見合い結婚のそのあとで
妻が言った。
「妊娠したみたい」
私が言った。
「誰の子だ?」
次の瞬間ものすごいスピードで襲い掛かってきた彼女の右手を、私はよけることができなかった。
妻との出会いは見合いの席。
私は貴族といっても五男で家は継げない。下手な貧乏貴族と縁づくよりも生活力のある裕福な商家がいいだろうと親が探してきた縁だった。
あちらの両親と彼女と私、私の母はすでに亡くなったので、私側からは父だけだ。
「はじめまして」
お互いに挨拶をして、目を合わせて一目で気に入った。彼女の勝気さは目に表れている。初めてでも恥じらいもなにもなく、ただまっすぐに私を見ていた。
「この子ったら小さいころからお転婆で、嫁のもらい先がないんじゃないかって心配していたんです。実際近所じゃ『結婚相手を探している』ってこの子の名前を聞いただけで相手のほうが真っ青になるくらいで」
「お母さん、そんなことわざわざ言わなくってもいいでしょう」
彼女は不満そうに母親を小突く。彼女の母親は笑って、
「こういうことは最初に伝えておいたほうがいいのよ、今まで隠していてうまくいかなかったじゃない」
と彼女の武勇伝を語る。曰く近所のガキ大将で小さいころから姉さんと慕う子分がいたとか。口喧嘩は負け知らず、いじめっ子がいると駆けて行って先に手を出すのは彼女のほうだった等々。
彼女は途中から止めることもあきらめて、真っ赤になってうつむいていた。
「はは、活発な子ども時代を過ごされたのですな」
そういう私の父は引きつった顔をしていた。貴族の子でそこまで元気のある女性は聞いたことがないからだろう。
父の母である祖母もおとなしいひとで、私の母はそれを超えて消えてしまいそうなくらい淑やかな人だったらしい。私は生まれて間もなく亡くなったので記憶がない。父や兄は実際の母を知っているから、母のいいところを思い出しては懐かしんでいた。
しかし私は小さいころから不満だった。周りの母親がいる子どもたちがうらやましくて仕方がなかった。淑やかがなんだ。母が元気でさえいてくれたら自分はこんなみじめな思いはしなかったのに、と。
「元気なのはよいことです」
つい出た一言は本心だった。
結婚自体にあまり乗り気でなかったこともあるが、今まで会った淑やかな女性たちと結婚まで至らなかった理由がようやくわかった。自分が結婚相手に求めることが、この時はっきりした気がしたのだ。
見合いの後、すぐ結婚を申し入れた。少し考えたほうがいいんじゃないかと父は言ったが、私の意思は固かった。
そこから話はとんとん拍子に進んだ。相手の両親が大変乗り気だった。この機会を逃しては次はないとばかりに翌月には結婚式を挙げていた。
私たちはほぼ他人のまま夫婦になった。それでもきっと幸せになれるだろうと確信していた。結婚式も終わりごろ、彼女の幼い弟が妻のいない時に私に近づき、あの発言をするまでは。
「姉ちゃんにはな、好きな人がいるんだ。奥さんがいるから、一緒にはなれないんだって。だからお前はリヨウされてるんだぞ」
「それは言っちゃだめ!」
彼女の弟はそう言い捨てて走り去った。周りの反応から、弟の言ったことがふざけてでたらめをいったわけではないとわかる。
「あの子の言ったことは気にしないで、大好きな姉がとられて嫉妬しているのよ」
そう慰める周りの言葉が右から左に流れていく。
なぜ気づかなかったのか。私にとって彼女が運命と思えるほど好ましくても、彼女にとってはそうではない。隠れ蓑としてちょうどいい、その程度の気持でも結婚はできる。
そのあとのことはあまり覚えていない。私は自分の気持ちの整理でいっぱいいっぱいだった。上の空になっていたのが彼女にも伝わったのだろう。
「大丈夫?」
心配させているのはわかるが、今の自分の気持ちをいうのはプライドが許さなかった。
彼女のことは好きだ。気持ちが自分に向いていなくても、一緒にいたい。
ならば一緒にいるためにはどうすればいい?
