第77話:Beyond the Wall
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インターハイ南関東大会
男子棒高跳び決勝は、バーの高さ4m85cmの1本目の試技が終了していた。
この時点で、1本目で成功を収めた宙一、大ヶ樹が共に現状1位。
1本目を失敗した皇次、江國と、4m85cmをパスし、続く4m90cmに挑む若越、伍代が同率3位。
そして、4m80cmを2本目で成功し、4m85cmの1本目を失敗した霧島が7位となっている。
その後、2本目に挑んだ皇次、江國、霧島が揃って4m85cmを成功した事で、全国大会への切符争奪戦は、4m90cmの試技へと持ち越しとなった。
その4m90cm、1本目の試技。
第1跳躍者の皇次はこれを失敗。
悔しさと苛立ちを露わに、舌打ちをしながら荒々しくマットを降りようとした皇次は、ふと強烈な殺気を感じた。
(…なんなんだよ…霧島は…っ!)
皇次が落としたバーが、補助員によって再び設置されている中、早くも次の跳躍者である霧島は助走路に立っていた。
しかも、既にしっかりと両手でポールを握りしめながら、今か今かと鋭い目線で準備の様子を睨んでいる。
これには、流石の皇次も苛立ちを忘れて、そそくさと控えベンチへと戻っていった。
そこには、兄である宙一が待っていた。
「…皇次、そろそろ集中して本数稼いでいかないと、この先持たないぞ…?」
「…んなこたわーってるよっ!…それより、何なんだよあいつ…。背筋が凍るようなオーラを感じた…。去年とは別人みてぇだ…。」
兄からのアドバイスを他所に、皇次の視線は霧島に釘付けであった。
「霧島、何があったか知らないが、去年とはまた違う奇妙さを持ち合わせてるな…。俺も警戒しないと、あいつに飲み込まれそうだ。…まあ、皇次も気をつける事だな。」
(…高薙ブラザーズ…何をごちゃごちゃと…。
…お前らには興味ねぇんだよ…。俺はただ、江國と若越を越えて勝利を掴み取る。
…これは"蹴落とし"じゃねぇ…。俺の"夢"だからなぁ…。江國と若越の、もっと先へ行くことがなぁ…!)
霧島は視線を皇次に向けると、不服そうな表情を見せた。
バーの再設置が完了し、審判員が霧島へ合図を出すや否や、霧島はサッとポールを持ち上げて走り出した。
僅かに、これまでよりも助走のスピードが上がっていた。
それは決して、気持ちの高まりによる突っ込み気味なものではない。
助走姿勢も距離も歩数も、全く変わってはいない。
力強く地面を踏み切り、霧島の身体が4m90cmのバーの上に舞い上がっていく。
これまでの跳躍よりも、更にダイナミックな空中動作のまま上がっていく彼の身体は、4m90cmのバーから更に10cm程高い位置にあった。
ポールに跳ね飛ばされるようにバーの上に投げ出されると、そのままバーに触れずにマットの上へと落下した。
歓喜、響めき、悲鳴のような声…様々入り混じった観客席からの歓声が、地面を鳴らすかの如く響き渡った。
審判員も、白旗を挙げるタイミングが微かに遅れていた。
この霧島の成功により、彼は一気に7位から1位へと繰り上がりを見せた。
「…いやぁ…まじかよ…。」
控えベンチで準備をしていた大ヶ樹は、思わずその手を止めて彼の跳躍に見入っていた。
「…あちゃ…こりゃあうかうかしてられないねぇ、大ヶ樹。」
大ヶ樹の近くのベンチに座りながら跳躍を見ていた伍代も、思わず霧島の跳躍に感心してそう言った。
「…はぁ?勝手にうかうかしとけっ!」
少し挑発的な伍代の態度に、大ヶ樹は二重にプレッシャーを感じる事となった。
続く宙一、若越、伍代の3名も、この高さを1本目にてクリアした。
江國は、まさかのここでパスを選択。4m95cmへと挑む事となった。
一方、その大ヶ樹はというと、突然の重圧からか1本目を失敗。
皇次と共に2本目の試技を迎えようとしていた…。
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トラックでは、男子100m準決勝が始まった。
予選第1組には、継聖学院の猪尾と都大附属の不動が出場した。
しかし、不動が5着、猪尾は7着と共に決勝進出を逃した。
第1組の1着通過タイムは10.48、4着の通過タイムが10.61となっていた。
第2組に出場する七槻が決勝に残るには、自己ベストである10.53と同等かより速いタイムが必須となる…。
そして、七槻の隣には…。
