第74話:Tokyo Representative
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5mの2本目の跳躍。
江國の跳躍は、再び失敗に終わった。
そして迎える、若越の2本目。
(…吉と出るか、凶と出るか…。
…考えててもはじまらねぇ…行くしか、ねぇっ!)
迷いがないと言えば嘘であった。
新入生歓迎会で見せた跳躍は、いつものポールを使っての跳躍であった。
それ故に、まだ見ぬ5mに向けて態々ポールを変える必要はないように思えた。
"5mを越えるだけ"が、若越の目標なら…。
若越の手に握られたポールは、微かに怪しげなオーラのようなもので纏われているように、見えなくもなかった…。
勝ち筋は、そう簡単には現れてくれないらしい。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁっす!!!」
いつもより少しだけかかる、腕への重力。
1歩1歩助走を踏み込む度、その挑戦の大きさが若越の体に伸し掛かる。
(…何で新入生歓迎会、5mを越えられたのか…その明確な答えは分かってないけど…。
…今日越えれば、その答えに辿り着ける気がする。
そして、答えを手にすれば…俺はもっと先に行けるっ!)
ポールがボックスに突き刺さる音と同時に、若越の体が宙に浮いた。
いつもよりも少し負荷の掛かるポールの曲がり具合を感じながら、若越はいつも通りに、足先を高くバーの上に向ける。
体を回転させながら、バーの上に浮く若越の体に、容赦なくポールの反発力が襲いかかった。
その力に軽く動揺する若越は、僅かに空中でのバランスを崩し、腹部とバーが完全に接触した。
マットに叩き落とされた若越の体と共に、5m上空にあったバーも落下していた。
審判員の赤旗が、無情にも若越の2回目の失敗を記録した…。
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観客席は、若越の跳躍失敗に落胆の声で溢れていた。
「…あと少し…に見えるんだけどなぁ…。」
悔しそうに見つめながら、睦小路はそう呟いた。
その隣には、何も言わずにただ黙って若越を見つめる、弓ヶ屋の姿があった。
彼女の視線の先にいる若越は、跳躍を終えた足で、観客席の有嶋と桃木の元に向かって来ていた。
(…今の若越さんに…私は何ができる…?
…それとも…私は…邪魔になっちゃうのかな…?)
祈るように両手を握りながら、不安そうな表情で思い詰めている弓ヶ屋。
そんな彼女に突如声を掛けたのは、同級生の綺瀬であった。
「…ちーちゃん、行ってきたら?」
「…えっ…?」
綺瀬の突然の提案に、弓ヶ屋は驚いて彼女の顔を見た。
綺瀬は、目を丸くしながら見つめる弓ヶ屋に、目で合図を送って、若越の元に近づく有嶋と桃木の姿を指した。
「ちーちゃんも跳躍マネージャーなんだから、何も行っちゃダメな事ないでしょ?
それに、みんなの話聞いてるだけでも、何か勉強になるかもしれないし。
…チャンス…じゃない?」
そう言う綺瀬は、弓ヶ屋に意味深に微笑んでみせた。
(…確かに、秀ちゃんの言う通り…かも?
…でも、私が若越さんの邪魔になったら…。)
弓ヶ屋はそれでも悩んでいた。
「…若越さんは多分、ちーちゃんが心配してるような事、思ってないよ。」
不安な表情の弓ヶ屋の耳元で、綺瀬はそう囁いた。
弓ヶ屋は、目を丸くしながら綺瀬の顔を見ると、彼女はニヤリと笑みを浮かべながらウインクしてみせた。
綺瀬の後押しもあり、弓ヶ屋は一目散にスタンドの最前へ向かって走り出した。
そこでは、既に有嶋と桃木が若越と話をしていた。
「…まあ、気負わず行けばいい。
5mとはいえ、既に南関への切符は手にしている。」
「若越くんなら大丈夫だよ!自信持って行ってきな!」
有嶋と桃木のエールを受けた若越だが、彼の表情にはまだ不安が過っている。
越えたいと願う壁に阻まれ、あと一歩のところでその勝ち筋を掴めずにいる若越に、余裕はなかった。
そこへ、息を切らしながら走ってきた弓ヶ屋が、勢いよくスタンドの手すりにぶつかりながら現れた。
「…ゆっ…弓ちゃん!?」
桃木は、突然の弓ヶ屋の登場に声を裏返しながら驚いた。
前進する上半身を大きく波打ちながら、肩で呼吸する弓ヶ屋は、真っ直ぐな眼差しで若越を見ている。
「…ゆっ…弓ヶ屋…さん…!?」
不安そうな表情は一変、眉間に皺を寄せながら、驚き半分、心配半分の顔で若越は弓ヶ屋を見た。
「…いっ…いけますっ!…わっ…若越さんなら…。
…いや、跳哉先輩なら…5m跳べるって、私知ってるのでっ!」
頬を赤ながらも、真っ直ぐ自分の気持ちを無我夢中で伝えてくれた弓ヶ屋に、若越は強い追い風のようなものを感じた。