この気持ちに蓋をして、寛容な夫であればいい。彼女はどんな形であれ、私との結婚を選んだのだから、彼女の望むような夫であればきっと私が捨てられることはないはずだ。
思い悩んだ末、私は新居に着くなり『寛容な夫』がいいそうな言葉を言った。
「私の子でないと分かる子さえ産まなければ、あとは好きにすればいい」
そう言った時の彼女の呆然とした表情は不可解だったが、私は自分の決意を伝えられて満足だった。
私の子どもであるかは関係ない。彼女の子であれば自分の子として育てられるし、可愛がれると思う。体面もあるので明らかに人種が違うようならば諦めてもらうしかないが、不倫夫婦としてはよくある条件だし不自然ではないだろう。
そんな歪な形で始まった夫婦生活。
後日向き合って、誤解が解け、ようやく気持ちが近づいた。前向きに夫婦になれたことが単純に嬉しかった。
そして数か月後、冒頭の妊娠発言に戻る。
じんじんと痛む左ほおをおさえながら、なぜあんなことを言ってしまったか振り返る。
明らかな失言であったことは気づいている。しかし・・・・いや、認めよう、私が悪かった。動揺していたのだ。本気で彼女の浮気を疑ったわけではない。
心当たりがあったとして、まさかそれで子ができたなどと信じられなかった。そして信じきれずに出たあの失言。
彼女は私をはたくやいなや、自分の部屋に飛び込み、
「実家に帰らせてもらうわ」
そう言って荷物を詰めた鞄を両手で引きずり家を出て行った。
重い荷物に手こずる姿は、まったく美しくない後姿だったが、私はこれほど引き止めたい後姿を他に知らない。しかし、あんなことを言ってしまったわたしに引き止める資格などあるはずがなかった。
「やってしまいましたね若様」
「あそこまで見事に地雷を踏まれる方、私はじめて見ました」
「若奥様かわいそう・・・」
メイドたちは呆然とする私にコーヒーを出しながら、勝手なことをさえずっている。
「ちょっとほうっておいてくれないか・・・」
今は一人になって考えをまとめたいと口に出すと、メイドたちはさらにうるさくなる。
「だまってなんかいられませんよ。妊婦にストレスはよくないんですから」
「まったくです。あんな大荷物、お一人で持っていかせるなんて信じられませんわ」
「下手をすると・・・・流産なんてことも・・・・」
「なんだと・・・?」
今まで近くに妊婦がいたこともなく、自分に子どもなんて具体的に考えたこともないものだから、妊婦がそんな繊細なものだとは知らなかった。
「特に妊娠初期は流れる可能性が高いといいますし・・・」
「おかわいそうな若奥様」
「傷心の若奥様は、今、ご実家。たずねてきた幼馴染と意気投合されて・・・なんて」
「ありえないことじゃありませんわ」
「離婚されたがってましたし」
「これでようやく若様に隙ができたわけで」
「今なら離婚しても有利な条件で慰謝料ふんだくれますものね」
たわいもない女の噂話だ。何も確証がなく、推測だけで話していると分かっていても、焦りが募った。
ああしかしこんな躊躇しているあいだにも、もしかして訪ねてきた幼馴染とあんなことやこんなことが・・・・
「でかける!」
いてもたってもいられず立ち上がると、メイドたちは待ち構えていたように、シルクハットをかぶせ、ステッキを持たせ、靴を磨く。
「いってらっしゃいませ」
「とにかく謝るのですよ」
「ご武運を」
にっこり笑って送り出したメイドたちがガッツポーズするのには目もくれず、私はとにかく急いで妻の実家へ向かった。
「妻を迎えに参りました」
そういうと、結婚式ぶりに会った妻の両親は、よろこんで家に入れてくれた。
「まあじゃじゃ馬がご迷惑をおかけしております。まったく離縁でもされて帰ってきたかと気が気でなくて。いらしてくださって安心しましたわ。娘はそちらの奥です。どうぞごゆっくり」
両親は本気でそう思っているようだった。結婚したいと伝えた時もあんなじゃじゃ馬をもらっていただけるなんてと感謝の涙まで流していたほどだ。
たしかにじゃじゃ馬だ。どこを好きになったのかと聞かれたら、その強気なところ。嘘がないところ。いつだって回り道をする私とは違い、彼女は感情のまま一直線に結論に向かう。
彼女の部屋の前に立つ。ノックをする。返事がない。
「私だ」
再度ノック、返事はない。
「・・・・もどってきてくれないか」
返事はない。
ええいこの際プライドなんてものかきすてだ!
