第68話:Grab the Tail
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吹き流しが一瞬の追い風を示すと、若越はそのタイミングを見逃さずに走り始めた。
目の前に迫る4m95cmの高さは、若越の高校生としての公認自己ベスト記録であった。
『今は深く考えすぎないでいいと思うよ。
新歓の時、私たちを驚かせてくれたあの5mの跳躍を、今度は本番の舞台で見せてよ。』
桃木から若越に告げられたその言葉。
それは、若越にとって大きな追い風となった。
自然と余計な力は抜けて、若越の助走はスムーズな動きを見せている。
『若越くん、調子良さそうだね。』
若越の脳裏には、先日の練習で交わした桃木との会話が浮かんでいた。
桃木にそう言われると、若越は跳躍で乱れた髪を掻き上げながら返答した。
『次のインハイ、必ず全国の舞台で戦ってみせます。』
(…誓ったんだ、桃さんに。必ず、全国の舞台で戦ってみせるっ!)
力強く踏み切った左足が、若越の体を宙に浮かした。
ポールの湾曲が、彼の体を更に高い空へと導いていく。
ー誰よりも、高い空を跳ぶー
浮き上がった若越の体は、4m95cmのバーの更に上を余裕で通過し、そのまま重力に従って勢いよくマットへと落下した。
審判員の白旗と共に、観客席からは大きな拍手歓声が若越に送られた。
しかし、それは若越に向けられたものにしては、かなり大きなもので…。
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若越の跳躍と同時刻、トラックの男子100m予選に七槻が現れた。
第3コーナーの棒高跳びピットを横目に、七槻は闘志を燃やしている。
自らと同じユニフォームを着た後輩もまた、目前のバーに視線を送り、静かに闘志の炎を燃やしていた。
(…若越や蘭奈に、負けてられねぇ。)
七槻は目を閉じて深呼吸した。
昨日、伍代と交わした会話を思い出しながら…。
(…なぁ、拝璃。昨日あんな偉そうな事言ったけどよ…俺の方が、余っ程呑気だったのかもしれねぇ。
お前は多分、俺よりも簡単に全国の舞台まで行っちまう。
そんなお前に置いて行かれたくなかった。この2年半、ずっとな…。
あんな風にお前を煽ったのだって、今思えば俺の不安を隠したかっただけなんだよ…。
…そんなこと考えてる俺は、お前より呑気だよな…。)
"HASE"と書かれたユニフォームの奥底が、妙に早い振動を伝えてくる。
乱れる呼吸に抗うように、何度も行う深呼吸は最早逆効果にすら思えた。
七槻の全身を激しく巡る血流が、次第に指先をも震わせる。
(…只な、そんな呑気なのも今日で終わりだ。
ここで置いて行かれたら、もう2度と追いつけない。
…俺は必ず、お前に追いついてみせる…いや。
お前と一緒に、全国の大舞台に立ってみせるっ!)
七槻は震える指先に目一杯力を込めた。
握りしめた両拳は、今にも弾けそうな程に血管が浮き出ている。
『…On Your Marks…。』
七槻は目を見開いて、真っ直ぐ己のゴールの先を睨みつけた。
そして、これまで何度も行ってきたスターティングブロックへ入る所作を、丁寧に行って膝を着いた。
『…Set…。』
スタートの号砲が鳴り響いてからの約10秒間。
両サイドから聞こえる、ライバルたちの足音。
自分に対する羽瀬高メンバーの声。
そして、ライバルたちに向けられた声。
その様々な音すらも、七槻の揺るがぬ意思を崩すことはなかった。
次第にライバルたちの足音が、僅かに遠のいていく気がしたが、今の七槻には関係なかった。
「…お兄ぃぃぃぃぃ!!!行っけぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!」
70m付近を越えた時、唯一その声だけはハッキリと七槻の耳に届いた。
17年間、声色は変われど毎日聞いてきたその声。
(…ありがとう。巴月。)
七槻は更に加速しながら100mのラインを通過した。
ゴール横に設置されたタイマーが示す数字は、"10.53"。
地を鳴らすような大歓声と拍手が、観客席から鳴り響いた。
七槻は失速しながら慌てて振り返ると、タイマーの背面しか見えずにいた。
しかし、視線の先の棒高跳びピットにて、審判員が白旗を振り上げている様子から、若越が跳躍を成功させたのだということが七槻にも分かった。
…しかし、それだけではない…。
すると、七槻の元に共にレースを終えた他校の選手が駆け寄ってきた。
「…すごいね、七槻くん…やっぱ追いつけないよ…。」
「…あ、ありがとう…。」
その言葉に、七槻は漸く自分が1着でゴールしたことを理解した。
それと同時に、電光掲示板にレースの結果が表示された。
"1.七槻 勝馬 羽瀬高 10.53"
その結果に、七槻は目を丸くした。
シーズンベストは愚か、自己ベスト記録を更新していたのだ。
しかし、七槻に満足げな表情はなかった。
(…やっと半ば…。次は10秒前半を叩き出さなきゃ…。)
