第41話:Continuing on
夕焼けが西の空を焦がし、地面に長い影を落としていた。
紀良は、絞り出すような声で音木に告げた。
「…もう…陸上は…辞めようかと思って…。」
音木は、紀良の言葉を静かに受け止めた。
驚きも咎める言葉もなく、ただ事実を受け入れるように。
「…そうか…。」
短い言葉に、紀良は俯いた。
風が2人の間を吹き抜け、沈黙が重くのしかかる。グラウンドと部室との間の道路に落ちた葉が、乾いた音で擦れながら風に舞う音が、余計に静けさを際立たせていた。
「…理由は、あいつらと比べて自分が劣っていると感じるから。それだけか?」
音木はそう問いかけた。
紀良がゆっくりと顔を上げる。
夕焼けに照らされたその目は、僅かに反射して光っている。
「…もちろん、才能だけじゃない事は分かってます。あいつらがこれまで努力してきた分、今から始めた俺が追いつけるなんて容易いものではない事は…。」
紀良は言葉を探すように、ゆっくりと話し始めた。
空は秋の茜色というべきか、オレンジ色に染まっている。
「…まさか、こんなにも高いレベルを目指すチームだとは、正直思っていませんでした。
俺にとって、最初の頃に言った通り、青春を楽しめれば何でも良かった。どうせなら、足が速くなる陸上部だったら、日常も楽しくなるって、俺はそんな軽い気持ちでしかなかったんです。
…それでも、あいつらと練習したり、あいつらの活躍を見る度に胸が痛くなる。
あいつら、めちゃくちゃ楽しそうなんです。
…羨ましいって思っちゃって。あいつら程強ければ、俺の知らない楽しさを知れるのかなって…。」
紀良の声は、次第に小さくなっていった。
音木は、何も言わずに紀良の言葉に耳を傾けていた。
「…でも、俺にそれは無理だって。どんだけ頑張ったところで、陸のように10秒台で走れやしない。若のように、高い空は跳べない。
俺みたいな生半可な奴が、簡単に楽しいなんて思える程、陸上って甘くないんだって…。」
紀良がそこまで告げると、音木は紀良の言葉を遮るように口を開いた。
「…お前は、俺のことを強いと思うか?」
音木の突然の質問に、紀良は音木の顔を驚いたように見上げた。
「…支部予選で7位。都大会に出てる人を、素人の俺が弱いだなんて思うはずがないです。」
紀良はハッキリとそう言った。
「…そうか。でもな、俺も最初はお前と同じだ。
そりゃ確かに、俺は中学から陸上をやっていた。しかし、勝馬や拝璃を見てると、何なんだろうって。
同じ練習をして、同じようにやってきても、未だに勝馬には勝てない。
俺と勝馬は、同じ中学で同じ陸上部に入った。部活だけじゃない。地元のクラブチームにも一緒に所属した。
…それでも、才能に簡単には勝てない。
俺は才能には選ばれなかった。…それに気づいた時、俺は努力を選んだ。
…まだ結果を出せてないから、俺もまだあいつらに勝てたとは言えない。
…それでも、俺は努力を続ける。あいつらよりもって気概でな。
…そうすればいつか、努力が才能に勝てる日が来るかもしれないってな。」
音木の言葉は、力強く、そして優しかった。
紀良は、音木の言葉をしっかりと受け止めているようだった。
「…お前は、あいつらと本気でぶつかったのか?」
音木のその言葉が、雷のように紀良の心に突き刺さった。
『あいつらと本気でぶつかったのか?』
その言葉を脳内に巡らせながら、紀良は首を大きく横に振った。
「…正直、逃げた方がいいと思いました。あいつらとまともにぶつかっても勝ち目はない。やらなくても、それは明白。
けど、まだ本気でぶつかれてないから…。」
紀良は言葉を詰まらせた。
その先の答えが浮かばない。その答えを、紀良はまだ知らない。
