第83話:Floating Memories
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その夜、若越はとある夢を見た。
夢というよりは、"過去の出来事を思い出した"という方が正しいのかもしれない。
・・・
それは、若越が中学1年生になって間もない頃。
「…どうだ?跳哉。中学校は。」
2週間のヨーロッパ遠征を終え、久しぶりに家に帰ってきた浮地郎は、2週間ぶりに顔を合わせる息子にそう問いかけた。
「…うーん、どうって言われても…まあ別に。
これと言って、特別なことは何もないかな。」
跳哉はというものの、父親との久々の会話を楽しむような事もなく、淡々とそう答えた。
「…なぁ、好きな子とかできたか?」
そう問いかける浮地郎の顔は、不気味にニヤついていた。
「いや?別に。そういうの、あんま興味ないかな。
…今は、棒高上手くなる方が楽しいし。」
跳哉の味気ない答えに、浮地郎は悲しそうな顔で残念がっている。
「…んだよ… 。中坊なんだから、そろそろそういう浮いた話の1つや2つ、父さんに聞かせてくれよなぁ~。」
浮地郎はそう言うと、改まって息を吸う。
「…たまには、跳哉に俺の話をしてやるよ。」
浮地郎はそう言うと、頭の上に視線を送り、感慨深く何か過去の出来事を思い出していた。
「…俺が母さんと出会ったのは、東京体育大学時代でな。
母さんは、知っての通り千葉県の人で、千葉でも有数の強豪校の出身だったんだ。
俺は新潟の上越南央高校の出身でな。そんな俺でも、全国とかで何回も名前を聞いたことあるくらいの、凄い学校の選手だったんだ。
母さんの時は、そりゃもう一目惚れだったよ。
…母さん、美人だろ?
同級生が何人も、母さんの事狙ってたんだよ。凄いだろ?」
父親の口から初めて聞かされた、2人の学生時代の話。
跳哉は時折頷きながらも、あまり興味を示してはいなかった。
「…まあ、母さんの話はまた今度、いっぱい教えてやるよ。
んで、俺が今の跳哉と同じくらいの時かな。
俺はその時、福岡にいたんだ。親父…じいちゃんがまだバリバリの仕事マンだった時かな。
俺が中学2年の頃に、じいちゃんは新潟に転勤になったんだ。それで、高校は新潟県の高校に進学したんだけど…。
…まあ、そんな事はいいや。
俺が、中学に入学してすぐの時だったな。
…俺がこれまで、母さん以外で好きになった、唯一の女の子に出会ったんだ…。」
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「…浮地郎くん。君、福岡の子やないとやね。
福岡、楽しか?」
突然声を掛けてきたのは、隣の席の女子だった。
同級生にしては少し大人びて入るが、背も低く見た目はまだ少し小学生に近い。
まだまだ耳馴染みのない博多弁ではあったが、浮地郎は何となく彼女の言っている事が分かっていた。
「…どうかなぁ、まだこっち来て間もないから、遊びに行ったりとかしてないんだよね。
神奈川とか新潟とか、親の仕事の関係で、色んな所転々してるから。」
小学生の頃の友人が全くいない環境に、浮地郎はまだまだ内気で大人しい。
少し余所余所しく、彼女の問いにそう答えた。
「…そっか。大変なんやね。
私、浮地郎くんと仲良うなりたいっちゃけど。
…ダメ、かな?」
彼女は突然、浮地郎にそう言った。
浮地郎は、何の疑いもなく頷いた。
「もちろん、ダメなんて事ないよ。」
浮地郎がそう答えると、彼女は優しい笑顔を見せた。
「よかった!ありがとね。
私もまだ、中学で初めて会う子たちばっかりやけん、ちょっと慣れんくて…。」
彼女はそこまで言うと、何かを思い出したかのように表情を急変させた。
そして、浮地郎の目を真っ直ぐ見ながら話し始めた。
「…あっ、忘れとった。
私、芽白 一音やけん。
よろしゅうね!」
芽白の真っ直ぐで曇りのない瞳、笑うと細くなる目元、少し首を傾げた時に靡く髪を、浮地郎は鮮明に記憶した。
