第76話:The Light is Right there
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インターハイ南関東大会、男子100m予選。
全4組の中から各組上位3着と、3着以下上位4名の全16名が準決勝へと駒を進める。
第2組に登場した七槻は、10.68の記録で組1着。
全体の中でも上位に食い込むタイムで、準決勝を決めた。
男子100mがスタートする中、男子棒高跳びも戦いの火蓋が切られていた。
バーの高さは4m75cmに差し掛かっている。
この高さに挑むのは、東京都から田伏、宙一、皇次。神奈川県からは大ヶ樹、石橋。他県代表の数名が4m75cmの試技に備えていた。
伍代、若越、江國の3名は、4m60cmの跳躍以降、パスを続けている。
そして、ここまで全てパスし続けているのは、霧島ただ1人であった。
「…やっぱり、何回観ててもこの緊張感だけは慣れないなぁ…。」
観客席から見守る弓ヶ屋は、不安そうな表情をしながら、両手を強く胸の前で握りしめ、祈るようにフィールド上の若越たちを見ていた。
「…今日の若越さんなら、なんか奇跡が起きそうな気がする…ってのは、私だけ?」
そんな弓ヶ屋とは違い、綺瀬は少し興味深そうにフィールドの棒高跳びの様子を見ていた。
「…奇跡…かぁ…。」
綺瀬の言葉を反復しながら、睦小路はぼんやりとフィールドを眺めていた。
「…違う。奇跡じゃないよ。」
ふと、そう声を上げたのは、先程まで不安そうにしていた弓ヶ屋であった。
「…奇跡なんかじゃない。…今日、跳哉先輩は確実に勝ちに行ってる…。」
そう言う弓ヶ屋は、つい数秒前の不安顔が嘘だったかのように、日頃見せた事のない程の険しい表情で、フィールドの若越を見ていた。
(…跳哉先輩…私…信じてますから。
先輩は今日、5mを"超える"って…。)
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4m75cmの試技を終え、4m80cmに進んだのは、宙一、皇次、大ヶ樹、石橋と、パス組の伍代、若越、江國、霧島、そして、4m75cmの1本目を失敗し、残りの2回のチャンスに賭ける田伏の9名であった。
全国大会出場は、各種目上位6名。
即ち、ここから3名が脱落する事となる。
最後の大舞台に賭ける3年生の田伏、宙一、大ヶ樹、石橋、伍代と、その先輩をも食ってかかる2年生の皇次、若越、江國、霧島による、壮絶なデットヒートが繰り広げられていた。
4m80cm、1本目の試技。
宙一、皇次、大ヶ樹、江國、若越、伍代の順でそれぞれ成功を収めた。
一方、田伏、石橋、霧島は1本目を失敗し、2本目の試技を迎えた。
助走路に立つ田伏に、大きな重圧がかかる。
(…落ち着け…もう次はねぇ…。
焦る必要はない…。都大会で跳べた高さだ…。)
何度も握りの位置を確認する田伏は、ふと控えベンチを横目で見た。
そこには、既に跳躍を終えて次に備える、若越、江國、皇次と、後に2本目を迎える霧島の姿があった。
(…くそっ…1個下の連中、なんでこんな強いんだよ…。
4m80cmなんて、他所じゃ余裕で優勝レベルだし、全国だって決勝行ける高さじゃねぇかよ…。
…でも、この壁を越えられれば…その全国はすぐそこにある…。…光が…すぐそこにあるんだよな…。)
漸く意を決して、田伏はポールを持ち上げて走り出した。
踏み切りに差し掛かると、力強く地面を蹴り、宙を舞う身体を上下反転させてバーの上を狙う。
しかし、バーの上に身体が浮いた時、ポールを最後まで握っていた右腕に、無情にもバーが直撃した。
審判員の振り上げた赤旗が、まるで指揮棒かのように、観客席から落胆の声が聞こえてきた。
暫く、マットの上で両手で顔を覆い動けずにいた田伏も、漸くゆっくりと立ち上がると、観客席に向けて右手を高く挙げ、深々とお辞儀をした。
顔を上げた田伏の両頬を、大粒の涙が伝う。
(…あぁ…終わっちまったのか…。
…六織先輩、すみません…。
結局、俺も羽瀬と継学の奴らに勝てませんでした…。
…でも、六織先輩に憧れて棒高跳び始めた高1の頃に…ここまで来れた未来は…想像できませんでした…。
…先輩に出会えた事、もちろん俺にとってめちゃくちゃありがたい事です…。
…それと同時に…羽瀬と継聖学院の連中と同じ場所で戦えた事…きっと貴重な経験でした…。
…だから…悔いはありません…。)
控えベンチに戻ってきた田伏は、暫く顔をタオルで覆い、俯いていた。
近くにいた若越は、何も声を掛けず、ただ黙ってその姿を目に焼き付けていた。
続く石橋も2本目を失敗。
試技は、次の霧島の2本目を迎える。
助走路の霧島は、じっと控えベンチにいる若越の姿を睨みつけていた。
(…随分と首を長くして待ったもんだ…。
…ずっと待ってたんだぜ…若越 跳哉…。
今日こそ、証明するんだ…。
江國の、若越のその先を手にするのは…栄光を手に入れるのは…霧島 零だって事をなぁ…っ!)
