第56話:Spread Your Wings
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霧島が2本目でクリアしたことにより、4m80cmの3本目を、石橋はたった1人で挑む事となった。
(…飛ばなきゃ…次に進めねぇ…っ!)
石橋の意思を煽るように、雨粒が彼の体に打ち付ける。
雨粒を肌で感じる度、石橋は焦りを感じずにはいられなかった。
結果として、石橋はポールにぶら下がる形で、バーの上に体を運ぶ事なく試技を終えた。
左手にポールを持ちながら、石橋はマットの上で項垂れながら雨に打たれていた。
(…何で…何でだ…大ヶ樹に負けたくない…その気持ちは嘘じゃない…その筈なのに…。)
"失敗"という現実が、石橋の心に突き刺さる。
壊れていくような胸の内を感じながら、石橋はただ立ち尽くす事しかできなかった。
石橋の矜持に、冷たい雨が降り注ぐ。
(…こんな所じゃ終われねぇ…。あいつと約束したから…。
…次がラストチャンス。インハイでは辿り着いてみせる…。夢の世界に…。)
雨粒が彼の体に流れ落ちていく。
まるでそれは、石橋のやり切れない思いを流すかのように…。
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4m85cm、伍代はパスを選択。
1本目の試技では江國のみ成功。霧島と大ヶ樹は失敗に終わった。
続く2本目にて、大ヶ樹が成功。霧島は失敗し、3本目の跳躍に挑もうとしていた。
助走路に立つ霧島に、依然小さな雨粒が降りかかっていた。
(…今日こそ、次のステップに進むって時に…全く、とんでもねぇコンディションだぜ…。)
霧島は、グリップと手にタンマグを馴染ませると大きなため息を吐いた。
4m85cmをクリアし、次なるステップ部と進む。
先を行く同学年の江國は、既にそのステップへと進んでいた。
その彼に置いて行かれまいと、霧島の心には焦りが生じていた。
降り頻る霧雨が、その焦りを更に煽っている。
(…若越だけを意識してたせいで…江國の存在を忘れてたが…。)
1本目の試技で成功を収めていた江國は、既に控えテントの中でジャージ姿に身を包んだままストレッチをしていた。
彼はまるで、自分自身と対話しているかのように、周囲に一切の視線も向けずに自らの肉体と向き合っていた。
(…何なんだあの態度…。ムカつくぜ。
絶対にあの伸びた鼻をへし折ってやる…っ!)
江國の態度に触発され、霧島の緊張で強張る身体に更に力が入る。
依然、雨は細かく降り注ぐ中、霧島は一瞬の風の静寂を見逃さなかった。
ー俺の人生という空を、俺自身が太陽となって照らしてみせる。ー
決意を胸に、不安が募る全身をゆっくりと前に進めた。
高鳴る胸の鼓動のリズムに惑わされないように、確実に1歩1歩助走のスピードを上げていく。
ー俺なら…できるっ!ー
左足で力強く地面を踏み切った霧島は、その身を宙に浮き上げた。
ー若越や江國に、俺は勝つんだっ!ー
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マットの上に正座するように、霧島はただただ項垂れていた。
視線の先には、4m85cm上空にあったはずのバーがそこにある。
観客席から聞こえる、落胆の声とため息。
(…やっぱり俺は…ダメなのか…?)
霧島は、煮え切らない乱れた思いがその身から溢れ出るのを防いでいるかのように、強く両拳を握りしめていた。
打ち付ける雨はただの小雨であるはずなのに、霧島の身に流れるその雫は、紅の雨のようにも見えた…。
霧島が少し視線を上げると、助走路には既に次の跳躍を控えた江國がスタンバイしていた。
彼はやはり、周囲へ一切の視線を送らず、ただ自らの肉体とポールだけに集中していた。
(…そうか…他人を蹴落とす事で得る評価に、何の価値もねぇのか…。
それでも俺は、自分の実力を信じて止まなかった。
自分自身を信じて止まなかった。
…でも、そんなものはこうしてすぐにダメになる…。
目の前だけを見てちゃダメなのか…。
江國みたいに…もっと先。
"夢"を求めて…。)
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続く4m90cmの試技は、残った江國、大ヶ樹、伍代の3人とも1本目の試技にて成功を収めた。
天候は、落ち着く様子も見られなかったが、激しくなる様子もなく一定の小雨だけが降り続けていた。
バーは、4m95cmへと上げられた。
「…まいったなぁ…こりゃ…。」
選手たちの控えテントから、小雨が降り続ける天を仰ぎながら伍代がそう呟いた。
「…別に、諦めてもいいんだぜ?ここで辞めたって誰も文句は言わねぇ。
…ただ、お前に勝ち星もつかねぇ。たったそれだけのことだ。」
煽り口調でそう言う大ヶ樹は、スパイクの紐を固く結び直していた。
既にそのシューズは、雨水に濡れて重くなっている。
大ヶ樹のその様子に、伍代は負けじと言い返した。
「…そう言うお前は、やる気満々って感じだよな。
安心して。諦めるつもり無いから。」
伍代はそう言うと、ポールに手を掛けグリップ部のテーピングを剥がした。
雨で濡れ、滑りやすくなっていたグリップに、新しいテーピングを巻き付ける。
靴紐を結び終え、伍代の様子に少し満足げな表情を見せた大ヶ樹は、ユニフォーム姿に着替えるとポールを手に取り、一言伍代に言い残して再び助走路へと向かった。
「…そう来ると思ったぜ。」
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助走路に立つ大ヶ樹の体に、小さな雨粒がひっきりなしに降りつけていた。
(…伍代も江國も…半端ねぇ奴らだ…。
…でも、あいつらだって、この状況の中じゃそう長く集中も持たないはずだ…。)
大ヶ樹は、助走路へと下ろしていた視線を勢いよく正面に振り上げた。
彼の髪に滴る雫が、勢いよく周囲に散布される。
(…こっからは、そう長く時間はかけられねぇ。集中勝負だっ!)
