72 - 夜のルナーの、闇より出つるは…
次に菜優が目を覚ましたのは、あたりもすっかり暗くなった、夜中のことでした。見上げれば孤児院の、ひび割れた窓から、絹のようにつややかな白い光と、ひんやりとした風が差し込んできます。ロウソクの火の一つすらない暗がりの中、あたりはほとんど見えませんが、すうすうと寝息がそこかしこから聞こえてくるので、周りでは子どもたちが寝ていることがわかりました。
菜優は、自分に藁のようなものが掛けられていることに気づきました。それに、下の方へ下の方へ押しやられてしまっていますが、麻の一枚布のようなものもあります。そこまで確認して、この一枚布がシーツの代わりで、その上に被せた藁の束とセットで、布団の代わりに掛けてくれたのでしょう。菜優はその心遣いの嬉しさと、世話を焼いてもらったことの申し訳なさと、孤児院の子どもたちの置かれている貧しい現実に、いたたまれない気持ちとが、同時に流れ込んできました。菜優の胸いっぱいに暖かな気持ちに満たされ、同時に、頭の後ろの方にすっと冷たいなにかが走って、ずんと重たくなるような、あべこべな感覚に陥っていました。
さて、こんな真夜中に起きた菜優でしたが、さっきまで散々不貞寝していましたから、いざ寝ようと思っても、全く眠ることは出来ません。どころか、眠ろうとして目を瞑ると、また日本のことを、愛しい故郷のことを思い出してしまいそうで。記憶の中に眠っていたそれぞれの風景が、ふわり、ふわりと一つ一つ、まるでシャボン玉のように脳裏に浮かび上がっては消えていくのです。せっかく寝起きで多少はすっきりとした気分でいるのに、わざわざまた気分が沈みそうなことを思い出したくありません。
だから菜優は天井を見上げて、天井の模様を追いかけて遊ぶことにしました。隣からすうすうと聞こえてくる、寝息の主の顔すら見えない暗がりのなかで、天井の模様なんて、当然見えるはずもありません。それでも菜優は、見えないはずの模様を必死に追いかけて、とにかく、自分自身を今の場所に縛り付ける努力をしました。今外に出たところでどこも開いていないでしょうし、もし子どもたちを蹴飛ばしたりしてしまって、起こしてしまったらば、さらに申し訳ないこと請け合いでしょうから。
しかし、それにもやはり限界がありました。どれだけ逞しい想像力を持っていても、見えないものを想像だけで補いつづけるのは、なかなかに骨が折れる作業です。加えて、闇目に慣れてきても、目に映る風景はほとんど変わっていかないものですから、飽きてしまいます。それに時折窓から入り込んでくる風が冷たくて、段々と、お手洗いに行きたくなってしまいます。菜優は暫く耐えようとしましたが、やがてお腹がぐるぐる鳴り出して、痛みすら感じはじめました。菜優はとうとう観念して、隣で寝ている誰かを起こさないように慎重に布団から脱出すると、また慎重に、子どもたちの手足を避けるようにして部屋から這い出ました。
灯りの一つもない孤児院の中で、お手洗いを探し回ることは困難を極めることでしょうから、菜優は一旦外へと出てきました。しかし、街もまた灯りなどほとんどなく、空に浮かぶ大きく丸い月から降り注ぐ白くつめたい光が、微かに街の輪郭を映すばかりです。そのうえ、何やらいかがわしげな声が、そこかしこから聞こえてきたりもします。街の中だというのに、まったく、不気味なことこの上ありません。菜優は恐々としながら、ナルラが営む宿屋のあったほうを見やります。その窓から灯りがこぼれてくるのが確認出来たので、そこまでたどり着けれれば、お手洗いに不自由することはないでしょう。菜優はエーテルソードの柄に手を置きながら、一歩、また一歩と街路へと繰り出しました。
しばらく歩いていると、菜優は突然に足首を掴まれました。菜優は驚いて、ぎゃっ!と叫び声を上げながら、その手を振り払おうと懸命に蹴り飛ばします。しかしその手の力が案外と強く、なかなか解いてくれません。菜優は恐ろしさのあまりに半狂乱になりながら、エーテルソードを鞘ごと抜き出すと、それを腕のあるだろうところに向けて振り下ろしました。石畳に打ち付けたような硬い感触が手に伝わってきて、びりびりとした痺れのようなものが、手のひらを貫いて腕のほうにまで響いてきます。それでも怯むことなく、何度も何度もがんがんと打ち付けるうちに、その手は力を失い、地面へと臥せ落ちていきました。菜優は急いで足を引っ込めると、勢いそのままに素早く立ち上がり、宿のあった方向に向けて全力で走り出しました。
夢中になって街を走ることしばらく、菜優の目には松明を持つナルラの姿が見えました。菜優はナルラのほうへまっすぐに走っていって、勢いそのままに彼に抱きつくと、そのままするりと背中のほうに回り込んで、震えながらしがみつきました。ナルラは突然のことにおどろきましたが、やがて背中から漏れ出てくる菜優の嗚咽を聞いて、「ナユさんですか?」と問いました。菜優はナルラの背中で勢いよくこくこくと頷いて答えました。そんな菜優の頭に、ナルラは手を伸ばしながら、
「よかった。叫び声が聞こえたから、心配になって探してたんです。案内しますよ。歩けますか?」
と優しく声をかけてくれました。菜優しきりにこくこくと頷いてはいるものの、足が震えてしまって、なかなか動いてくれそうにありません。ナルラはそんな、落ち着きのない様子の菜優の頭を撫でていましたが、やがて、「失礼しますね」と言うと、菜優の背中と腿の裏に手を回して、菜優の体をひょいと抱き上げました。そして、別の手に持った松明で夜のルナーを照らしながら、宿屋のほうへと戻っていくのでした。