吹き流しが追い風を示した。
霧島は勢いよくポールの先を高く振り上げると、助走路を駆け出した。
全てを切り裂く稲妻の如く、力強い足音で駆け抜ける霧島に、見る者全てが圧倒された。
(…勝利を掴むのは…俺だぁぁぁぁっ!!)
力強く踏み切り宙を舞う霧島の身体は、1本目の失敗跳躍が別人かのように、4m80cmのバーの10cm程上を通過していった。
霧島がマットに着地すると、観客席からは響めき混じりの歓声が響き渡った。
霧島はその歓声を否定するかのように、首を大きく横に振ると、控えテントにいる若越と江國を鋭く睨みつけた…。
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トラックでは、男子100m予選が終了していた。
七槻をはじめ、継聖学院の猪尾、都大附属の村上と不動も準決勝へと駒を進めていた。
七槻が羽瀬高ベンチに戻ると、丁度ウォーミングアップに向かおうとしていた音木が荷物を纏めていた。
「…相変わらず絶好調だな。」
目線こそ合わせていないものの、長年の仲である2人による短くも思いの籠もったやり取りが交わされた。
「…いやぁ、まだまだ。勝負はこれから、だろ?」
七槻は音木の賞賛にそう答えると、音木に向けて拳を突き出した。
「…次はお前の番だ、満。ぶちかましてこい。」
七槻のエールに、音木は拳を突きつけて答える。
「…もちろん。拝璃ばっかにいい格好させられるかよ。」
男子100mの予選が終わり、トラックでは女子1500mの予選が行われていた。
観客席にいた蘭奈は、徐に立ち上がり、その場を去ろうとした。
「…どこ行くの?」
慌てて、巴月は蘭奈の足を止めた。
「…今日はやっぱ調子悪い。帰るわ。」
そう呟く蘭奈の表情は、確かに険しい。
しかし、巴月は違和感を覚えていた。
「…せめて、跳哉くんの結果だけは見ていかない?」
巴月の静止を無視して帰ろうとしていた蘭奈の足が止まった。
今の蘭奈を更生させられるのは若越である。という僅かな可能性に、巴月は賭けていた。
自分の説得ではこれ以上どうにもできない。
都大会後、若越から巴月に送られたメッセージには、続きがあった。
『…もし、陸が立ち直れないくらいに落ち込んでいるなら、俺があいつの目を覚まさせる。
南関、俺は優勝を狙うし、5mも越えてみせる。
その姿を、必ず陸に見せつけてやりたいんだ。』
若越が絶対に優勝する事も、絶対に5mを越える事も、保証なんてない。
ただ、本人の紛れもない強い意志と、これまでに見せてきたその可能性の数々だけでも、巴月が若越を信頼する充分な理由にはなった。
「…分かったよ。」
蘭奈は渋々、再び席に着いた。
そして、視線を棒高跳びピットに送ると、そこには自らが纏っていたのと同じ、水色の"羽瀬高"ユニフォームで激戦の渦中にいる若越の姿があった…。
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4m80cmの3本目。
残された石橋には、大きなプレッシャーだけがのしかかっていた。
(…今日がラストチャンスなんだ…。輝に追いつく為の…。肩を並べる為の、最後のチャンスなんだ…っ!)
