第86話:Layer & Break
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『…んぱいっ!…ょうや先輩っ!…跳哉先輩っ…!!』
…誰かが呼んでいる…。
…でももう、辞めてくれ。
…俺はもう、求めることも、求められることも…。
『…うや…かごえ 跳哉…若越 跳哉っ!』
誰かが呼んでる…?
男の人…知ってる声…?
…父…さん…?
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若越が目を覚ますと、そこは医務室のベッドの上であった。
目の前には、血相を変えて自分を見ている有嶋と、目に涙を浮かべた弓ヶ屋と、その弓ヶ屋の背に手を添えながら宥めている睦小路の姿があった。
「…俺…一体…。」
若越の記憶は、踏み切った後にポールの湾曲に合わせて、身体を振り上げた所で止まっていた。
「…折れたんだよ…ポールが。
…本当焦ったぜ…。良かった、目を覚ましてくれて…。跳哉の身に危険が及んだら…。」
有嶋は、安心したようなため息を吐きながらそう言った。
「…とりあえず、一旦診察をします。
競技続行可能と判断したら、競技に戻れますが…。」
医療スタッフはそう言いながら、バタバタと診察の準備をしていた。
若越は、ひとしきり医療スタッフからの検診を受けると、医療スタッフは大きく息を吐いた。
「…まあ、現状目立った異常は見られません。
一応、若越さんの3本目の試技は、ポール破損で無効となってますので、もう1度挑戦する事が可能です。
恐らく、まだ男子棒高跳びは中断されたままなので、これから戻って競技を続ける事も出来ますが、どうされますか?」
医療スタッフがそう言うと、若越は大きな衝撃を受けた。
若越が棒高跳びを始めてから初めてのケースであり、若越自身もその判断に迷っていた。
「…跳哉、無理に続ける必要はない。
今お前の身体は、ポールが折れた衝撃を受けているだろうし、メンタル的にも正常ではないはずだ…。
ここで無理して続けて、これからや来年に響く方が俺はリスクだと思う。
…こんな事、俺から言う事ではないのかもしれないが…そのリスクを冒してまで今戦う必要は、俺は無いと思ってる。」
医療スタッフの言葉にショックを受け、俯く若越に有嶋はそう言った。
棒高跳びの経験のない有嶋が、若越の今の状態を完璧に共感は出来なかった。
しかし、だからこそ有嶋は、無理をさせない方向に促したのであった。
「…でも…。」
漸く発した言葉を、若越は言いかけて止めてしまった。
"今回の相手と戦えるのは、今回しかない。
他のライバル選手たちが、必ず来年も出てくるとは限らない。
今年は今年しかない。"
そう言おうとしたが、それは若越自身が過去に否定した、伍代の意思と同じであった。
"どんな状況だろうと、できる限りやり尽くしてやり切る。そこに本当の結果が付いてくる。
その結果を踏まえて、次なる目標を目指したい。"
それが、あの時伍代の出した答えであった。
(…今の俺に、果たして"できる限りやり尽くしてやり切る"事が出来るだろうか…。)
若越は、胸中で自分自身に問いかけた。
(…俺はどうしたい…?
…こんな気持ちのまま、中途半端に…。
…やっと分かった気がする。
1年前に、音木先輩の言ってた意味が…。)
「…すみません。…僕は…ここで競技終了…します…。」
力無い声で、若越は医療スタッフにそう告げた。
医療スタッフはただ一言、分かりました。とだけ答えると、運営や審判員に急いで報告をしに向かった。
「…跳哉、お前が決めた事だ。後悔する事はない。
…また気持ちが落ち着いたら、一緒に上を目指そう。」
有嶋はそう言うと、ベッドに座って項垂れる若越の肩をそっと叩いた。
悔しい気持ちは、有嶋も一緒であった。
予選の跳躍が誰よりも高かった分、この結果は誰がどう見ても"悔しい"以外の気持ちが見つからなかった。
すると、有嶋の後ろで黙って泣きそうな顔をしていた弓ヶ屋が、若越の元に歩み寄り、スッとしゃがみ込んで若越の顔を見上げた。
そして、手に持っていたスポーツドリンクを、黙って若越に差し出した。
若越はその様子を、光を失った目で呆然と見つめている。
「…跳哉さん。…私の目には、跳哉さんの跳躍が誰よりも1番かっこよく見えてます。
どんなに失敗しても、どんなに無謀と言われる高さに挑戦してても…もちろん、成功しても。
…私みたいな素人に言われても…跳哉さんにとっては何の意味もないかもしれないですけど…。
…でも私、もっと見たいです。跳哉さんのかっこいい跳躍姿。
…だから…絶対また見せてくださいね?
