第54話:Curse of Rain
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審判員が白旗を上げた事で、若越の成功が示された。
しかし、それと同時に少しずつ、空からは雨粒が落ちてきた…。
「…雨…か。」
マットの上でそう呟く若越の脳内に、忘れかけていたはずのあの日の記憶が少しずつ蘇っていた…。
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空は灰色に染まり、雨粒が静かに助走路を濡らし始める。
「ここからが本番か…。」
天を仰ぎながら石橋が呟く。
その少し後ろで、大ヶ樹がポールを握り直していた。
「雨は平等だ。ここで跳べるかどうかが、強さの証明だな。」
2人がそう会話する中、4m75cmの1本目、江國が試技に向かった。
助走はやや慎重だったが、彼は無駄のない動きで確実にそのバーを越えていった。
マットの上でポールを拾い上げると、何食わぬ顔で江國はマットを降りる。
拍手が響く中、次に跳躍を控える石橋は、焦りを醸し出していた。
自己ベストは4m70cm。
しかし、ここを越えなければ大ヶ樹には追いつかない。
(…輝と肩を並べるには…越えるしかないっ!)
「行きますっ!」という声が、ピットに鳴り響く。
石橋は、踏み切りのタイミングを図るように、一歩、また一歩と助走を加速させる。
(…いつまでも…負けてばかりじゃダメだっ!)
石橋は左足で力強く地面を蹴る。
雨で少し濡れていたが、しっかりと足裏で地面を掴むように蹴り、体を宙に浮かせた。
4m70cmを越えた時と同じように、宙に放たれた石橋はバーに触れないように着実に体を丸めながらその上を越えていく。
(…"明伯"の名を刻むって、約束したからなっ!
"羽瀬"にも、"継聖学院"にも負けねぇ!)
友と誓った目標。
いつも先を行く友の背を、追いかけているだけではその目標には辿り着けない。
今、その友の背を掴もうとするように伸ばした右腕を、石橋は大きく振りかぶってバーの上を越える。
審判員が白旗を上げた。
石橋は、マットの上に立ち上がって力強くガッツポーズをした。
「…よっしゃぁぁっ!!」
その姿を、助走路で試技を待つ大ヶ樹もしっかりと目に焼き付けていた。
(…圭…漸くお前と来年、大舞台で戦える確信が持てるようになってきたぜ…。)
大ヶ樹は満足そうに、笑みを浮かべて力強くポールを握りしめた。
ポールのグリップ位置に巻いたテーピングが、雨に濡れて少し滑りやすくなっていた。
しかし、そんな事お構いなしかのように、大ヶ樹は勢いよくポールの先を振り上げて、助走の構えに入った。
「…行きまぁぁぁぁぁっす!!」
助走スピードは誰よりも速く、素早くポールを突き立てると、一気に体を持ち上げた。
石橋よりも上のポールを使う大ヶ樹にとって、その高さはまだまだ踏み台にしか過ぎなかった。
しかし、小雨が降り頻る悪条件の中、決して楽な跳躍ではない。
一つ一つの動きに集中しながら、確実に動きを決めていき、大ヶ樹の高く跳ね上がった体はバーの上を優雅に超えていった。
大ヶ樹は、重力に従って落下する中、成功を確信するように拳を握っていた。
「くそっ…やっぱりやるな…っ!」
その様子を見ていた石橋も、悔しさを滲ませつつも満足げな表情で彼の跳躍を見守った。
審判員が白旗を降る。
群馬代表選手が既に1本目を失敗していた為、現時点での4m75cmの成功者は、石橋と大ヶ樹だけであった。
続く若越は、そんな2人の様子を目の当たりにしてたからか、再び緊張感が襲いかかっていた。
(…落ち着け…関東ともなれば、都大会よりもライバルは多い…。ここはまだ、単なる前哨戦にしか過ぎないんだ…。)
逸る鼓動がペースを乱し、1本目の跳躍をした若越は、勢いよくバーを巻き込みながらマットは落下していった。
(…何なんだ…今日は一段と…やりにくい…。)
5人目。江國が1本目の試技を迎える。
彼はただ淡々と、いつもと変わらぬ表情、いつもと変わらぬ動きのまま、若干滑りやすくなっている地面すらも捉えながら跳躍に望んだ。
彼の精巧で安定感のある跳躍は、悪条件下でもしっかりと機能している。
ふわりと浮き上がった江國の体は、4m75cm上空のバーの更に30cm近く上を通り越えて、その身をマットに沈めた。
驚きと称賛の声と拍手が、観客席から鳴り響く。