「…本気でぶつかって、必ず勝てるなんて事はない。
けどな、本気でやって何も残らないなんて事はない。
…俺に騙されてもいいと思うなら、続ける道を俺は勧める。
選ぶのは、お前自身だ。」
音木はそのまま、練習の為グラウンドに向かって行った。
あの日、入部して初めて練習に参加した日。
「"速くなる"為に練習するんだろ?」
音木が紀良に言った言葉。
自分よりも遥か高みにいる人は、今でもあの時と変わらない気持ちなんだ。
"速くなる"…音木が言っていた努力で才能に勝つ。
そう思ってやり続けたから、今の音木の実力がある。
「…楽しくさせるよ。君が羽瀬高陸上部に入った事、後悔はさせないよ。」
伍代が紀良に言った言葉。
彼が直接、紀良にあれこれ言った訳ではない。
それでも、伍代の気持ちも変わらない。
現に、若越は自分の想像を越える経験をして、陸上を諦めていたにも関わらず、若越は今、勝負に燃えている。
紀良の目には、若越が楽しんでいるように映っている。
これが、伍代の力なんだ。
何かを直接指導したり、具体的な練習メニューで人を強くしてるんじゃない。
伍代自身の存在が、周囲の力を知らず知らずのうちに引き出している。
夕焼けはすっかり消え、街灯が道を照らしていた。
紀良は、音木の言葉を何度も頭の中で反芻していた。
"才能"、"努力"、そして、"続ける"ことの意味。
その時、紀良のスマートフォンが鳴った。
画面に表示されている名前は、《高津 杏珠》…。
紀良は漸く決心し、その電話に出た。
『もしもし、紀良くん?』
高津の声は、少し怒っているようにも聞こえた。
彼女は普段から強い口調で喋りがちなので、そう聞こえたのかもしれない。
「…高津さん…。」
紀良は、小さく応えた。
『どうしたの?皆、心配してるんだよ。
急に部活に来なくなったりして…。』
「…ごめん…あのさ…高津さん。」
紀良はそう言うと、高津に今日の出来事を話した。
音木との会話、そして、現状の自分の迷い。
高津は黙って聞いていた。
そして静かに、しかし力強く話し始めた。
『…まあ、この前も聞いたから…私は何となく君の行動の理由は薄々分かってたよ。』
高津の口調が、少し優しく聞こえた。
気のせいではない。不思議と彼女が、自分を支えてくれるかのような、そんな声に聞こえた。
『…安心して。私、もう家だから。周りに誰もいないよ。
だから、君に陸上部に戻ってこいって説得しようって電話したわけじゃない。』
高津の口調は落ち着いていた。
それでも、どこか彼女は焦っているようにも聞こえなくはない。
自然と、高津相手だとそう考えられる程、紀良は落ち着いていられた。
『…折角だから、私の事も話しておこうと思って。
君ばっかり私に自分のこと話してるのも、不公平でしょ?』
高津はやはり落ち着いているように繕って、何か必死に言葉を選んでいる。
それだけ大事な何かを、高津は紀良に伝えようとしていた。
紀良はただただ、電話越しに「うん。」と相槌を打つだけであった。
『…実はね、私にはずっとライバルが居るの。
彼女と出会ったのは中学生の時。地区大会の試合でね。
彼女は当時、めちゃくちゃ強くてね。1歳年上のお兄さんも強くて、何なら今も強い。
そんな彼女に、私はずっと勝ちたかった。
でも、勝てなかった。彼女は都内で上位に入るくらいの選手だったから。
中学生の時は勝てなかったけど、体も技術も成長した高校生なら勝てるかもしれない。
そんな微かな希望を胸に、私は羽瀬高を選んで陸上部に入った。
…でも、もう彼女は選手じゃなかったの。
選手として、彼女に勝ちたかったのに…彼女とはもう戦えないって知っちゃったの。
だから私は、結果で証明しようと思った。
