第57話:Never Return Sky
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「…なんのつもりだ?伍代。」
大ヶ樹は緊張が昂る中、伍代を睨みつけながらそう問いただした。
「…え?何って…3本目はパス。俺は次、5mに行くよ。」
「…はぁ?ナメてんじゃねぇぞてめぇ…。」
大ヶ樹は更に伍代を睨みつけながら、喧嘩腰にそう言った。
伍代の予想外の発言に、周囲の選手たちもザワザワと騒がしくなる。
もちろん、若越もその様子を見ていたが、敢えて伍代に触れることはしなかった。
江國も、伍代と大ヶ樹の会話を耳にはしていたが、2人に混ざる事はせず、大きなため息を吐きながらベンチから立ち上がった。
「…ナメてる?いや、お前と同じだよ。
俺も、諦めてないから。勝つ為の選択、だよ。」
鋭い形相で睨みつけてくる大ヶ樹に、負けじと伍代も鋭い目つきを向けながらそう言った。
「…勝つのは、俺だ。」
伍代は小さくそう呟くと、助走路の江國へと視線を送った。
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江國が、4m95cmの3本目へと挑む。
2本の失敗は、彼にとって大きなアドバンテージとなっているかのようにも思えた。
変わらぬ状況の中、危機を乗り越えようとする江國の鋭い視線が、ただ1点、4m95cm上空のバーに向けられた。
(…雨で満足に蹴ることが出来ない地面…滑るグリップ…そして、冷まされていく体温…。
…動きに注意しながら、確実に地面の踏み込みとポールの突き出しを意識。
決して気を抜くな。上空で反転したその時まで、ポールから手を離す事勿れ。)
江國は心の中でそう唱えながら、挑む3本目の跳躍のイメージを固めていた。
しとしとと降る小雨は、もう随分と長いこと競技場の空を支配していた。
黒みかかった灰色の空を、江國はクッと見上げた。
(…天の気が変わる事は無さそう…か。)
"やれやれ"と言わんばかりの呆れ顔を見せたと思えば、江國はすぐさま鋭い目つきで正面を見た。
(…ここで負けるわけにはいかない…。
俺は…"俺"に勝ち続けるっ!)
水飛沫を上げながら、江國の助走が一歩一歩進んでいく。
その動きが鈍る事はなかった。
力みすぎず、かといってリラックスしている訳ではないが、スムーズな動きで江國はスピードを上げた。
跳ね上がったその身体は、足裏を天に向けながら、天から降り頻る雨に逆らうようにバーの上に向かって行った。
ポールを離した右腕を素早く胴に引き付け、江國はバーの上を見事に越えて見せた。
マットに落ちた江國は、その反動のまま立ち上がって呆然とした。
(…初めてだ…跳躍中に自分の意識が真っ白になるなんて…。
…じゃあ今、俺は感覚で越えた…って事なのか?)
江國は、自分に起きた出来事に現実味を覚えられず、戸惑った表情のままマットを後にした。
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5mにバーが上がった頃、ここまでずっと耐えていた小雨が、遂に本降りに近づいてきた。
バーのセッティングに時間が掛かっていた為、第1跳躍者の大ヶ樹は、機嫌悪そうに控えテントでスタンバイしていた。
(…あぁ…まじ、どいつもこいつもうぜぇ。イライラさせやがって…。)
大ヶ樹は、折角の集中をあっさりと切らされてしまった。
不満そうな表情のまま、風によって肌に触れる雨粒が、彼の苛立ちを更に増幅させた。
バーのセッティングが終わると、大ヶ樹は荒々しく助走路に向かった。
瞬く間に彼の前髪から、雫が滴り落ちた。
大ヶ樹は眉間に皺を寄せながら、首を左右に激しく振って、その雫を払い落とした。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁぁっす!」
投げやりな叫び声を上げると、大ヶ樹はすぐさまポールの先を持ち上げて、助走を始めた。
雨足が強まっている事で、助走路は更に滑りやすくなっている。
大ヶ樹は、ただ我武者羅に地面に喰らい付き、その歩を夢中で進めた。
踏み切って浮き上がった身体は、何とも無理矢理な形でその空を目掛けていった。
しかし、その強引な跳躍が結果を成す事はなかった。
バーの上目掛けた大ヶ樹の足裏は、そのままそのバーを勢いよく蹴り飛ばした。
「…っクソッ…!」
大ヶ樹は、空中で悔しさをそう吐き出した。
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続く江國の5m1本目。
彼は踏み切る事なく、マットの上へと駆け抜けて行った。
当然、審判員は赤旗を上げる。
雨は、更にその勢いを増しているように見えていた。
試技は、1本目の最終跳躍者を迎える。
跳躍者である伍代は、ポールを手にして助走路に入った。
大きく深呼吸をするも、心臓の鼓動は激しさを増すばかりであった。
その鼓動は、伍代の身体を伝って今にも地面を揺らしてしまう程に。
何とかその逸る気持ちを抑えようとするも、体を巡る血流の勢いはその気持ちに逆らった。
ふと、伍代が観客席に目を向けると、大勢の観客の中でただ1人、自分の事を真っ直ぐに見ている人物を見つけた。
(…なんだよ、桃。心配そうな顔して…。)
その人物は、桃木であった。
彼女の不安な表情に、伍代はハッと何かを思い出した。
それは、伍代が初めて5mを成功した、インターハイ南関東大会。
そして、その後のインターハイ全国大会予選。
(…もう、桃に悲しい顔はさせないって…あの時決めたじゃねぇか。)
伍代はポールを右肩に掛けると、両手にタンマグを馴染ませた。
その手を勢いよく叩くと、会場の雰囲気が一変した。
依然、振り続ける雨。
その雨音を掻き消すかのように、伍代は何度も手を叩いた。
伍代の拍音に合わせて、自然と観客席からも手拍子が聞こえてくる。
次第に、雨音が聞こえなくなるくらい、会場全体が手拍子に包まれた。
ポールを握る両手に、力が入る。
伍代は勢いよくそのポールを持ち上げると、1度大きく深呼吸をした。
「……行きまぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!!」
「「「「「…はぁぁぁぁぁぁぁぁい!!!!」」」」」
伍代の合図に合わせて、観客席からの返答がされた。
進み出した伍代の足は、観客席からの手拍子に合わせて、少しずつ速いビートを刻んでいく。
(…俺の選択が間違ってなかったって事…必ず証明してみせるっ!…なぁ、桃っ!)
