第51話:Confidence & Courage
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佐藤がハッとして右手の先を見ると、そこにはタイミングよく後ろに振り抜いた若越の左手が、しっかりとバトンを掴んでいるのが見えた。
彼女の右手から一瞬にしてバトンが引き抜かれると、若越が一気に加速してバックストレートを駆け抜けていった。
(…若越くん…良かった…。)
佐藤は安心して走る速度を緩めた。
すると、その横を突如突風が吹き抜けた。
彼女は驚いてその風の行方を見ると、桃色の影が前を行く黒のビブスを着た若越に向かって襲いかかっていくような光景を目の当たりにした。
(…あれが…蘭奈…陸…。)
佐藤は最早唖然としていた。
これまで見てきた色んな同級生の走りとは、格別の走り。
コーナーの内側から三伯に「佐藤っ!」と呼ばれるまで、彼女はその走りに釘付けになっていた。
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若越の視線の先には、誰もいない。
彼は今、トップを駆け抜けている。
しかし、その背後からひしひしと感じる、己を狙う猛獣の視線。
地面を蹴る足音、己の心拍、呼吸。
その音に混ざって、もう一つの足音が少しづつ近づいているのを、若越は感じていた。
(…想定より…縮められている…。)
第3コーナーの入り口に差し掛かった辺りで、若越は背後にとてつもないオーラが迫っているのを感じていた。
その相手は、蘭奈である。
(…ここで…抜かれるわけには…っ!!)
しかし、コーナー半ばで既に若越の視界の隅には、蘭奈の姿が映り込んでいた。
(…やっぱり…速ぇ…。)
若越は、蘭奈の姿に気を取られまいと、視線を目に前に集中させた。
その視線の先には、第4コーナー入口で待ち構えるアンカーの巴月の姿があった。
彼女は若越を見ているも、その表情は不安を物語っていた。
『私も続けてたら、跳哉くんや陸みたいになれたのかなぁって、そう思うときが増えててね…。』
ふと、若越の脳裏に巴月の言葉が蘇ってきた。
彼女がそう語った時の、寂しげな表情と、初めて見せた後悔の念。
『…そんな事言うなよ、巴月。』
(…何で俺は、そう巴月に言えなかったんだ…。)
それでも、再び選手に戻れと彼女に言ってはいけないと、その時の若越はなんとなくそう感じた。
少しでも前に進もうとしてる彼女に、自分は何が出来るのかと。
それで若越は、自身の今の気持ちを素直に彼女に打ち明けた。
それが彼女にとって、なにかプラスになるかとは思ってはいなかった。
若越はただ、前に進もうとしている彼女に、ほんの少しでも勇気を与えたいと思っていた。
勇気を与えられる自身は無い。それでも、今は自信を持って前に進んでいる。
(…無理して進むことが、良いことじゃない。ゆっくりでも少しづつ、前に進むことが必要なんだっ!!)
若越は横に並ぼうとする蘭奈を遮るように、更に加速をかけた。
僅かながら、若越の体が蘭奈より前に出る。
若越がバトンゾーンに侵入するまで、前で待つ巴月は若越の姿を見ていた。
「…走れっ!!巴月ぃっ!!」
若越は走りながらそう叫んだ。
その言葉にハッとした巴月は、クルッと体を前に向けて走り出す。
若越の横には蘭奈の姿がはっきりと見えた。
しかし、彼はその姿を気にすることなく、目の前の巴月に視線を集中させた。
必死に若越が巴月を追う横で、蘭奈が2組のアンカーである北 里乃にバトンを渡した。
北はサッカー部マネージャーながら、運動神経も抜群に良かった。
蘭奈がアンカーに抜擢しただけはある。
しかし、蘭奈と北がバトンパスをしたことで、2組が若干失速した。
そこを、若越は見逃さなかった。
若越はバトンゾーンギリギリまで巴月を追いかけ、彼女の右手にアンダーハンドパス(※1)でバトンを手渡した。
「…行っけぇぇぇぇぇ!!!巴月ぃぃぃぃ!!!」
若越は蹌踉めきながら、精一杯そう叫んだ。
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「…行っけぇぇぇぇぇ!!!巴月ぃぃぃぃ!!!」
巴月の背後から、若越の叫び声が聞こえた。
(…言われなくても…そのつもりだよっ!)
巴月がバトンを受けて走り出すと、背中から強い追い風を感じた。
彼女のすぐ目の前には、桃色のビブスを着た北の姿が見えた。
(…ありがとう…跳哉くん…。私も…勝ちたいっ!)
