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異世界少女、放浪記。  作者: げっとは飛躍のせつなさ
2-5章 立ち直るまで、のおはなし

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76 - 台風一過

 菜優はまるで何事もなかったかのように目を覚ましました。開けた視界の先には石造りの天井が広がっていて、それが孤児院の天井だと理解するのに、それほど時間はかかりませんでした。窓の先にある空は雲に覆われていて、空気もどこかひんやりとしています。曇り空からこぼれてくる陽の光を浴びながら、菜優はうんと伸びをします。


 ふと、昨日にあったことを思い出そうとします。ええと、なにがあったかな。夜中に起きて、そんで宿屋に行って、それから…なんだか思い出してはいけないような気もしてきましたが、菜優は一応、記憶を掘り起こす努力をしてみました。知っていることが少しでも多ければ、危険を回避出来ることもありますからね。


 そう逡巡しているうちに、菜優は不意に部屋の上のほうへと視線を向けました。するとそこに、だらりと垂れた髪の毛を見つけてしまって、思わずぎゃっと声を上げました。


「なんだ、淑女レディの顔を見るなり叫び声をあげて。失礼だとは思わんのかね」


 髪の毛の間から声が響いてきたので、菜優はもう一度声をあげて驚いて、部屋の隅にまで後退りました。しかし、その声と、特徴的な話しぶりは、どこかで聞いたことがあります。ややあって、それがシノのものであると気付きました。


「あれ。なんやシノちゃんか。驚かさんでさぁ…」


「わたしだって、驚かしたくて驚かしたわけではないんだがな」


 菜優は落ち着きを取り戻しつつ、中空に吊り下げられたシノの姿を改めて確認しました。よく見ると彼女の体は縄で簀巻きにされていて、天井から吊り下げられているようです。脚はだらりと縄の外へと投げ出されていて、絹のようにすべすべとした肌を曝け出していました。


「…あんまりじろじろと見ないでくれるかな。そのなんだ…何かに目覚めそうだ」


 シノはなんだか居心地が悪そうに目をそらしました。よく見てみると、首から肩口のあたりにシャツの襟が見当たりませんし、投げ出された足には、靴はおろか、靴下すら履かされていません。菜優は《《ばつが悪く》》なってくるりと背を向けましたが、すかさず振り返り直して「ちょお待て、私も女の子!」と反論しました。


 立ち上がってみると、菜優の視線の高さと、シノの視線は大体同じくらいの高さにありました。なるがままにゆるりと回り続けるシノを見て、菜優は尋ねました。


「しかし、なんでそんなことになっとるのん?」


「文字通り、雷が落ちたのさ」


 答えながらシノは、髪の毛をゆらゆらと揺らしてみせます。確かに髪の毛が、ところどころちりちりと焦げたように丸まっています。あれ、でも雷の音なんてしてたっけ。覚えている限りの昨夜は、少なくとも雨は降っていなくて、雷が落ちた音も聞いていません。じゃあ、ひどく怒られた、と解釈するのがきっと正しいのでしょうが…だからといって、ひどく怒られただけで、髪が焦げるなんてことがあるのでしょうか?菜優はだんだん、考えがこんがらがってきてしまいました。


「え、雷?んなん鳴っとったっけ」


「そうともさ。うちの雷親父はおそろしくてね」


「誰が雷親父か。というか、親父呼ばわりするのやめてくれないかな。私も女の子なんだけど」


 入口の方から声がしたので、菜優はそちらのほうに振り返りました。そこに居たのは、腕を前に組み、眉を潜めたマリーでした。彼女はじろりとシノを睨みつけたのち、菜優の姿を認めると、少しだけ態度を和らげて、ぺこりと頭を下げました。それにつられて、菜優も頭を下げました。


「おはようございます、ナユさん。昨夜は大変だったみたいで」


「おはよう、マリーちゃん。大変やった…って何が?」


「え、覚えてないんですか?」


 マリーは目をまんまるに見開いて、菜優の様子を伺っています。菜優にはその意味が良く分からなくて、首をかしげながらマリーを見つめ返します。やがてマリーはうつむき加減なため息を吐きながら、「まぁ、宿屋に来てもらえればわかるかと。朝食を準備してますので、良ければ来てください」といって、くるりと踵を返しました。シノが去っていくその背中を見やりながら「わたしの分は?わたしの分もあるよな、マリ姉ぇ!」などと叫んでいましたが、マリーは軽く手を振って返すだけで、立ち止まることはありませんでした。菜優はしばらくそんな二人を交互に眺めていましたが、鳴る腹の虫には敵いません。やや申し訳無さそうにシノを一瞥してから、そそと後ずさるようにその場をあとにしました。シノがまだ騒いでいたような気もしましたが、それも聞こえないフリをしながら。


 ドアを開けて外に出ると、ぼこぼことした灰色の空と、すこし錆びれたようなルナーの町並み、一雨降りそうな予感をはらんだ空気の冷たさ、そして、ふんわり立ち込める土の匂いが、菜優を出迎えてくれました。からりと乾いた風が一陣吹いて、青々とした草木を揺らしました。そんな緑の中に一匹、草木と同じように紫苑色の毛並みを揺らす、猟犬の姿がありました。彼女はドアの音を聞いて、ぴくりとこちらを見やりましたが、菜優の姿を認めると、何事も無かったようにまた、ルナーの町並みのほうに顔を戻しました。


「ケルちゃん」


 菜優は彼女の名前を呼んでみましたが、ケルはそっぽを向いたまま。しかし耳としっぽがぴくりと動いたのを、菜優は見逃しませんでした。


「大変、おまたせしました」


「……まったくよ」


 菜優はケルの隣を通り抜け、ルナーの街の宿屋に向かいました。そしてケルもまた、うんと一つのびをしてから、菜優の後を追うように歩き出したのでした。


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