大ヶ樹の瞳孔が、細く小さく一点に集中した。
4m95cm上空にあるバー。ただその一点を見つめて…。
「…行きまぁぁぁぁぁぁぁぁっす!!!」
大ヶ樹のその決意の叫び声が、ほんの一瞬空気を震わせ、地面を揺らし、降り注ぐ小さな雨の動きさえも止めてみせたかのように見えた。
ポールの先を天に向けながら、確実に地面を捉えながら走る大ヶ樹の助走姿は、明らかにこれまでのそれとは違っていた。
ポールの先端を振り下ろし、力強く左足で踏み切った力とポールの曲がる力を利用して、大ヶ樹は空へと舞い上がった。
悠々と浮き上がったその体は、滑らかにバーの上を越えるとそのまま重力に従ってマットへと落下していった。
審判員の振り上げた白旗を合図に、バックストレート側の観客席は会場中を震わすほどの大歓声に包まれた。
「…っしゃぁぁぁぁ!」
マットの上に立ち上がった大ヶ樹も、思わず右拳を突き上げてそう叫んだ。
控えテントから見守っていた石橋も思わず、大ヶ樹と共に叫び声を上げていた。
その一部始終を、助走路にて次の跳躍を控える江國も目の当たりにしていた。
珍しく、彼のその表情には焦りのようなものが浮かんでいた。
眉間に皺を寄せ、何度も小さく息を吐いている。
バーの微調整が終わり、審判員が旗を振り下ろした。
江國は持ち上げたポールの先を祈るように見上げ、そして視線を正面に向けた。
相変わらず淡々と進む江國の助走は、どんな状況であろうとその変化にすら気づかない程精巧に、確実なものであった。
しかし、その精巧な跳躍ですらも、4m95cmという高さの前にはあと1歩及ばなかった。
江國の体はバーを巻き込みながら落下し、マットへと強く全身を打ち付ける。
大ヶ樹の跳躍の際の大歓声があったからか、江國の跳躍失敗に対する落胆の声が、目立つように観客席から聞こえてきた。
江國はその音を振り払うかのように、首を軽く左右に振りながら、マットに転がったポールを拾い上げて控えテントへと戻って行った。
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続く伍代も、1本目を失敗。
江國と伍代で2本目の試技が行われたものの、こちらも両者共に失敗に終わった。
江國が3本目の跳躍に向かう準備をしていた頃、伍代が何やら、審判員と話をしていた。
「…何やってんだ?伍代の奴…。」
続く5mの跳躍を待つ大ヶ樹は、その光景を見ながらそう呟いた。
小雨の降り続く環境の中、非常に緊張感ある状況が続いているのは確かであった。
伍代は、その状況に痺れを切らし、審判員に中断を申し出てるのかもしれない。大ヶ樹はそう考えていた。
しかし、大ヶ樹は既に次の5mに向けて、気持ちを万全に保っていた。
どんな状況であろうと、5mを越えて伍代と江國の一歩前に出ようという気合いだけが、彼を支えていた。
すると、暫くして伍代が皆のいる控えテントに戻ってきた。
伍代はその勢いのまま、タオルで雨に濡れたユニフォームの水分を拭き取り、上下共にジャージを着てスパイクの紐を緩めていた。
「…なんのつもりだ?伍代。」
大ヶ樹は緊張が昂る中、伍代を睨みつけながらそう問いただした。
「…え?何って…3本目はパス。俺は次、5mに行くよ。」