巴月はすぐに、北の隣に並んだ。
北は決してスピードが遅いわけではない。むしろ蘭奈からの勢いを背負って速くなっているようにすら見えた。
『もう辞めるなんて思わねぇ。俺は絶対こいつらに勝ってやる。ってな。』
(…跳哉くんは凄いよ。"勝ちたい"って気持ちで、再び進む選択を選べたんだから…。
私には、その選択をする自信が全然なかったし、今もないよ…。)
巴月は、北の横をスッと抜け出して、一歩前に躍り出た。
(…でも…跳哉くんの気持ちは、私にも分かる気がする。
負けたくないんだよね。勝つ喜びを知ってるから。
勝って、褒めてくれる人がいるから。)
巴月の脳裏に、勝馬の顔が浮かんだ。
かつて、陸上を始めた頃やそこから陸上を続けていく中で、試合に勝った時の兄の自分より嬉しそうな顔が。
(…そっか。跳哉くんにとって、今は桃木先輩がいるから。だから君は頑張れるんだね。)
ゴールまで残り30m。
僅かに抜かした筈の北が、徐々に迫っている気を巴月は感じた。
(…私には、もうそういう人はいないけど…。)
『…走れっ!!巴月ぃっ!!』
ふとその瞬間、先程の若越の様子が巴月の脳裏に浮かんだ。
巴月は、練習通りに若越が来るタイミングで走り出そうとしたつもりであったが、若越はその前にそう叫んでいた。
(…何故だろう。あの時、何も考えずに走らなきゃって思った。
…色々考えて、必死に繋いでくれた…君の為に…。)
巴月はラストスパートを掛けた。
北との差が一歩、また一歩と広がっていく。
視界の先が明るく眩しい。
集中して走る中で、狭まり暗くなる視界に飛び込んでくる、明るく輝く光。
(…ありがとう、跳哉くん。)
巴月の腹部に、ゴールテープが触れる感覚を感じた時に、彼女の瞳にはキラリと輝く雫が一つ、こぼれ落ちていた。
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「…あーっ!!!!悔しい!悔しいぜ跳哉っ!!!
あと少しだったんだけどなぁ…。」
クラスリレーが終わり昼休憩に入ると、若越の元に自然と蘭奈、紀良、高津、巴月が集まった。
「残念だったねぇ~、うちの策士が一枚上手だったようだね。」
高津は悔しそうに叫ぶ蘭奈に、鼻高々にそう言った。
「…いやぁ、それにしても速かったよ。七。
流石勝馬さんの妹って所か?」
2人を無視して、巴月に対し紀良がそう評した。
「あっ、光季知らねぇのか。巴月、中学時代都内上位に入るくらい、めちゃくちゃ強かったんだぜ。」
その紀良に対し、若越はそう言って彼女の実力を説明した。
「えっ、そうだったの?」
「…ま、まあねぇ…。色々あって選手は辞めちゃったけどね。…でも、久々に走れて楽しかったよ。」
驚く紀良に、巴月は遠慮しながらそう答えた。
"楽しかった"と言う巴月の笑顔は、偽りには見えなかった。
「…なら良かったよ。無事、優勝できたしな。」
若越がそう言うように、1年生のクラスリレーは若越たち3組が勝利を収めた。
優勝を狙っていた大橋も、自分の結果を他所に大喜びをしていた。
担任に半ば脅されていた八須賀も、喜びの傍ら安心している様子が伺えた。
「お疲れ様、若。やっぱ流石だよ。お前の采配は見事だったな。」
そこへ、三伯も現れて若越をそう讃えた。
「祐誠も頑張ってくれたお陰だよ。」
若越は、照れ隠しのようにそう言った。
「大橋たちもそうだけど、秋田とか佐藤とかもお前の事見直したと思うぜ。
まあ、関東大会に進んだ選手だもんな。当然って感じか。」
三伯にそう言われて、若越はふと関東大会の事が頭を過った。
この体育祭を終えたら、関東大会が待っている。
徒競走やクラスリレーに没頭する中で忘れかけていたが、若越にとって本当の勝負はこれからであった。
「それに、いつの時代も足速い奴ってのはモテるんだな。他のクラスの奴らが、お前ら陸上部の事、ちょこちょこ話題にしてたぜ。羨ましいなぁ。」
三伯はそう言うと、野球部の仲間に呼ばれて行ってしまった。
「へぇ、そうだったんだね。あんたもモテ期が来るんじゃないの?」
三伯の話を聞いて、高津が蘭奈にそう言った。
「はぁ?そんなのどうでもいいね。俺は跳哉たちに負けたのが悔しい。来年は勝つからな!」
蘭奈は不機嫌そうにそう言った。
彼にとってモテ期といった青春の重大要素とも言える事など、全く興味がなさそうであった。
「…来年違うクラスとも限らないだろ?…ってか、お前この後すぐ部対抗リレーだろ?先輩たちの所行かなくていいのか?」
蘭奈に冷静にそう突っ込んだ若越にそう言われて、蘭奈は思い出したようにハッと焦った顔を見せた。