それと同時に、若越の脳裏に2つの言葉が蘇る。
~『…跳哉、空は引っ張ってはくれない。
自分から、地面を押し返して、重力に反くイメージだ。』~
~目を見開いたれば、風少し吹き弱り、扇も射よげにぞなつたりける。~
亡き父親の言葉と、『平家物語 扇の的』の一節。
この言葉が、迷いに曇った若越の脳裏に、一筋の光を招いた。
「…ありがとう、弓ヶ屋。行ってくる。」
若越は覚悟を決め、振り向き様にそう言い残すと、
ゆっくりと再び棒高跳びピットへと戻って行った。
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フィールドで佳境を迎える棒高跳びと並行し、トラックでは複数の種目の予選が行われていた。
現在行われている男子の1,500mが終わると、続けて男女100mの準決勝が行われるスケジュールとなっている。
七槻と蘭奈は、互いに一言も会話する事なく、招集場所でストレッチを行っていた。
そこへ、スパイクを手にジャージ姿の村上が姿を現した。
村上は、蘭奈の姿を見下ろしながら、ふんっ!と鼻で笑ってみせた。
「…よぉ?2回目ましてだなぁ?ズッコケ野郎。」
村上の挑発的な態度に対し、蘭奈は全く聞く耳を持たずに無視を決め込んだ。
「…ちっ…何だこいつ…。」
無反応の蘭奈に、村上は気に食わないという素振りを見せつけながら、その場を後にした。
一連の流れを見ていた七槻は、村上の後ろ姿を睨みつけながら、蘭奈に声を掛けた。
「…いいのか?あんな事言わせておいて。」
蘭奈に変わって怒り口調の七槻であったが、蘭奈は珍しく物静かに大人しく口を開いた。
「…え、今なんか俺言われてたっすか?
俺の視界に入ってなくて、ちっとも気にしてなかったっす。」
そう言う蘭奈の目は、冷静ながらもその瞳の奥に闘志の炎をメラメラと燃やしているように見えた。
少し強がりのように見えるその態度に、七槻は呆れたようにため息を吐いた。
「…そうか。…まあ、無茶すんなよ。
お前にはまだ、未来がある。」
僅かな衝撃で大きな爆発を見せそうな、無理矢理感情を押さえ込んでいるように感じた蘭奈に、七槻は歯止めをかけようとしたが、それは全くもって焼け石に水であった。
「…約束したっすから。巴月と。」
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5mの3本目の跳躍。
2本目を失敗に終えた若越と、同じく失敗を記録した江國が、この試技に挑む。
先に跳躍するのは、江國であった。
2本目の試技は、バーの上を越えられずにバーを巻き込む形で失敗した。
その修正を形にできるのか、見守る継聖学院のメンバーは固唾を飲んでいた。
そんな心配を他所に、助走路に立つ江國は脳内イメージを完璧に整えていた。
2本目の跳躍での欠点。それをどう修正して挑むのか。という事だけが、彼の脳裏を支配している。
吹き流しが追い風を示した瞬間、江國はポールの先を持ち上げて、静かに助走を始めた。
テンポよく駆け出していく助走は申し分ない。
ポールを突き出すタイミング、踏み切り位置、その踏み込みは、2本目と寸分の狂いもない程に一致しているように見えた。
2本目の欠点であった空中動作。
今回は下半身の振り上げをワンテンポ早めた事で、スムーズに足先をバーの上に運べている。
回転しながらバーの上を越えていく江國の体は、十分に5mのバーとの距離があるように見えた。
しかし、全体的なタイミングを早めた事で、その身が落ちるタイミングすらも早まってしまっている事に、江國は気づかなかった。
不本意にもバーと接触する右腕が、無情にもそのバーを巻き込みながら重力に従っていった。
赤旗。
江國は、4m95cm3回目成功という記録が成された。
そして、若越が最後のチャンスを迎える。
越えればその背に手が届く、勝ちたい相手と肩を並べる事のできる5m。
江國との明確な差を提示できる5m。
助走路に立つ若越は、大きく深呼吸をした。
『…いっ…いけますっ!…わっ…若越さんなら…。
…いや、跳哉先輩なら…5m跳べるって、私知ってるのでっ!』
必死に自分を鼓舞する後輩マネージャー弓ヶ屋の姿が、若越の脳にインパクトを与えていた。
若越はふと、弓ヶ屋たちが見守るスタンド席に視線を送った。
そこには、弓ヶ屋のみならず、睦小路や綺瀬といった後輩たちが、期待と不安の眼差しで自分を見つめている姿があった。
(…そっか。これまでとは違う…。
今年は、後輩たちも見てるんだ…俺の姿を。)
後輩たちと共に自分を見守っていたのは、有嶋コーチと桃木であった。
(…負けちゃいられねぇんだな。今はっ!)