…跳哉さんの…かっこいい姿…。」
そう言う弓ヶ屋は、優しい太陽のような温もりある笑顔で、泣いていた。
「…あり…がとう…。」
今の若越には、弓ヶ屋が泣いている意味が分からなかった。
正確に言えば、その意味を考える程の余裕が、今の若越の頭になかった。
…しかし、その若越の心には、ほんの小さな種火が灯されたような感覚だけは、確かに感じていた。
(…これが、"青春"ってやつ…か。)
有嶋は、黙って弓ヶ屋と若越のやり取りを見つめ、胸の中でそっとそう呟いた。
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棒高跳びピットにも、若越の継続中止の知らせが舞い込んだ。
それにより、男子棒高跳び決勝は、5m05cmの3本目最終跳躍者、江國の試技から再開された。
審判員より再開の知らせを受けた伍代は、観客席の最前列に来ていた桃木の元に駆け寄った。
「若越、大丈夫なのか?」
スタンドとグラウンドは少し距離があるので、伍代は桃木に聞こえる声でそう問いかけた。
不安そうな表情の桃木は、ホームストレート側を見ながらそれに答えた。
「…分からない。有嶋コーチ、弓ちゃん、茉子ちゃんが、若越くんの所には行ってるけど…。」
「…そうか。無事なら良いけどな。」
伍代はそう言うと、大きく深呼吸をした。
「玻菜っ!有嶋さんがいない間、こっから俺の跳躍でなんか細かい異変があったら教えてくれっ!
…ポールを上げる。ぶっつけ本番だっ!
でも、それでいい。そうしなければいけないっ!
…負けらんねぇ。絶対勝ちに行くっ!」
そう言い切ると、伍代は控えテントに戻って行った。
桃木は伍代の後ろ姿に、むさ苦しい程の熱いオーラを感じていた…。
(…拝璃…大丈夫かな…?
…ううん…でも、今は信じるしかないよね…。)
桃木の脳内には、昨年のインターハイ予選での伍代の故障による敗退の様子が、鮮明に思い出されていた。
しかし、目の前に映る彼の姿は、あの時とは明らかに違う。
桃木はもう、伍代を信じるしかなかった。
マネージャーとして、幼馴染として。
…そして、伍代 拝璃の彼女として。
競技再開となった男子棒高跳び。
江國の3本目は失敗に終わった。
江國であるが故、若越の事故が影響しているなんて事は全くなかった。
バーの高さが、5m10cmに上がった。
残る跳躍者は、宙一、大ヶ樹、志木、桐暮、森川、伍代の6名である。
2本目までを終えて、この高さを通過しているのは、志木、桐暮、森川、伍代の4名であった。
3本目。助走路に立つ宙一は、ふとこの1年間を振り返った。
(…ふっ…やっぱりこういうところなんだよなぁ…。
…結局、最後まで直りやしなかった。
…この1年、思うように調子が出せなかった。
新人戦も、南関までの予選も…。
昨日の予選だって、100%だったかと言われれば、そうじゃねぇ…。
…全く、最後の1年だってのに…これじゃあ後輩たちに何も残せねぇっての。)
控えベンチには江國、スタンド席には弟の皇次と、1年生の柏宮が宙一の姿を見ていた。
(…だからさ、最後の最後くらいは頼むぜ?
もし、陸上の…"棒高跳びの神様"ってのがいるならよ。
…でも、大丈夫。神頼みなんて必要ねぇ。
土壇場でひっくり返してやるよ…"全国4位"の実力、舐めんじゃねぇってのっ!!)
宙一は、観客席をチラッと横目で見ると、頭の上で大きく数回手を叩いた。
"手拍子"の要求である。
宙一の要求に、観客席から大勢の手拍子が始まった。
その様子は、1年前宛らである。
宙一の、獲物を仕留める寸前の豹のような鋭い目つきは健在であった。
彼はまだ、全く諦めていなかった。
(…若越、悪かった。
この1年、俺は去年のお前の気持ちを痛い程味わった。
…"全国4位"のプレッシャー背負いながら負ける屈辱、周りの冷やかし、落胆の声…。
…1年前、お前は同じ"声"を浴びせられてたんだよな…。
…それにしても、やっぱすげぇよ。
"若越"の名は伊達じゃねぇ…。)
宙一は大きく息を吸うと、「しゃぁぁぁぁっ!!!」と叫んでポールの先を持ち上げた。
(…ついでにもう1つ、謝らせてもらうよ。
…悪いが今回は、気まぐれな"陸上の神"は俺の味方のようだ。
…伍代、お前の好き勝手やらせてたまるかよ…。
仮にも俺は、一時的にお前を越えた数少ないうちの1人なんだからなぁっ!!!!)
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっすっ!!!!!!!!」
「「「「「「「「はぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!!!!!!」」」」」」」」
宙一が大きな声で出走宣言すると、観客席からも大きな声で反応が上がった。
助走路を勢いよく駆け抜け、力一杯地面を蹴り空へと跳び出していくその姿は、最早"ただの高薙 宙一"ではない。
"全国4位の実力者、高薙 宙一"であった。
宙一の身体は、5m10cmのバーを悠々と越えていき、ふわりとマットの上へと着地した。
「…っしゃぁぁぁぁっ!!」
宙一のガッツポーズに、観客席から大歓声が湧き上がった。
その姿を、助走路の奥からじっと睨みつけていたのは、大ヶ樹であった。
(…ちっ、宙一の奴…何でこんなに土壇場に強いんだよ…。)
3本目までもつれ込んだ焦り、会場の熱気、そしてここまでの展開全てに、大ヶ樹は苛立ちを隠せずにいた。
(…5m10だぁ?どぉってことねぇっ!