それでも、彼がそれに慢心する事はない。
当然の如くポールを拾い上げると、濡れる事を避ける為にいつもより足早に、控えテントに戻って来た。
(…こいつ、中々やりやがるな…。)
未だジャージ姿に身を包み、跳躍の出番を控える霧島は、1人内心そう思っていた。
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「…んだよ、若越の奴、やる気あんのか?」
観客席からその様子を見ていた皇次は、思わず文句を口にした。
「…そりゃ、こんな中だったら慎重にもなるだろ。
それに、奴は挽回してくるだろうな。70の時の跳躍みたいに。
…ただ、あれを繰り返してりゃ、霧島たちとぶつかる時には相当へばってる可能性あるな…。」
皇次に対し、冷静に状況を把握していた宙一が、そう見解を示した。
宙一の言う通り、このまま進めば仮に若越が次の4m80cmの跳躍を迎えたとしても、大ヶ樹や伍代、霧島に比べると相当体力消費は激しい状態でぶつかる事となる。
そうなれば、若越の勝率は限りなく低くなる…。
「…彼、やっぱりまだ囚われてるの?浮地郎さんの件に…。」
高薙兄弟の会話に、希美がそう言って介入した。
希美も当然、若越を襲った悲劇については理解していた。
その上で、未だにその呪縛に囚われる若越の姿を心配しているようであった。
「…俺たちが、あいつの気持ちを100%理解しきれない事は十分承知の上ですが…。
あいつに襲いかかった悲劇は、周りの俺たちが思うよりも遥かに重く、あいつに伸し掛かっているってのは、何となく感じますよ。」
そう語る宙一は、インターハイ支部予選での若越の様子を思い返していた。
誰もが羨ましく思う経歴の持ち主が、最も低い予選大会で自己ベストよりも遥かに低い高さをクリアできない。
当時は経験不足として彼を宥めた宙一も、今思い返せば想像を絶する経験をしている若越の気持ちを、十分に理解しきれてはいなかったと反省していた。
だからこそ宙一は、万全の若越との勝負を望んでいた。
しかし、新人戦では自分自身が不調に襲われる事態となってしまった。
その上で、今の若越を目の当たりにした宙一は、若越にここで負けて欲しくはないという気持ちも持ち合わせていた。
「…だから、あいつが再び復活する為の鍵は、伍代が…拝璃が持っていると思ってます。
あいつの1番近くにいる拝璃が、あいつをどん底から引き上げてくれって、俺は願ってます。」
宙一の言葉には、皇次も驚いている様子であった。
ただ単に、同学年の優秀な成績を持ったライバルを倒したいと思う一心であった皇次に対し、兄宙一はそこまで深い事を考えていたという事を、改めて思い起こさせているようであった。
「…どうかなぁ。拝璃は根っからの弟気質だし。
後輩を引っ張れる能力があるかどうか、姉としては心配な部分だけどね…。」
希美はそう言って、助走路に立つ若越に視線を送った。
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群馬代表選手と若越が迎える、4m75cmの2本目。
若越の前に跳躍をした群馬代表選手は、高さ及ばずバーを飲み込みながらマットへと落下し、2本目も失敗に終わっていた。
助走路に立つ若越の脳裏に浮かぶ、父の最期。
あの日も天気は良くなかった。
小雨の中、倒れる父。動かない体。
青ざめる母、歩実華の顔。
「…っ。」
若越のポールを握る手が、僅かに震える。
危険を察知した本能が、守りに入るよう促す。
(…ポールを…戻すか。)
若越は、4m70時点で上げたポールを、再び元々使っていたポールに戻していた。
より確実な跳躍をする。
その思いが、若越自らの意思に反するように、彼の体を縮こませていた。
それでも、今は目の前の跳躍に集中しなければならない。
意を決して走り出した若越だったが、踏み切りの瞬間、わずかな違和感が生まれる。
(あれ……?)
その考えが体に伝わる前に、曲がりきらないポールの乱反発を受けながら、若越はバランスを崩したままマットに落下した。
落胆の声はそこまで大きくはなかったが、若越の耳に悪魔の囁きのようにため息混じりの声が聞こえてくる。
項垂れながらマットに座り込む若越の体に、小さな雨粒が打たれる。
そして再び脳内に浮かび上がる、地面に叩きつけられる父の姿。
(…ダメだ…力が…入らない…っ!)
