な花模様が袖口に広がっていて、その下の淡い花柄スカートと静かに馴染んでいた。
耳元では、小さなシルバーの羽のイヤリングが揺れている。
羽の内側には、透明な石がひと粒。
眩しい夏の日差しを受ける度、きらりと光った。
それに、表情がいつもより明るく見えた。
若越には分からないレベルの薄化粧を施している弓ヶ屋に、若越は少し見入っていた。
「…変…じゃないですか?」
恥ずかしそうにそう言って笑う弓ヶ屋は、いつものマネージャーの時に比べて、少し大人びて見えていた。
「…変じゃないよ!?寧ろ、かなりお洒落だなぁって思った…。俺…ファッションとか疎いけど…。」
若越は少し照れ隠ししながらそう言うと、慌てて周囲を見渡して言った。
「…って、こんな所で立ち話もあれだし…どっか入ろっか?」
そうして2人は、駅に隣接する百貨店にあったカフェに入った。
注文した飲み物が届き、お互い一口だけ口にした直後、2人は同時に話し始めた。
「…あっ、跳哉さん…。」
「…弓ヶ屋…あのさ…。」
2人とも、そこまで言いかけて止まった。
そして、互いに驚くような顔を見合わせていた。
「…あっ、先輩からどうぞ…。」
弓ヶ屋は恥ずかしそうに、小さく胸元の辺りで両手を差し出すジェスチャーをした。
若越は遠慮しながらも、弓ヶ屋の心遣いを受け取った。
「…あっ、ごめん…。
…いや本当、ごめん…。
インハイ…あんな無様な結果に終わっちゃって…。
…いつも練習手伝ってくれてる弓ヶ屋には、申し訳ないなって…思って…。」
若越のその言葉に、弓ヶ屋は少し引っかかっている様子であった。
「…申し訳ないなんて思わないでください。
それに、素人の私なんかより、桃木さんの方が余っ程若越さんの力になってた…はずです。
…後輩の私が、偉そうなこと言えませんが…。」
弓ヶ屋は、申し訳なさそうにそう言った。
若越は、弓ヶ屋の言葉に出てきた"桃木"の名前に、少し胸の奥がズキっと痛む感覚を覚えた。
「…そうかもしれない…でも、そうじゃないんだ…。
…実は、ね…。」
若越は少し考えた後、そう言って弓ヶ屋に全てを打ち明けた。
インターハイ予選の後の出来事、それによって惑わされていた決勝の自分の事、そして、ポールを折った後の事を…。
何故、弓ヶ屋にそれを打ち明けようとしたのか、若越自身が明確に説明できる理由はなかった。
それでも、弓ヶ屋に初めて全てを打ち明けた事で、若越はほんの少しだけ、胸の内に秘めていた重くて暗い塊のようなものの苦しさから解き放たれた気がした。
弓ヶ屋は黙って若越の話を聞き続けた。
途中、耳を塞ぎたくなるような事実を知ったものの、弓ヶ屋は最後まで黙って頷いていた。
そして、重い口を開いた。
「…そんな事が、あの時あったんですね…。
…私に話てくれて、ありがとうございます。
私も、不安に思ってた事がスッキリしました。」
弓ヶ屋はそう言うと、視線を目の前の飲み物に移した。
「…結局、全部中途半端な結果に終わってしまったんだ…。
ももさんへの気持ちも、インハイも…。」
若越も、手前にある自分の飲み物に視線を落としながら、そう呟いた。
すると、弓ヶ屋は顔を上げて若越をじっと見た。
「…跳哉さんは、凄いです。」
弓ヶ屋がそう言うと、若越は驚いたように彼女を見た。
「…えっ…。」
「…だって、色んな重たいものを背負いながら、5mっていう高いところを跳んだじゃないですか。
…私だったら、多分、跳ぶより前に押し潰されちゃいます。
それでも挑んだ跳哉さんは、本当に凄いです。
…憧れます。
いや、憧れてます。ずっと…。」
弓ヶ屋は、そこまで言うと急に黙り込んでしまった。
若越の事を考えながら、若越への想いを1つ1つ話していくうちに、ふと我を思い出したのだ。
(…待って!…私…このまま行ったら…余計な事まで言っちゃいそう…。)
弓ヶ屋はそのまま俯き、必死に赤面する顔を隠そうと抗った。
一方の若越は、弓ヶ屋の言葉の1つ1つを噛み締めながら、自らへと昇華していた。
(…そっか…。
…俺はこれまで…余計な事もたくさん…自分で背負いこみながら…。
…そりゃ勝てねぇよな、伍代先輩に。
…伍代先輩は、敢えて決勝前にももさんに、気持ちを伝えたんだ…きっと。
…だから…自分に与えていた、自分自身の負荷を下ろしたから、あんな跳躍が出来たのか…。
…気づかなかった…気づけなかった…。
…これが、俺の"弱さ"だったんだな…。)
若越は弓ヶ屋の言葉で、これまでの自分の選択の過ちを振り返り、そして答えに辿り着いた。
「…ありがとう、弓ヶ屋。…また君に助けられた気がする。
…それと、あんまり自分の事を卑下しなくてもいいからね?
…俺は君からも、大切な事をたくさん教えて貰ってる気がするから。
…だから、次は負けないよ。
これからも、宜しく頼むね。弓ヶ屋。」
若越がそう言って、その話は終わった。
その後も暫く2人は色々な話をした。
カフェを出て、みなとみらいの方面まで歩いていた頃には、辺りは薄らと夕暮れ始めていた。
19時を回った頃、2人は再び横浜駅に帰ってきた。
「…弓ヶ…。」
「…跳哉さんっ!」
若越がそう言いかけた時、先に弓ヶ屋が若越に話しかけた。
しかし、今度は弓ヶ屋が譲らずに、そのまま話続けた。
「跳哉さん、私に色々話してくれて…私を頼ってくれて、ありがとうございます。
…伍代さんと桃木さんが引退しても、跳哉さんは"1人じゃない"です。
…私が力になれるなら…何でも協力しますっ!
…だから…また、跳哉さんのかっこいい跳躍、見せてくださいねっ!」
弓ヶ屋はそう言うと、若越にニッコリと笑顔を見せた。
もう既に太陽は沈みかけている筈だったが、若越には、青空に燦々と輝く太陽のように見えていた。
「…ありがとう、弓ヶ屋。頼りにしてる。」
2人はそう言って、帰路についた。




