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86 交渉決裂

 確かに首輪が外れたのに、兄さんは声を発する事もなく、狐の姿のまま足元に落ちた首輪を見ている。


 首輪が外れたら皆、話す事が出来て人型にもなれるはずなのにどうしてだ?


「確かに首輪は外れたようだが、この狐は人の姿に変化はしないぞ。やはり普通の狐ではないのか?」


 しばらく兄さんの様子を見ていたデュラン公爵は檻から目を離すと僕達に向き直る。


 デュラン公爵は普通の狐だと言うが、あれは確かに僕の兄さんだ。


 間違いなく首輪は外れたのにどうして兄さんは人型にもなれず、ましてや声を出すことすら出来ないんだろうか?


 …まさか!?


 僕は侍従の隙を付いて兄さんの檻の前に駆け寄った。


「あ! お待ちを!」


 侍従に止められるより先に僕は檻の隙間から手を入れて兄さんの首周りを探った。


 …やっぱり…


 そこにはもう一本の首輪が巻かれていた。


「テオ! もう一つ別の首輪が着けられている!」


 僕の叫び声にテオとエリクは驚いて立ち上がるが、デュラン公爵の視線に押されるようにまた座り直した。


 檻の中の兄さんは何かを訴えるように口を動かしているが、それが言葉になることはなかった。


 檻の隙間から入れた手で兄さんの体を撫でていたが、側に来た侍従にやんわりと元いた席へと促される。


 あまり抵抗してデュラン公爵の心象を悪くしたくない。


 渋々とソファーに座り直し、デュラン公爵に兄さんの解放をお願いしようとしたが、それよりも先にデュラン公爵の方が口を開いた。


「この狐が人間の姿になれない以上、そちらに渡すわけにはいかないな。君には大変気の毒だとは思うが、娘が可愛がっている狐をおいそれと手放すわけにはいかないのでね。お引き取り願おうか」


 デュラン公爵の言葉は大変なショックだった。


 まさか断られるとは思ってもいなかったからだ。


「お待ち下さい。お支払いされた金額をお返ししますので、この狐を渡してもらうわけにはいきませんか?」


 テオがデュラン公爵に食い下がるが、デュラン公爵は無情にも首を振った。


「お金の問題じゃない。それなりに高価ではあったが娘の喜ぶ顔を見れた事の方が私にとっては何倍も価値がある。この狐が本当に獣人だと証明出来ない限り渡すわけにはいかないよ」


 頑なに拒むデュラン公爵にテオは仕方なさそうに立ち上がった。


「わかりました。今日の所はこれで帰ります。首輪の解除方法がわかりましたらまたご連絡いたします。それでよろしいですか?」


 決意を秘めたようなテオの言葉にデュラン公爵は少し逡巡したあとで頷いた。


「この狐が間違いなく獣人だと証明できたなら、娘は私が説得しよう」


 デュラン公爵は僕を見てそう約束してくれた。


 僕はエリクに促されてのろのろと立ち上がるとデュラン公爵にお辞儀をしてその場を後にした。


 執事に見送られて僕達は玄関を出て馬車に乗り込む。


 ここに来る時はあれほどワクワクした気分だったのに…。


 馬車に揺られて公爵邸を後にするが、誰も口を開く者はいなかった。


 馬車は程なくして宿屋に到着したが、僕は放心状態のままだった。


「おい、シリル。降りるぞ」


 エリクが声をかけてくるが、立ち上がろうにも足に力が入らない。


 二人に支えられるようにして馬車を降りて宿屋の部屋に入った途端、僕はその場に座り込んだ。


 兄さんに会えたのに…。


 あれは間違いなく兄さんなのに…。


 座り込んだまま、ポロポロと涙を流す僕をテオとエリクは何も言わずにそっとしておいてくれる。


 涙を袖で拭おうとして貴族服を着たままだった事に気付き、指で涙を拭った。


 のろのろと立ち上がり貴族服を脱ぐと、エリクがそれを受け取った。


 二人共既に着替えた後だった。


「シリル、大丈夫か?」


 気遣うようなテオの声に僕は軽く頷いた。


 今はただ、兄さんに会えただけで良しとしよう。

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