第2組の選手が登場し、それぞれスターティングブロックのセットに入っている。
七槻もいつもと同じように、ブロックをセットして足の位置を確かめていると、ふと真横に人影が現れた。
「…まさか、あなたが隣とは…。光栄です。」
そう言って七槻を見下ろしていたのは、村上であった。
七槻は、村上の顔を見るや否や、眉間に皺を寄せて鋭く睨みつけた。
「…気安く喋りかけんな。」
七槻はそう吐き捨てると、村上を無視してスタートの試走を行った。
(…おぉ、怖いなぁ…。妹とは大違い…って訳か。)
村上は、七槻の態度に少し驚きながらも、ニヤリと不敵な笑みを浮かべて、スタートの試走に入った。
自己ベスト10.49、都大会2位の実力が、彼に大きな自信をつけていた…。
準決勝第2組に出場する8名が、一斉にスターティングブロックの後ろに並んだ。
「…なんか部長、いつもよりピリついてへん?」
西澤が不思議そうに、スタートに立っている七槻を見ながらそう呟いた。
観客席から見守る羽瀬高メンバーにも、七槻の変化は伝わっているようであった。
「…まあ、相手が…ねぇ…。」
畠ヶ井はそう言って、七槻の隣の選手を見た。
都内の高校生陸上部員の殆どがその名を知る、"村上 ノア 誠耶"。
そして、都大会で羽瀬高のエースである七槻と蘭奈をも玉砕した強者ということは、部員たちにとって周知の事実であった。
「…なんか寒気してきたわ…うぅさぶっ…。」
西澤はそう言って、両手で肩を摩った。
『…On Your Marks…。』
競技場全体が静寂に包まれ、風の音と僅かなフィールド競技の音だけが遺された。
『…Set…。』
パァァァァン!!!
スタートのピストルが、まるでこれまでの常識を全てひっくり返すトリガーのようであった。
一斉にスタートした8人の中から、真っ先に飛び出したのは七槻であった。
七槻の半身ほど後ろを、村上がピタリと着きながら並走していく。
そして、その状態はどこまで進んでも変わらない。
まるで夢を魅せられているのか、都大会2位通過の村上の前に、都大会4位の七槻がいる。
(…っつ!…何でっ!)
珍しく、村上に焦りが出始めた。
七槻の背中が村上から離れる度に、彼の目には七槻の背中が恐ろしく大きく見えていた。
70m付近を通過する頃、依然先頭を守っていたのは七槻であった。
そして、その後ろを村上ともう1人の選手が猛追する。
七槻の視野には誰もいない。
ただひたすらに、ただ我武者羅に腕を振り、足を前に素早く出す。
(…"勝利"だけが、今の俺が求める全てだ。
1個でも先へ…その先に、俺が欲しい"未来"があるから…っ!)
残り僅かになっても、七槻は失速は愚か寧ろ加速している。
水色の"羽瀬"ユニフォームに手が届いた者は、その時限りは誰1人いなかった…。
" 10.39 "
七槻がゴールラインを越えると、タイマーがそう速報値を出した。
観客席は大いに響めき、次第に歓声へと変わっていく。
ゴールを少し越えた先で、七槻は漸く足を止めると、静かに電光掲示板に映し出される確定結果を待っていた。
その少し後ろで足を止めたのは、村上であった。
村上は、両膝に両手を着きながら、肩を大きく動かして呼吸している。
" 1 七槻 勝馬 羽瀬 10.38 "
" 2 村上 ノア 誠耶 都大附属 10.48 "
七槻は、その結果に目を丸くした。
「…何で…何で急に…こんなに…速く…。」
七槻の背後から、激しく息を切らしながら、眉間に皺を寄せて電光掲示板を睨む村上が、悔し混じりにそう呟いた。
七槻は、衝撃的な結果を受け入れるかのような大きな呼吸をして、村上に言った。
「…さぁね。俺自身、この結果に驚いている。
…でもな、恐らく俺とお前じゃ、"見てる先の世界"が違う。」
七槻はそう言い残すと、ゆっくりとトラックを後にした。
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男子棒高跳びは、4m90cmの2本目の試技を終え、大ヶ樹、皇次共に3本目へと突入していた。
4m85cm時点で大ヶ樹に試技差負けをしている皇次は、これが結果を大きく左右するラストチャンスであった。
(…大丈夫…支部でも都大会でも、90は越えてきてる…落ち着いてやれば…。)
助走路の皇次は焦りを隠せずにいたが、必死に脳内で自らにそう言い聞かせた。
(…支部では95を跳べなくて、若越に負けた…。
…都大会ではこの90で、兄貴に負けた…。
だからもう…負けるわけにはいかねぇっ!)