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「…何か様子おかしくねぇか?跳哉の奴。」
観客席から見守るチームメイトにも、その様子が感じられていた。
蘭奈もそれを感じ取っており、一言そう呟いた。
「…お父さんの事、思い返してるんじゃないかな?」
蘭奈のその一言に、巴月がそう見解を示した。
インターハイ支部予選、負けた若越が語った壮絶な過去。
宙一同様、蘭奈や紀良、巴月もその壮絶さに十分な理解は追いついてはいなかった。
しかし、彼らは伍代とはまた違った形ではあるものの、その存在によって若越の再起に大きく貢献している事は確かであった。
ただ、そんな彼らですらも、若越の気持ちを十分に理解し切ることは難しかった。
「…あの日も、こんな悪天候だったって言ってたっけな…。」
紀良はため息混じりな声でそう呟いた。
若越が過去の出来事を思い返してしまう条件は、皮肉にも揃ってしまっていた。
よりによって、最も思い出してはいけないタイミングになるとは、誰も予想はしていなかった。
(…大丈夫…なんて、無責任なことは言えないけど…。
今の跳哉くんには、私たちも桃木さんも、伍代さんもいるよ…。
独りじゃないんだから…そんな苦しそうな顔をしないで…。
…勝つ姿、桃木さんや私にも見せてよ…。)
祈るように胸の前で両手を握り合わせながら、巴月はそう思っていた。
その目には、雨粒とは違う雫が、溢れ出そうになっていた…。
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(焦るな…。全中の時の緊張感に比べたら…。)
4m75cmの試技は、3本目を迎えていた。
群馬代表選手は、3本目までに修正することが出来ず、高さ不十分のままバーを巻き込みながら落下。
結果、4m70cmの2本目の成功によって競技を終えていた。
(まだ終わっちゃいねぇ…!)
逸る呼吸は、呼応するように鼓動すらも早める。
全身を巡る血が、いつもよりも速いペースで体中を駆け巡る。
脳が、正常な判断力を喪失していた。
(…4m95cmまであと20cmもある…。こんなところで、終われねぇ…っ!)
若越が助走路に立つ。
しかし、ポールを戻したはずだったにも関わらず、ポールを上げたときと同じ、いつもよりも20cm後方の位置に彼は立っていた。
(…まだだ…この高さなら…問題ない。)
都大会でも飛んでいる高さ。全中では、その22cm上を越えている。
練習でも、5mへの感触を掴み始めていた。
その思いが、かえって若越の首を締め付けている。
(普通に…普通に跳べば…っ!)
「…いける。」
そんな、何の根拠もない自信を一言呟き、若越は助走へと走り出した。
足は回っている。雨による若干の気温の変化に、体はまだ影響されてはいない。
しかし、踏み切り位置までがやけに遠く感じていた。
(…何が何でも…終わらせねぇ…っ!)
踏み切った左足は、踏み切ったというより地面を掻き蹴ったように見えた。
ポールに投げ出されるように宙に浮いた若越は、無理矢理その体を上下反転させて、力に全てを任せた跳躍を披露した。
当然、無理矢理力で押し切った跳躍は、若越にとって違和感でしか無かった。
(…あっ…やべぇ…っ!)
体を返した先に待っていたのは、目の前まで迫ってきているバーであった。
咄嗟に振り払った右腕は、容赦なくバーにぶつかって、若越は時が止まったかのようにそのままゆっくりと重力の成すがままにマットへと落下していった。
ボックス近くの斜面になった部分へと落下した若越に、見ていた一同緊張感が走る。
項垂れながらゆっくりと立ち上がった若越に、一同は安堵したが、見た目よりも彼が負った心の傷は深く、痛々しいものであった…。
無惨にも、審判員の赤旗が上げられた。
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(…なんだ、こんなもんか。)
若越の一部始終を呆然と見つめていた霧島は、心の中で一言そう呟くと、漸く身に纏ったジャージのファスナーに触れた。
白のタンクトップに、翠色で"HIDAKA"と書かれたユニフォームが、遂にその姿を表した。
(全中優勝…日本記録保持者の息子…ねぇ…。)
霧島はベンチから立ち上がると、大きく背伸びをして小雨が降るバックストレートの外側のスペースで軽く体を動かそうとした。
テントから出る時、丁度霧島の真横を、魂が抜かれたかのように項垂れながら戻ってきた若越が横切った。
(…俺が追っかけてきた奴って、こんな大したことない奴だったのか…残念だ。)
霧島の横を、全く何の反応も示さない若越が通り過ぎる。
その小さく情けのない後ろ姿を、霧島は横目で見送った。
その視線の先には、ベンチで次の跳躍の準備をする、江國の姿も映った。
(…若越ファミリーの時代は終わりだ。
この世代、俺と江國の一騎打ちになりそうだな…。)
霧島は、その姿を憐れみの目で見送ると、空いたスペースで軽く走り込みを行った。