彼女より速い記録を出せば、結果が勝利を証明してくれる。
…それでも、勝てないかもしれない。
目には見えないものかもしれないけど、それでもその結果で証明したい。
…そんな曲がった嫉妬心みたいなもんでしか、私は陸上を続けられてないけどね。
…人それぞれだから。続ける…進み続ける理由なんて。』
紀良はただ高津の話を、時折相槌を挟みながら聞いていた。
初めて知る、仲間の葛藤、仲間の思い。
紀良の心は少しずつ、揺れ動く。
『…ごめんね、長くなっちゃって。女の嫉妬は怖いよね。私もそう思う。』
高津は、あまりにも紀良が真剣に話を聞いてくれるので、柄にもないと思いいつも通りを装った。
「…それでも、ずっと変わらずにその思いのまま進んできたんだよな。
逃げた俺とは違う。高津さんは凄いよ。」
『…私は、まだ君が逃げたとは思ってないけどね?』
紀良が言い終わると同時に、高津が思いそのままハッキリとそう言った。
『…私は、続ける"努力"しかできないから。私に"才能"なんてものがあるとは思わない。
だから"努力"するの。彼女以上に。意地だと思ってる、最早。』
ふと、音木の姿が紀良の脳裏をよぎった。
音木の"努力"も、思い返せば高津と同じ意地である。
紀良の中で、暗闇で見えなかった"答え"という出口の光が、少しずつ見え始めている気がした。
「…俺も…俺も"努力"したら、今からでも間に合うと思うか?」
自然と、その言葉が紀良の口から出た。
まだハッキリとした答えは見えない。それでも、そこへ辿り着く為の方法が1つ手に入った感覚を、紀良は感じていた。
『…私には分からないし、決められない。それをするのは、君自身だから。
君が負けない"努力"をすれば、可能性はゼロじゃない。それは私も同じだから。』
高津はそう答えた。その言葉は何処か、高津が自分自身に言い聞かせているかのような、そんな言い方であった。
「…ありがとう、高津さん。やっぱり頼りになるよ。」
紀良は改めた声で、そう感謝を伝えた。
『…あのさ、今更かもしれないけど…杏珠でいいからね。光季。』
高津の声が少し弱々しい。 彼女の恥じらいが、電話越しに紀良にも伝わっていた。
「わかった。ありがとう杏珠。本当に。」
紀良がそう言うと、電話は切れてしまった。
音木と高津の言葉で、紀良は失ってしまいそうになっていた大切なものを、ギリギリで失わずに済んだ。
次の日、2人への感謝を胸に、紀良は陸上部の練習に訪れた。
「…無断で練習に参加せず、すみませんでした。」
紀良は皆の前で深々と頭を下げて、そう謝罪した。
顔を上げると、迷いが晴れたような清々しい表情をしていた。
「まだまだ、足りない部分や力不足かもしれませんが、今後とも宜しくお願いします。」
「まあ、よくわかんねぇし俺は深く聞くつもりもないけど。
俺たちは、お前の可能性を信じてる。
それだけは、忘れんなよ。」
七槻は照れくさそうに笑いながら、紀良の肩を軽く叩いた。
その言葉に、紀良は胸が熱くなるのを感じた。
音木と高津の言葉、そして、仲間たちの温かさ。
それらが、紀良の背中を力強く押していた。
練習を終え、皆が部室に戻っていく中、紀良は1人グラウンドを見つめていた。
以前とは違う、力強い眼差しで。
(…多分、高校生活が充実して楽しめるって、ただ単に自分の好き勝手やる事じゃない。
1つでも、心から何かに向かって諦めずに突き進んだ先に、そう思える日々が残されるって事なのかもしれない。
…いや、そうだって事を証明してみせる。
俺自身の人生を使って、な。)
紀良は心の中で静かに、しかし力強く誓った。
"才能"を持たない"可能性"の星が、秋の夜空に強く輝いている。
その輝きは、周囲の星に負ける事なく。