皇次は、意を決してポールの先を持ち上げた。
しかし依然、呼吸は落ち着かない。
「…っしゃぁぁっ!」
焦りを大声で誤魔化すかのようにそう叫ぶと、皇次は走り始めた。
タイミングよく、背中を押すような追い風も吹いてきた。
勢いの乗った助走のスピードを保ちながら、皇次は強く地面を蹴り付けて、宙へと跳び出した。
(…このまま…若越や江國…兄貴たちに置いてかれるわけにはいかねぇんだよぉぉぉぉぉぉっ!)
気がつくと、皇次はマットの上に仰向けに寝そべっていた。
踏み切った後の記憶は、全て真っ白になって消えてしまっていた。
ただ、その足元にバーがある事だけが、忘れ去ってしまった過程がどうであれ、全ての結果であった。
「…っくそぉぉぉぉっ!」
悲痛な叫びが、辺りに響き渡る。
皇次は4m90cmを失敗に終わった…。
…しかし、その彼にも僅かな可能性が残されていた。
現状、4m90cmを成功している伍代、若越、宙一、霧島、次いで4m85cmを1本目で成功している大ヶ樹の順位となっていた。
そして、4m85cmを2本目で成功、4m90cmを失敗している皇次と、4m90cmをパスしこれから95cmへ挑む江國は、同一順位である。
従って、皇次が全国大会へと出場できる可能性の全てが、江國に懸かっている。
…しかしそれは、江國が4m95cmを失敗に終われば…の話である、が。
無情にも、同校同級生同士の駆け引き展開になってしまった事で救われた大ヶ樹であったが、彼はまだ安心はしていなかった。
助走路で皇次の失敗を確認した大ヶ樹は、必死に脳内で次のシュミレーションを考えていた。
(…こんな所で終わるつもりねぇって…。
上に歳下3人もいるってのに…。
…江國が次、95を失敗する可能性は、限りなく0に近い…。
残念だが、高薙弟はここで終わりってところか…。
…でも、そうすると俺は…こいつらと5m辺りでやり合わないと、6位通過って事になるのか…?
…くそっ…ビリ通過は勘弁してくれよ?)
最上級生の意地とプライドで、大ヶ樹は自らを奮い立たせていた。
(…東京勢の好き勝手させてたまるかよ…。
…"神奈川"だって…"明伯"だって…"大ヶ樹"だって強えって事を、思い知らせてやるっ!)
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!」
大ヶ樹の大声が、棒高跳びピットに響き渡った。
思いがけず、目の前に立ち並ぶ大きな壁。
その壁を越える…全て破壊して越えてみせようとするような彼の気迫が、パフォーマンスから滲み出ていた。
踏み切って宙を舞い、バーの上に身体が通ると、大ヶ樹も確かな感覚を覚えた。
しかし、確実な通過を前にして、大ヶ樹の身体を強い重力が引き寄せる。
それは同時に、バーをも巻き込んでマットの上に落下していった。
審判員の赤旗が上がる。
それでも、全国大会は確実であるにも関わらず、大ヶ樹の顔に笑顔はなかった…。
(…こんなんじゃダメだ…。
次で本当に、高校生最後だっつーのに…。
…全国で絶対、リベンジしてやる…。)
大ヶ樹は、更なる壁を越える事を、静かに誓っていた。
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その後、バーの高さが4m95cmに上がった。
宙一、江國、霧島、若越、伍代の5名がこの高さへと挑んだ。
結果は、伍代、若越が揃って1本目にて成功。
2本目にて、霧島、江國が成功。
3本目、宙一が失敗に終わった。
これにより、大ヶ樹、宙一、霧島、江國、若越、伍代の全国大会出場が決定。
しかし、南関東大会の激戦はまだ終わらない。
寧ろそれどころか、次の5mが大きな分岐点にすらなろうとしていた…。
5mへとバーが上げられている。
その様子を、助走路で待機しながら見守る、霧島。
(…南関東を制し、全国に名を轟かすのは…"霧島 零"だっ!)
霧島の次に試技を控え、ユニフォーム姿でポールを確認する、江國。
(…5mは"ゴール"じゃない。…自己ベストを出す。
そのチャンスは、今日にある…。)
スパイクの靴紐を結び直し、控えベンチで軽くストレッチを行う、伍代。
(…全国は決まった…。あと、俺が今日できる事は…5m…。)
そして、都大会で使いこなす事が出来なかったポールを手にし、それを見つめる、若越。
(…5mを超える…絶対に…。
その為に、"こいつ"に拘ってきた。…無駄には、しない。
…だから、ちゃんと見てて…桃さん、陸…そして、父さん…っ!)