そして、初対面の浮地郎に何の抵抗もなく話しかけて来た女子は、彼女が初めてであった…。
~
「…その時かなぁ。初めて、『あっ、俺この子の事好きだな』ってなったのは。
…まあでも、当時の俺は彼女の気を引くような事は何も出来なくてな。
結局、俺が新潟に引っ越しちゃって。
当時はまだ、今みたいに連絡先の交換なんかもしてなかったから、彼女とはそれっきり。
俺も新潟行ってからは、棒高漬けの日々だったから、それから浮いたような事は無かったなぁ…。」
浮地郎は、感慨深くそう語ると、再び跳哉の姿を見ながら話し始めた。
「…まあ、俺はその後大学で母さんと出会ったし、どうやら彼女も、風の噂で聞いた話だけど、当時の俺の中学の陸上部の先輩でいた、"十和味 晴彦"さんって人と結婚して、今は跳哉と同じくらいの歳の子がいるらしいけどな。
…まあ、お前も焦らず、頑張れよっ!」
浮地郎はそう言うと、少し強めに跳哉の背中に平手打ちをした。
浮地郎は満面の笑みを浮かべていたが、跳哉は突然の父親の行動に困惑し、痛がる様子を見せていた…。
・・・
(…ってぇ…。)
何年も前に亡き父に叩かれたはずだったのに、その夢の光景で目を覚ました跳哉の背中は、少しジンジンと痺れていた。
若越は体を起こして隣のベッドを見ると、紀良はまだぐっすり寝ていた。
外はまだ少し薄暗く、寝巻きとして来ていたTシャツと短パン姿の若越は、ベランダに出ると少し身震いした。
(…『お前も頑張れよっ!』…かぁ…。
…父さん、俺には…無理かもしれない…。)
若越の視界の先にあるのは、日の出のほんの少し前の、薄青みがかったオレンジ色とのグラデーションの空。
その空に向かって、若越は手を伸ばした。
そして、すぐにその手をぶらんと下ろす。
(…俺にはまだ…届かない”空"が多すぎる…。)
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インターハイ全国大会、3日目。
大会の山場であり、羽瀬高にとっても"男子100m決勝"と"男子棒高跳び決勝"の、2つの重大なプログラムを控えていた。
男子棒高跳び決勝は13:00から。
若越たち羽瀬高陣営は、8:30には会場に着いていた。
時刻は9:00。
10:00からはじまる男子200m予選に出場する音木の応援の為、羽瀬高陣営はまとまって観客席に向かった。
しかし、若越はその輪から外れて、1人サブトラックにてウォーミングアップを始めようとしていた。
その姿を巴月だけが気がついていたが、彼女は昨前夜の出来事から、若越に声を掛けられずにいた。
彼女はまだ、昨夜の伍代と桃木の出来事を知らない。
(…跳哉くん…。)
巴月はただ、黙って若越の後ろ姿を見ているしか出来なかった。
若越はサブトラックにつくと、入念に準備運動を始めた。
座ってストレッチをしていると、そこに黒地に金のラインマークと"福岡国際"の文字の入ったジャージ姿の十和味の姿があった。
彼女が自分の元に近づいてきている事に、若越も気がついた。
「若越くん、おはよっ!
早かねぇ…気合い入っとー感じ?」
十和味は笑顔でそう言った。
若越も、作り笑顔のような不自然な笑顔で声をかけた。
「おはようございます、十和味さん。
…いやぁ、そういうわけじゃ…。
なんか、落ち着かなくて…。」
若越は、笑顔とは不釣り合いな、弱々しく覇気のない声でそう言った。
「…そうばいねぇ…落ち着かんよねぇ普通。
…全く、朝からギャーギャーしゃあしゅう、ふじゃけ合うとーうちんバカ2人にも、見習うて欲しかばい。」
十和味は少し不機嫌そうにそう言った。
彼女は恐らく、千賀と万ヶ峯の事を言っているのであろう。
若越は、愛想笑いをするしか出来なかった。
「…そげ言やあ、今日はうちも頑張るけんね!」
十和味が突然そういうと、若越は漸く自然な表情で驚いた。
「…えっ?」
「…えっ?やなかよー!