その時、吹き流しが強い追い風を示した。
それはまるで、"的の扇を射やすくする"かのように…。
「…行きまぁぁぁっす!!」
高らかにそう宣言する若越に、伍代含む羽瀬高メンバーが大きな声で「はぁぁぁい!!」と応えた。
(…地面を押す…重力に反くっ!)
スピードに乗った若越は、勢いそのまま力強く左足で地面を踏み切った。
相変わらず、反発力の強いポールの力を何とか持たせながら、その身を高く宙に舞い上げる。
大きな湾曲をしていたポールが、一気に元の姿に戻ると、強い力が若越の身に伝わった。
(…押し…切るっ!)
その力を見事に利用し切った若越は、バーの上高くにその身を放り出した。
高さは十分。
後は最後にポールを手放した右腕が、そのバーの上を通過するのみ…。
若越は、確かな感覚を覚えた。
遥か高く、遠くにいたはずの、追いつきたい、追い越したい背中。
その背中にしっかりと掴み掛かり、自らの肩と並べようとする感覚…。
その感覚は、ほんの僅かの瞬間で、
その光を閉ざしてしまった。
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時は過ぎ、男子100m準決勝が行われた。
予選を勝ち抜いた者たちが3組に振り分けられ、各組上位2着と、3着以降の上位2名の計8名が決勝へと駒を進める。
1組目に出場した七槻は、同組に村上、猪尾を抱えながらも、何とか2着で決勝へと駒を進めた。
迎える2組目。
第2レーンには、蘭奈の姿があった。
そして、同組第6レーンに現れたのは、村上と同じ都大附属の不動 蒼であった。
不動は、少し茶色がかった髪に濃い顔立ち、村上には劣るものの蘭奈よりは少し背が高く、体つきも並みの選手よりは1つ抜きん出ていた。
不動は、左側に視線を送ると、第2レーンの蘭奈の姿を目にした。
(…ふぅん。あれがノアが言ってた、気に食わねぇ奴か。
あいつにしちゃ珍しく、そう評する奴だ。
予選ではゴール間際でノアと激しく競り合ってたけど、どんなもんかな…。)
『…On Your Marks…。』
8名の選手が一斉にスターティングブロックに身をおさめると、一時の静寂が競技場を包んだ。
(…任せろ…巴月。…俺があいつに…勝ってやるっ!)
『…Set…。』
乾いたピストルの号砲が耳に届いたと同時に、蘭奈は勢いよくブロックを蹴った。
しかしその瞬間、蘭奈は脳天を巨大な釘で突き刺されたかのような、激しい痛みに襲われた。
「…っつ!」
その衝撃で、1歩目を踏み出した蘭奈の身は大きく体勢を崩しかけた。
一瞬にして、蘭奈の視界がモノクロに変化した。
全身を素早く動かそうとしてるのにも関わらず、その動きが全てスローモーションのように感じられている。
誰もが息を呑み、蘭奈がそのまま転倒するかと思えた…。
ふらつく姿勢の中、視線を少し前に送ると、右斜め前に"宿敵"と同じユニフォームが飛び込んできた。
(…約束したから…巴月と…あいつに…勝つって…っ!)
周囲の7人から1歩遅れる形にはなったが、蘭奈はそこから見事に体勢を立て直した。
しかし、遅れたハンデはそう易々と取り戻せなかった。
50mを過ぎた辺り、蘭奈の視界には既に3名の選手の姿が映っていた。
その中には、"都大附属"のユニフォーム姿も。
(…っつ!…こんな所で…。)
蘭奈の表情が強張ったその時…。
「…陸ぅぅぅぅぅっ!」
右耳に飛び込む、聞き慣れた声。
いつも、何かにつけて自分の誤ちを正そうと注意する時の声。
いつも、練習の時にタイムを読み上げてくれる時の声。
いつも、馬鹿にされるような壮大な夢を笑いながらも肯定してくれる時の声。
「…うぉぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁ!!!!」
残りの数十mの記憶はなかった。
気がつくと、頭が真っ白になりながら、蘭奈はただ呆然と仰向けに寝転がり、空を流れる雲をぼんやりと見つめていた…。