越えりゃいいんだろ?…やってやろうじゃねぇかっ!)
大ヶ樹は大声で「行きまぁぁっす!」と宣言し、助走路を走り出した。
それでも、先程越えたばかりの自己ベストより更に5cm上の高さは、そう簡単に大ヶ樹に軍配を傾けてはくれなかった。
バーと共にマットに落下した大ヶ樹は、目を閉じて右手で顔を覆った。
澄んだ青が広がる空の明るさが、今の大ヶ樹にとっては眩しすぎたのだ。
ため息と落胆の声が聞こえてきていた観客席から、ふと1人の拍手の音が聞こえてきた。
大ヶ樹は、顔を覆った右手を離して観客席を見ると、そこには立ち上がって真っ直ぐ大ヶ樹の姿を見ながら、ただ1人拍手を送るチームメイトの石橋 圭也の姿があった。
石橋の拍手は次第に連鎖して、観客席から大ヶ樹に向けて大きな拍手が送られた。
(…ったく、圭の奴…。
…何でお前がここにいねぇんだよ…。
俺は…お前と全国大会でやり合いたかったんだよ…言っただろ?
…そんなところでのこのこと、拍手してる場合じゃねぇって…。
…ったく、何でお前がそんな泣きそうなツラしてんだよ…。
…泣きてぇのは、こっちの方だよ。全く。
…まぁでも、楽しかったよ。圭、お前のおかげ…でな。)
大ヶ樹はゆっくり立ち上がると、観客席に向かって一礼をした。
頭を下げた時に、目頭から雫がマットにこぼれ落ちた。
…汗ではない。それは、大ヶ樹の精一杯の気持ちであった。
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暫く安静を言い渡された若越を医務室に残し、有嶋と弓ヶ屋、睦小路は再び観客席に戻っていた。
「…大丈夫?千聖…。」
睦小路は、隣を歩きながら俯いてため息ばかりを溢している弓ヶ屋にそう言った。
「…私は…大丈夫。…跳哉さんが…。」
睦小路は何度も弓ヶ屋を心配して声を掛けたが、弓ヶ屋はそうとしか答えなかった。
ふと、ずっと黙っていた有嶋が2人に話しかけた。
「…弓ヶ屋さん。君は跳哉の事が好きなのか?」
突然の有嶋の質問に、弓ヶ屋は歩きながらもビクッと反応を見せた。
睦小路も、普段の有嶋がしそうにない質問に、思わず、えっ!と声を漏らした。
「…私が陸上部に入った理由は、跳哉さんなんです。
…ずっと、茉子ちゃんからも誘われてましたが…最終的に入ろうって思ったきっかけは、跳哉さんです。
…跳哉さんのかっこよさに…一目惚れ…して…。」
弓ヶ屋は、自分でそう言いながらも今にも泣きそうになりながら、顔を真っ赤にしていた。
有嶋はその弓ヶ屋の顔を確認すると、茶化す事なく淡々と話し続けた。
「…そっか。跳哉が、誰かにそう思って貰えるようになったなんてね。
…浮地郎…跳哉のお父さんにも、教えてやりたかったよ。」
有嶋はそう言いながら、通路の天井を見上げた。
そして、大きく息を吐きながら、更に続けた。
「…弓ヶ屋さん、睦小路さん。
跳哉は今、恐らく俺たちが想像する以上に、大きく心を折られている…。
これから、俺と一緒にあいつを立ち直らせるの、手伝って欲しい…。」
有嶋がそう言うと、弓ヶ屋と睦小路は互いに目を合わせた後、大きく頷いた。
そうして、3人が観客席に帰ってきた時。
棒高跳びピットは、5m15cmの3本目。
マットの上には、大の字で天を仰ぐ宙一の姿と、5m15cmに掛けられていたはずのバーがあった。
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(…やっぱり、"陸上の神"って奴は気まぐれすぎるぜ…。)
青く広がる空を呆然と眺めながら、宙一は笑っていた。
足元にはバーがあり、審判員は赤旗を上げている。
宙一の5m15cmの試技は失敗。
5m15cmを伍代、森川、桐暮、志木が成功している事で、宙一は昨年より1つ順位を落とす5位の結果が確定している。
その筈であったが、宙一は笑っていた。
(…陸上始めて8年…棒高始めて5年半ってところか…。
…どうだ?宙一。これで満足か…?
…満足…な訳ねぇよな…。
…まあ、これからどうするか。
全国大会も終わった事だし、ちゃんと考えるとするか…。)
宙一は自分自身と語り合い、満足するとマットの上に立ち上がり、観客席に一礼した。
観客席からは、大きな拍手が送られた。
また1人、ここで全国大会の幕を下ろす事となった。
残すは4人。
全国大会のクライマックスは、熾烈な上位争いによって描かれる事となった…。