もう後のない石橋。
田伏が脱落した事で、残されたのはあと8名。
全国への切符を手にする6名に入るには、あと2つ順位を上げなければならない。
直前に霧島がクリアした事で、まだその壁は厚いままであった。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁっす!!!」
背後を付き纏う大きなプレッシャー…石橋の光を窄める大きな闇。
その暗闇を振り払うように、石橋は大きな声でスタートを切った。
助走は申し分ない。
越えられる可能性は充分にある。
力強く地面を踏み込み、宙に浮いた身体を素早く上下反転させて、石橋は強い"光"を狙った。
それでも、無情な現実はその強い光すらをも閉ざしてしまった。
バーの上を狙う足が、そのバーに勢いよく接触し、石橋の身体諸共マットの上に落下していった。
マットに着地した石橋は、直様マットの上に立ち上がると、厳しい現実と直面した。
(…ここまで…か。)
その時、石橋の右頬に一筋の雫が流れ落ちた。
大ヶ樹に届かなかった悔しさ、後一歩のところで届かなかった"夢"の景色。
しかし、石橋はぐっと身体に力を込めて、その流れる雫を抑えた。
「…ありがとうございましたぁぁぁぁぁぁぁっ!」
マットの上で深々とお辞儀をした石橋に、観客席から賞賛の拍手が送られた。
身体を起こした石橋の表情に、曇りはなかった。
とびきりの笑顔を見せると、観客席で応援してくれていた明伯高校のチームメイトへと、大きく手を振った。
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トラックでは、男女の1500mの予選が終わり、続けて男女200mの予選が行われていた。
女子の予選が終わると、男子の1組目に音木が姿を現した。
『男子200m予選、第1組。
第1レーン、音木くん、羽瀬。』
「…音木せんぱぁぁぁぁぁぁぁいっ!!!!!
ファイトぉぉぉぉぉぉっ!!!!」
会場のアナウンスが音木を紹介すると、観客席の二重橋が大声でエールを送った。
その姿に、周りの観客も驚いて視線を送るが、二重橋は真っ直ぐな目でトラックの音木を見ていた。
「…大丈夫。音木先輩なら、必ず…。」
隣に座る九藤も、祈るように音木の姿を見ていた。
8人の選手が紹介されると、いよいよレースが始まろうとしていた。
『…On Your Marks…。』
スターティングブロックの後ろに仁王立ちする音木は、静かに深呼吸をした。
トレードマークの眼鏡を外している音木の視界は、非常にボヤけていた。
唯一、自分が走るレーンの白いマークだけがはっきりと、その目に映っている。
(…これだけあれば、充分だろ。)
スターティングブロックに足をかけ、音木は静かに戦闘体制に入った。
横風が僅かに、その身体に刺さるように吹いている。
(…待ってろ拝璃、勝馬。俺も今、そこに行くよ。)
『…Set…。』
パァァァァン!!!!
8人の選手が、一斉に第3コーナーを駆け抜ける。
1番内側のレーンの音木には、他の7人の選手の残像がしっかり捉えられていた。
コーナーを抜け、ホームストレートに突入する頃、集団はまだ大まかに横一線であった。
その沈黙を、静かに切り裂いたのは、レーンの内側からの威圧的な風であった。
"サイレンサー"の愛称で、一部の選手たちにその名が知れ渡っている音木は、音もなく颯爽とその集団から一歩抜け出した。
ゴールラインを真っ先に駆け抜ける、水色の"羽瀬高"ユニフォーム。
ゴール横に備えられたタイマーが、"21.46"を示している。
「おっしゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!!」
観客席からの大歓声の中で、一際目立つ二重橋の声が響き渡った。
本人よりも喜ぶ二重橋の姿は、誰よりも目立っていた。
(…まあ見てろって。)
その声は、ゴールした音木の耳にも届いていた。
音木は、ニヤリと笑みを見せ、観客席に向かって拳を高く挙げた。
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フィールドの男子棒高跳びは、バーの高さが4m85cmへと上がった。
残すは7名。
羽瀬高から伍代、若越。
継聖学院から宙一、皇次、江國。
明伯高から大ヶ樹。
日高高から霧島。
試技順により、1番初めに挑むのは皇次であった。
(…ぜってぇ負けねぇ。江國にも、若越にも、霧島にも…兄貴たちにも…っ!)
一段と気合の入る皇次は、首を左右に振りゴキゴキと音を鳴らしながら助走路へと入った。
その体格の大きさと厳つい表情に、周囲へ威圧感を見せつけている。
支部大会、都大会共に4m90cmの記録をマークしている皇次にとって、まだまだ気負う高さではなかった。
余裕すら感じられる。
良好な追い風は中々吹かない状況の中、皇次は気にせずポールを持ち上げた。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁっす!」
吐き捨てるような大声でそう宣言すると、皇次は獲物を狙って駆けずり回るチーターのように、荒々しくも力強く、助走路を駆け抜けた…。
一方、トラックで後に行われる男子100m準決勝の組み分けが、競技場の電光掲示板に表示された。
その、第2組…。
" 3 村上 ノア 誠耶 都大附属 東京
4 七槻 勝馬 羽瀬 東京 "
全2組の中、上位4名ずつが決勝へと駒を進める中、早くも注目の対決が行われようとしていた…。