「いっけね、そうだった!」
蘭奈は焦りながらそう言うと、先程まで200mを若越と競っていたとは思えない程の全力疾走で、部室の方へと行ってしまった。
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午後の種目の1発目は、部活動対抗リレーであった。
女子の部には、陸上部、バスケ部、バレー部、テニス部、バドミントン部、弓道部が参加する。
男子の部には、陸上部、サッカー部、野球部、バスケ部、テニス部、バドミントン部が参加する。
それぞれ4名の部員が100m区間を走ってバトンを繋ぐ、4×100mリレーと同一形式でのルールの元行われた。
そして、男女共通で陸上部には毎年ハンデが課される。
スタートを10m後ろにされたり、上下長袖のジャージ姿で走らされたりと、他部活からの要求に答えてきた。
しかし、今年は室井が運営の生徒会に掛け合い、男女共に1年生を参加させることをハンデとして要望したのであった。
室井の提案ということもあってか、他部活から批判の声は一切無かった。
その代わり、部活動内でのリレーの練習を一切しないという条件の元、合意された。
女子の部の陸上部代表として出場するのは、もちろん諸橋、紡井、丑枝、高津の4人であった。
男子の部は、泊麻、七槻、音木、蘭奈の4人が出場した。
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女子の部は、圧倒的大差をつけた陸上部が堂々の優勝を果たした。
諸橋、紡井の好走はもちろん、丑枝と高津が繋いだ1、2走での予想外の大リードが結果として勝利を大きく引き付けた。
一方、男子の部は…。
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「…束咲さん的に、どう考えますか?この4人での配役。」
新人戦支部予選を終えた頃、七槻は体育祭での部対抗リレーの作戦を考えるために、泊麻を部室に招いた。
「…なるほどねぇ。伍代の言う今年のハンデクリアと、次世代に向けて1年坊を走らすってのには、俺も賛成かな。
んで、その上で俺が提案する走順なら…。」
泊麻はそう言うと、部室にいた後輩たちの顔を見渡した。
練習前ということもあり、リレーには参加しない伍代や若越、紀良もその場には居合わせた。
「…みっちゃん、俺、勝馬、蘭奈…かな。俺的には。」
泊麻の答えに、一同驚きの表情を見せた。
「…なんだ?しっくりこねぇってか?
…まぁ、やってみりゃ分かるよ。」
泊麻は妙に自信満々にそう言った。後輩たちも、泊麻が言うならと異論を唱えるものはいなかった。
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部対抗リレーの号砲が鳴ると、音木が見事なスタートを決めて、コーナーを華麗に駆け抜けていった。
スタート10m後方からのハンデルールは変わらなかったものの、2走の泊麻にバトンが渡る頃には陸上部は既に集団に紛れる位置まで追い上げていた。
その順位を、2走の泊麻が一気に差をつける。
他の生徒達の集まる観客席の前を通過するということもあり、各部活を引退した3年生の元エースたちがその走順に集結していた。
しかし、泊麻は他の部活動チームの前に躍り出ると、後続との差を一気に広げていった。
第3走者七槻とのバトンの受け渡し、ここでアクシデントが発生した。
バトンパスの経験があまりない泊麻と七槻との間で、若干もたつきが生まれ、泊麻が広げた差が再び縮まってしまう。
それどころか、サッカー部が七槻の前に躍り出て行き、七槻のすぐ後ろに野球部も迫っている状況であった。
(…しまった…っ!!)
七槻がアンカーである蘭奈にバトンを渡した時、サッカー部のアンカーで現キャプテンの大園は既に1歩前を走り出していた。
野球部のアンカーで、同じく現キャプテンの座を務める磐本も、七槻たちのすぐ隣でバトンを受け取り、走り出そうとしていた。
「…悪ぃ…!」
七槻は蘭奈に向かってバトンを渡しながら、そう叫んだ。
その声が聞こえたか聞こえていなかったのかは不明だが、蘭奈は後ろを見ることなくバトンを受け取ると、目の前の100m先のゴールだけを見て走り出した…。
※1:陸上競技のリレーでバトンを受け渡す方法のひとつで、受け取る人が腰の位置で軽く腕を出した上体で受け取る姿勢。走る姿勢とほとんど変わらない状態で受け渡しができるため、スタートダッシュに優れている。