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七槻のレースに、観客席で見ていた巴月は目元を赤くしながら喜んだ。
「…わぁ…やっぱ羽瀬高のエースは速いわぁ…。」
巴月の隣でレースを見ていた西澤は、そう溢しながら関心していた。
「当たり前だろ?勝馬さんも陸さんも、全国レベルの選手だからな!」
その西澤に、後の席に座っていた九藤は、まるで自分のことかのように鼻高くそう言った。
しかし、九藤の横に座る十橈氣は、九藤の言うことが気に食わなかったのか反論した。
「…いやいや、全国舐めんなよ?10秒0台で走る連中はゴロゴロいる。
こんな東京の支部大会の予選で勝ったところで、全国の舞台で戦えるかはまた別なんだよ。」
十橈氣の言うことは間違ってはいなかったが、目の前で勝ったことへの素直な喜びをへし折られた九藤は、十橈氣を強く睨みつけた。
「…ま、まぁ…トカちゃんの言うことはご尤もなんだけど、ねぇ…。」
一触即発な九藤と十橈氣に、橋本がそう言って宥めた。
しかし、その空気感を打ち壊す存在が、羽瀬高陸上部にはいた…。
「…部長ぉぉぉぉぉぉぉっ!!!!ナイスレェェェェェェェェェェェェッス!!!!」
突然立ち上がって、レースを終えた七槻目掛けてそう叫んだのは、他でもない二重橋であった…。
誰に似たのか、良くも悪くも空気が読めないのが二重橋だ。
「…とりあえず、次は女子100m予選と…棒高ね…。」
滅茶苦茶な空気を立て直す畠ヶ井の一言に、再び応援席には緊張感が漂った。
そして、一同は第3コーナーの棒高跳びピットに視線を送った…。
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棒高跳びは、その後4m95cmの高さを皇次が失敗。
続く5mの跳躍に駒を進めたのは、若越、江國、伍代の3名であった。
「…まさか、こんなにも早くこの3人の対決が実現するとは…ね…。」
観客席で見守る桃木は、思わずそう呟いた。
「…若越さん…。」
その隣では、弓ヶ屋が両手を胸の前で固く結びながら、祈るように若越の姿を見ていた。
その姿に思わず、桃木は弓ヶ屋に問いかけた。
「…弓ちゃんは、若越くんに勝ってほしい?」
突然の問いかけに、弓ヶ屋はハッとした。
頬を赤らめ、慌てながらえっと…その…としどろもどろな弓ヶ屋を見かねてか、弓ヶ屋の隣りに座る睦小路が助け舟を出した。
「桃木先輩は、どっちに勝ってほしいですか?」
睦小路はその光景に、ニヤニヤしながらそう質問した。
しかし、桃木は思いの外真剣な眼差しで棒高跳びピットを見つめながら言った。
「…私は、どっちが勝つとか勝ってほしいとか、あんまり思ってないかも。
2人とも、後悔しないように、怪我しないように、全力で戦ってくれれば、それでいいかな…。」
漠然とした答えに、睦小路は不満そうであったが、弓ヶ屋は若越だけに向けた自分の私欲混じりの気持ちに、僅かに後悔していた。
「…ちなみに…ぶっちゃけ桃木先輩はあの2人、どっちが好きなんですか?
あ、2人ともとか無しですよ?」
釈然としない睦小路は、わざとらしくニヤつきながら桃木にそう質問した。
「…んー…別にないよ?そういう気持ちは。
2人とも、自分の目標に向かって一生懸命突っ走ってる姿は、2人ともかっこいいなぁとは思うけど、ね。」
一方、フィールドの本人たちは、そんな観客席での浮ついた会話など露知らずに、互いに闘志を燃やしていた。
(誰よりも…高い空を跳ぶ…。その為に越えなければならない壁が、目の前に3つ。
…5mと、江國と、伍代先輩…。)
ポールを持ち助走路へと向かう若越は、何度も成功のシュミレーションを脳内に浮かべていた。
『…5mは少々難所になるかもしれないけど、気負いする必要はないよ。
浮地郎ですら、初めから跳べた高さじゃないと言っていた。
いつも通り、練習の時みたいにやってみればいいんだよ。』
ふと、若越は有嶋コーチの助言を思い出した。
元跳躍選手として、有嶋自身も大きな記録の境目での緊張感は、若越と同じように理解していた。
そんな有嶋も、観客席から若越の跳躍を見守っている。
(…元気か?浮地郎…。お前の息子が、今大きく成長する為の壁の前に立っている…。
俺ができるアドバイスやコーチングはやって来ているつもりだが…お前に出来る事があれば、あの子をサポートしてやってくれ…。)
トラックでの男子100m予選が終わり、続く女子100m予選までの僅かな間、先程まで荒れていた風の流れがピタリとおさまっていた。
若越は大きく深呼吸をして、ポールの先を高く持ち上げた。
若越の後ろで、続く試技順を待つ江國は、そんな若越に目もくれずにいた。
(…5m…ここからが、大台…。)
江國は自らの拳を握りしめて、その拳を見つめながら心の中でそう呟いた。
その江國の次に試技順を控える伍代は、テントの下から若越の跳躍を見守った。
(…参ったな…今年は支部予選から、全国大会決勝みたいな記録勝負になるのか…。
…まあでも、若越と江國に負けるつもりはない。
ここも、都大会も、南関も、そして全国も。
頂点に立つのは、伍代 拝璃だっ!)