君たちん決勝ん前に、今日は女子棒高跳びん決勝もあるやろ?
…うち、それに出ると!」
十和味はそう言うと、目を細めながら満面の笑みを見せ、首を少し傾けながら、若越に見せつけるようにピースサインをした。
首を動かした事で、彼女の結んだポニーテールがゆらゆらと揺れている。
「えっ、あっ、そうなの?
…ごめん、全然知らなかった…。
それは頑張ってね!」
若越は驚きつつも、形式的なエールを彼女に送った。
若越のその反応に、少し不服そうに十和味は頬を膨らませながら眉間に皺を寄せた。
「…全くー。…ま、余裕あったらうちん事も応援しとってな!
…ばってん、君も決勝やけんね。
まずは若越くんも、決勝全力で頑張りんしゃい!
うち、君ん事応援しとーし、期待しとーけん。」
十和味の表情は再び笑顔に変わった。
万華鏡のように変幻自在に、感情に合わせて変わる彼女の表情に、若越は何気なく目が離せなくなっていた。
「うちんバカ2人、最近ちょっと強うなったけんって調子乗っとーけんしゃ。
1回あん出鼻へし折って、地に足つけしゃしぇたかっちゃんね!
やけん、頑張りんしゃい!」
十和味はそう言うと、手を振ってウォーミングアップに戻って行った。
若越は強い衝撃を覚え、5分ほどぼんやりしていたが、若越もストレッチを終えウォーミングアップに向かった。
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競技場では、男子の200mの予選が始まろうとしていた。
男子100m同様、全9組にて行われ、各組上位2着までと2着以降の上位6名までが、タイムレースで行われる決勝に進む。
その予選第1組。
第5レーンに、音木はいた。
(…何回も、スタートラインには立ってきたし、今までどうって事なかったはずなのに…。
…今日は一段と、気持ちが浮つく…。)
音木はスターティングブロックの後ろに立ち、何度も深呼吸をしていた。
自らの呼吸の音に集中しようとも、競技場の観客の声だけではない、様々な雑音が音木のそれを邪魔する。
(…勝馬も拝璃も、全国の舞台で決勝まで行ってるんだ…。
…俺が、置いて行かれるわけには…っ!)
『…On Your Marks…。』
ざわついていた競技場の音が、一斉に静寂に変わった。
風の音とフィールドでの競技の音だけが、競技場には残っていた。
音木は覚悟を決めて、ボヤける視界の中でゆっくりとスターティングブロックに足をかける。
『…Set…。』
素早く、腰を浮かす。
全体重を両肩に乗せ、合図があればいつだってフルパワーで飛び出せる状態にあった。
ガシャンッ!!
パァァァァン!
パァァン!パァァン!パァァン!
第1組の8人が一斉に飛び出すも、すぐに数回のピストルの音が鳴らされた。
その音に、少し走り出していた選手たちも、スピードを緩めて立ち止まる。
これが意味するのは、『フライング』。
スタートの合図であるピストルの音よりも、0.1秒未満で動くと判定され、原則1回で即失格となる厳しいルールである。
競技場がざわついた。
トラックの選手たちにも、緊張感が走る…。
審判員が即座に集まり、協議をした。
再びスタートラインに戻る選手たちは、その緊張感を隠しながら、各々太腿を叩いたり天を仰いだりしていた。
選手たちがスターティングブロックの後ろまで戻ると、審判員の協議が終わったのか、1人の審判員が走って選手たちの前に現れた。
赤いカードを高々と掲げる審判員が立ったのは、第5レーン…音木の前であった。
眼鏡を外しており、視界がボヤけていた音木にも、その赤いカードだけはハッキリと見えていた。
暫く立ち尽くしていると、すぐに審判員が音木を誘導し、レーンから外されてしまった…。
(…えっ…何で…!?…何でだよ…チクショウっ!!!)
音木は混乱し、右手で顔を覆いながら、審判員に肩に手を置かれながら、ゆっくりと競技場から姿を消した。
その後、競技は滞りなく進んでいった。
選手たちが荷物を置いている場所で、ユニフォーム姿の音木だけが、ただ1人微動だにせずに座って顔を埋めたまま…。




