第78話:Place was Aiming for
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男子200m決勝。
静けさが、競技場を包み込む…。
『…On Your Marks…。』
第4レーン。
音木は目を閉じて、軽い走馬灯のようなものを思い出していた。
七槻と出会った時、陸上と出会った時、羽瀬高に入学しようと決めた日。
音木が走ってきた距離よりも、長い道程と時間。
それは、一瞬の速さで彼の脳内を走り抜けた。
(…行くよ。勝が行ったんだから。
俺が付いて行かなくてどうする。)
『…Set…。』
音木は、スターティングブロックに足をかけ頭を下げると、そっと目を閉じて全神経を耳に集中させた。
フィールド種目が進行する音、スタンドで観客が小さな声で話す音、人の動く音、風の流れる音。
ほんの僅かな音ですらも、音木の耳には届いていた。
パァァァァン!!!
1番大きく強く、鼓膜を刺激する音が鳴った瞬間、音木の全身が勢いよく動き出した。
予選とは違い、レーン中央を走る音木はまたしても、自らが走るレーンの白枠だけを視界に捉えながら、コーナーを駆け抜けていく。
ホームストレートへと突入しようかという時、音木は1つ外側の第5レーンの選手の前に出た。
外側の選手を捉えたという事は、既に音木が全体の前に出ている事を示している。
全ての選手がホームストレートに突入すると、音木は先頭を静かに駆け抜けていた。
後続の選手が、必死に音木の背中を掴もうと踠いているが、その背中にさえ触れさせまいと、音木はスッと後続を引き剥がしていく。
"消音"の異名が、またも南関東大会にてその実力を見せつけた。
"21.38"
音木がゴールラインを越えると、タイマーは速報タイムをそう示した。
予選から更にタイムを上げるも、走り終えた音木は涼しい顔で電光掲示板を見上げていた。
(…先行ってるぞ。勝、拝璃。
お前らもさっさと来いよ。)
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男子棒高跳びは、バーの高さが5mに上がった。
ここまで来ても尚、4名の選手が優勝争いを行っている。
第1跳躍者、千葉県日高高校、霧島 零
(…ここで勝つ…勝ってみせるっ!)
助走路に入った霧島は、何やらぶつぶつと呟いていた。
"勝利のイメージ"をただひたすらに、その身体に染み込ませていた。
(…伍代が何だ…若越が何だ…江國が何だ…っ!
勝つのは…俺、霧島だぁぁぁっ!)
霧島の1本目の跳躍は、バーの上まで身体を浮かせられず、高く上げた足裏でバーを蹴落とす形で失敗となった。
第2跳躍者、東京都継聖学院高校、江國 途識
(…踏み切り…クリアランス…。)
相変わらず江國の脳内は、自らの技術的内容でいっぱいであった。
ライバルへの勝利に強欲な霧島も、5m越えを狙う若越も、頂点を狙う伍代も、江國の眼中にはない。
(…常に…成功のイメージだけを…。)
大きく息を吐くと、江國はゆっくりと走り出した。
伍代や若越のような助走のスピードは感じられないが、偉大な跳躍を魅せるには十分な助走であった。
力強く地面を踏み切ると、その大きな身体が空中ブランコのように大きく振り上げられる。
"精密機械"。彼を評する言葉の象徴であるが、それ故に模範解答のような見事な空中動作を披露した。
身体の遠心力、体格故に使える強いポールの反発力、そして寸分の狂いもない動き。
その全てが、紛れもない"結果"として周囲を圧倒し、魅了した。
審判員の白旗が上がり、江國が一気に1位に躍り出る。
マットの上からぼんやりと5m上空のバーを眺める江國の表情に、色はない。
江國はスッと立ち上がると、淡々とポールを受け取りマットを降りた。
第3跳躍者、東京都羽瀬高校、若越 跳哉
(…こっからが本番…やってやるっ!)
直前の江國の成功跳躍の余韻が、観客席からの騒めきとして若越を襲う。
霧島、江國の跳躍時には僅かな追い風が吹いていたものの、若越が助走路に立った瞬間、吹き流しが右へ左へと振られている。
しかし、風向きに左右される若越では、もうなかった。
(…5mを越える…『誰よりも、高い空を跳ぶ。』んだっ!)
高く跳び上がった若越の身体は、5mのその上にいた。
しかし、僅かに乱れた跳躍の動きが、簡単にはバーの上を無傷で越えさせてはくれなかった。
マットの上に仰向けになる若越は、大きなため息を吐いた。
(…あと少し…あと少しなのに…っ!)