手拍子が1番速くなった時、伍代の左足が勢いよく地面を蹴り込んだ。
浮かび上がったその体は、ポールの湾曲に合わせながら上下反転し、そのまま回転しながらバーの上に向かった。
もはや、雨という状況を、伍代を含めた全員が忘れてしまっているように、その時は流れた。
ポールを手放した伍代の体は、今日1番の浮き上がりを見せると、バーに触れる事なくスルリとその上を越えていった。
観客席から、その様子を見ていた若越の脳裏に、その光景は当分の間刻み込まれていた…。
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結局、その日は天候が回復する事はなかった。
大会2日目は、雨が降る事なく曇天の中行われたが、気候変化によって発生する強い風に、選手たちは苦しめられる事となった…。
選手たちの大半にとっては、何とも後味が残る大会となった新人戦関東大会。
大会の全ての種目が終了し、競技場は審判員らによって撤収作業が行われていた。
その競技場の様子を、若越は1人観客席に座って呆然と見ていた。
「…こんな所にいた。」
若越は、背後から聞こえた聞き馴染みのある声に、漸く意識を取り戻したようだ。
声のする方を振り返ると、そこには巴月がいた。
「…探したよ。」
巴月は、一言だけそう若越に言った。
その表情は日頃の笑顔とは裏腹に、無表情に近い少し悲しそうな顔をしていた。
「…ごめん。」
若越も一言でそう返した。
すると、巴月は若越の隣の椅子に座って、グラウンドを見下ろした。
「…跳哉くんは凄いと思う。凄い、頑張ってる。」
そう言う巴月は、少し涙目になっていた。
「…何だよ、急に…。」
若越は、突然巴月にそう言われた事で、少し恥ずかしそうにそう呟いた。
「…何で、跳哉くんはこんなに頑張ってるのに、神様は跳哉くんにいい結果をくれないんだろうね…。」
「…神様なんて、いない。」
巴月は、えっ。と驚きながら若越の顔を見た。
若越は無表情のまま、グラウンドの1点を見つめていた。
「…神様なんて、いないんだよ。
信じられるのは、思い通りの結果を掴む為に、頑張った自分の努力のみ。
…俺は、途中でビビってポールを下げた。
それが結果、調整しきれなくて失敗に繋がった…。
…俺は全然頑張れてない。…自分に負けたんだ…。」
若越はそう言いながら、無意識に両拳を強く握りしめていた。
その悔しさを、巴月は痛い程に感じていた。
「…俺は、まだまだ弱いんだ。
先輩に突っかかって、過去の実力に胡座をかいて、強い自分を繕っているだけだったんだ。
…やっと気づいたよ。もっと、もっと強くならないと、俺は伍代先輩には勝てない。
…いや、先輩どころか、他のライバル達にも。」
若越はそう言うと、急に立ち上がった。
「…帰ろう。ごめん巴月。俺の独り言だから。」
そう言う若越の姿を、巴月はただ見上げる事しか出来なかった。
動かない巴月に痺れを切らしたのか、若越は巴月の腕を掴むと、強く彼女の体を引き上げた。
若越に急に強く引き上げられた巴月は、バランスを崩すと若越にもたれ掛かってしまった。
若越は冷静に、その巴月の体を受け止めた。
「…ごめん、強かったよね。…でも、もっと強くならなきゃ。」
「…ううん、大丈夫。私の方こそ、ぼーっとしててごめん…。」
若越は、巴月の無事を確認すると、彼女から手を離して帰路へ向かった。
耳まで顔を赤らめた巴月も、その後ろを追うように歩いていった…。
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変わらぬ空。
変わらず、追い求める空。
その空の遠さを、改めて実感した若越の初めての高校生の秋は、曇天のように過ぎ去っていった…。
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