「お願いだ、帰ってきてくれ!この通り!」
ドアに向かってひざをつき、頭を下げるが、何の返答もない。
仕方がない、こうなればやけだ。出てくるまで拝み倒そうと決意を固める。
土下座したままの私の、背後から声がした。
「私の部屋、ここじゃなくて隣なの」
妻だった。
部屋に招き入れてもらい、中にある椅子に座る。部屋を間違えたのが恥ずかしく、顔は赤くほてっている。妻の部屋に入ったのはこれが二度目だが、温かみのある色でまとめられていて落ち着く部屋だった。
以前、不義密通を疑い、大変な不興を買った。
最近になって分かったことだが、こと不倫には潔癖といっていいほどの妻である。
「誓って、君の不義を疑ったわけではない! ただ動揺して口が滑ったんだ」
「疑われたことも悲しかったけど、それ以上にあなた、子ども嫌いでしょう」
淡々と図星を指されて肩がこわばる。
そう何を隠そう、私は子どもが好きではない。
うるさくて感情的な理解に困る生き物が、正直、苦手で苦手で仕方がない。
「妊娠って言った瞬間に、すごくいやそうな顔をしたし」
しただろうか? したかもしれない。子どもを連想するワードであるし、していないとは言い切れない。仮にしていたとしたら本当にただ最低だな。
「産んでも喜んでくれないんだって思って、悲しかったのよ」
「そんなことはない、うれしい、産んでほしいと思っている!」
思わず叫んでいた。プライド?それがなんになる。もう何にもかまけていられなかった。
思い返せば、結婚した当初、彼女が他の男のものだっていいと思っていたのでなかったか。仮に彼女がよそで作った子どもだって愛せる自信があった。
ましてや、自分と彼女の子だ。かわいくないはずがない。愛せないはずがない。
「失言はすまなかった申し訳ない二度としない。謝る。謝るから」
仕事で失敗したときですら、こんなに必死に謝ったことはない。
「だから、帰ってきてくれないか」
こんなに情けない声を出したこともない。
「え、やだ」
そしてこんなにはっきり断られたこともなかった。
「なぜ!?」
「やっぱり実家のほうがいろいろ楽だもの、妊娠も初めてで分からないことが多いし、そういう時って実家に帰るものでしょう」
全くの正論でぐうの音もでない。でも、妻が家にいないなんて、そんな、そんな、ラブラブにだってまだなれていないのに、さらに遠のくなんてそんな。
「何悲壮な顔してるの? 来てくれれば会えるわ。違う家で暮らすなんてなんだか夫婦じゃないみたいよね」
妻の言葉にいっそう悲壮感が増す。ああ、そんなことをしている間に幼馴染の男が現れて妻を奪っていくのではないかと不安になる私はすっかりメイドたちの噂にまどわされている。
せめてもう少し良好な関係になってからできてくれればと、まだ見ぬわが子が恨めしくもある。
「デートとかしたいわね。いつも一緒だと、わざわざ外に2人ででかけることもないし」
新鮮でいいわと妻は笑う。デート、そうか、デートか。そう考えれば悪くない。毎週どころか毎日でも誘ってやろうではないか。ああでも毎日は妊婦の体に障るのか? よくわからない。明日からまずは情報収集だ。
「きっと、かわいい子がうまれるから、かわいがりましょうね」
嬉しそうに腹をさする。そういえば妻は最初から産む気のようだった。
「ところで君は、好きでもない男の子どもでも嬉しいのか」
なんとはなしにそういったら、妻はグーで殴ってきた。痛い。腰の入ったいいパンチだ。
「好きな男の子どもだからなおさら嬉しいのよ!このバカ!」
妻はそういって部屋から駆け出しバタンと扉を閉めた。おい、走って転んだらどうする!危なっかしいな。
ええと、つまり?