若越も1本目を失敗。霧島と共に2本目を迎える形となった。
第4跳躍者、東京都羽瀬高校、伍代 拝璃
伍代の脳内では、1年前の景色が蘇っていた。
『…これで漸く決心しました。…僕は先輩に勝ってみせる。
来年先輩がいい景色を見るチャンスは、僕が潰してみせます。』
1年前のインターハイ全国大会。
肉離れによる故障で、予選敗退を余儀なくされた伍代に放った、若越の"宣戦布告"。
未だ若越が伍代に勝つ結果を出してはないものの、伍代の予想以上の早さで、若越は伍代に追いついてきている事を、伍代も薄々感じてはいた。
(…本当に、凄いやつだよ…若越 跳哉。
全盛期の若越 浮地郎を彷彿とさせやがる…。
…日本人には無謀だとされていた、昨今のオリンピック決勝に残る、前人未到の先駆者…。
あの人の"目標"への執着心、今の若越と全く同じだ…。)
何度もテレビで見てきた若越 浮地郎の活躍。
幼き伍代少年にとって、彼は"スーパーヒーロー"であった。
その"スーパーヒーロー"の面影を、その息子から伍代は感じていた。
(…だから…悪いな、若越。
俺も"若越 浮地郎"みたいになりたいんだ。
…憧れてるから、やる事はあの人と一緒だ。
ー"目標"を全力で勝ち取りに行く。ー
だから、負けるわけにはいかない。
若越がどんなに追いついて来ようとも、引き剥がし続けてみせるっ!)
伍代の跳躍は、正に"王者の風格"であった。
失敗するような気が全くしない。
安心感のある助走、踏み切り、空中動作は、5mのバーの上を悠々と越える跳躍を繰り出した。
伍代がマットに落ち、審判員の白旗が上がると、大歓声がスタンドから聞こえてきた。
その声に、伍代は笑顔を見せながら軽いお辞儀で応えるも、満足そうな素振りは全くなかった。
(…浮地郎さん。あなたは、高校3年生で
"5m52cm"の自己ベストですよね…。
…未だ破られていない"高校記録"…。
…俺が、塗り替えてみせます…っ!)
全国出場権を手にしても尚、熾烈な争いを繰り広げている男子棒高跳び決勝の様子に、観客席の睦小路は痺れを切らしていた。
「…はぁ…。流石にこんな試合見せられたら、自信なくなるって…。」
そう言ってため息を吐く睦小路を、綺瀬は優しく宥めた。
「…そうね…。でも、寧ろこうとも言えるわ。
"私たちにも、伍代先輩たちのようになれる可能性がある"ってね。
…そう思えば、私は自信とかよりも、やる気が出てきた気がする。」
確かに、そう言う綺瀬の目は輝いていた。
まだ全国大会ではないものの、同じくらい激しい戦いが繰り広げられている様子が、彼女のやる気に炎を灯しつつあった。
一方、そう話す2人の隣でじっとグラウンドを見つめているのは、弓ヶ屋であった。
(…お願いです…神様…。
…跳哉先輩に…笑顔になって欲しいです…。
…だから…だから、この"5m"を越えさせてあげてください…っ!)
胸の前で硬く両手を握り締めながら、弓ヶ屋は何度も何度もそう願っていた。
(…もし…私が跳哉先輩を想う気持ちが…仮に届かなかったとしても…跳哉先輩が勝って笑顔になれるなら…私はそれすらも捧げます…っ!)
練習の時、若越は余り笑顔を見せなかった。
常に眉間には皺を寄せながら、どんなに側から見て綺麗な跳躍でも、全然納得してる様子は、弓ヶ屋には見えなかった。
唯一、桃木と話をしている若越にだけは、辛うじて笑顔を見せる時がある事は、弓ヶ屋も知っていた。
しかし、それは自分と話をしている時にも見せる顔もあったが故に、彼女は大きく気にはしていなかった。
今の彼女が願うのは、"若越が納得して笑顔を見せるパフォーマンスができること"。
競技者でなければ、本人に力を貸せるわけでもない。
"個人競技"、"マネージャー"…様々な要素が、残酷にも弓ヶ屋に祈る事しか出来ない状況に陥れている。
5mの2本目の試技。
残された若越と霧島は、大きな重圧を背負っていた。
若越は僅かに、先を行く伍代と江國に対し焦りを感じていた。
一方の霧島は、江國と若越と肩を並べている事に少々浮き足立っているのか、余裕を取り繕っている。
しかし、その余裕も束の間。
霧島は2本目の試技も失敗に終わった。
少々背伸びをした跳躍だという事は、見ている観客席にも伝わっていた。
霧島が落としたバーが戻されている間、若越は助走路で自らのポールのグリップ部を見つめていた。
右手で握る部分に巻いた白のテーピングには、臙脂色の跡が数カ所残っていた。
このポールを使い始めた頃の、疑心暗鬼で強く握りしめていた事による、若越の手の血肉刺が弾けて着いた、血の痕。
若越は、その中で一際大きく着いた血痕の部分を、タンマグを馴染ませた指で優しく撫でた。
その痕は、白い粉で少しコーティングされて薄まった。
(…今度こそ、信じてるよ。"誰よりも、高い空を跳ぶ"、俺の"翼"になってくれ…。)
バーが戻されると、審判員が白旗を振り下ろした。
若越はそれを確認すると、深呼吸をする。
(…"誰よりも、高い空を跳ぶ"には…超えるしかないっ!)
若越は祈りを捨て、己を信じてポールの先を持ち上げた。
観客席から見守る桃木の表情も険しかった。
(…大丈夫だよ、若越くん。
今の君なら…きっと…。)
桃木の思いが届いたのか否か、吹き流しが強い追い風を示す。
~目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。~
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!!」
「…はぁぁぁぁいっ!!!」
走り出した若越は、脳裏である感覚を思い出していた。
新入生歓迎会で披露した、陸上部のパフォーマンス。若越の跳躍。
あの時よりも、少し重いポールを持ってるはずなのに、身体は何故か軽く感じられていた。
"黄金の翼"と、"強い後押し"
勢いに乗った助走のまま、若越は力強く地面を蹴った。
いつもはここで、ポールの強い反発力に力負けしてしまう事もあったが、その素振りは一切ない。
~『…跳哉、空は引っ張ってはくれない。
自分から、地面を押し返して、重力に反くイメージだ。』~
若越の身体が上下反転すると、ポールの反発力が綺麗に伝わり、その身体を空高くに放り出した。
ポールを手放し、バーの上を越えれば成功する。
右腕をバーの上に通す時、若越の視界はゆっくり時を過ぎるかの様な、スローモーション感覚に陥った。
現実にも、いつもよりも長い対空時間が、若越に確実なクリアランスを行う時間を設けた。
身体は、5mよりも更に上に到達している。
ポールを手放した右腕さえ、その上を通過できれば、若越は漸く1つの大きな壁を越える事となる。
(…誰よりも…高い空を…跳ぶ為に…っ!)
強い初夏の日の光が、宙を舞う若越を神々しく照らし…。
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気がつくと、若越はマットに仰向けになって大の字になっていた。
歓声や競技の音が聞こえる筈の耳から、何も音がしない。
目に映る晴天だけが、ただゆっくりと移り過ぎ、真っ青な世界だけが、若越の前に広がっていた。
少し遅れて、若越の耳に観客席からの大歓声が聞こえてきた。
その音の大きさに気を取り直すと、若越はある事に気がついた。
(…バーが…落ちて…ない…!?)
若越が慌ててマットの上に立つと、審判員が白旗を挙げていた。
『…フィールドの男子棒高跳び…羽瀬高の若越くんが、5mを2本目でクリアしました…!』
競技場のアナウンスで、漸く若越は全てを理解した。
「…っっしゃぁぁぁぁぁぁあっ!!!!」
珍しく感情を露わにして、若越はマットの上で強いガッツポーズをしながらそう叫んだ。
ずっと自らを縛り引き摺ってきた過去。
"全中優勝者"、"4m97cmの中学記録保持者"、"若越 浮地郎の息子"。
遂に感情を解き放った若越は、正しく自らを縛り続けてきた3つの呪縛と決別し、その背中に"黄金の翼"を携えた。
しかし、まだ終わりではない。
若越の戦いは、漸くスタートラインに立ったに等しい。
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「…よっしゃぁっ!」
「…やったぁぁぁ!!!」
有嶋と桃木は、互いにハイタッチしながら、自分の事のように喜びあった。
2人はまるで同い年の友人かのように、心の底から若越の5m到達を共に祝福していた。
「…うわぁぁぁぁ!!!!」
「…やったっ!」
睦小路と綺瀬も、思わず拳を上げながらそう叫び、立ち上がっていた。
その隣では、弓ヶ屋が呆然と座って目を見開いていた。
マットの上で珍しく感情を露わに笑顔を見せる若越の姿に、次第にその瞳から涙がこぼれ落ちていた。
(…これだ…私が憧れた…私の心を動かした…跳哉先輩の跳躍…っ!)
ホームストレート側の観客席からも、若越の跳躍はしっかりと見えていた。
「…やったぁぁぁっ!」
巴月の目にも涙が溢れていた。
その喜びの勢いのまま、巴月は蘭奈の両肩に手を置いて、激しく蘭奈の身体を揺らした。
「…やった…やったよ!陸っ!
跳哉くんが…5mを超えたよっ!」
巴月にガンガン身体を揺らされているにもかかわらず、蘭奈はただ黙って棒高跳びピットを見ていた。
(…跳哉…。)
蘭奈は、仲間の勇姿をただ呆然とその目に焼き付けていた…。
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その後、霧島は3本目の跳躍も失敗に終え、4位となった。
残すは3人。
浮地郎の記録した"5m52cm"越えを見据える伍代。
更なる高みに、ただ淡々と歩を進めんとする江國。
そして、念願の記録を超えても尚、伍代への勝利に燃える若越。
南関東大会の、勝負の行方は…。




