66 - 断つモノ
見渡す限り、無限遠に広がる真白の世界。菜優はその中で、じゃきん、じゃきんと迫り来る、巨大な鋏から必死に逃げていました。鋏の持ち手をアトロポスと名乗った少女が握っていて、彼女は必死に逃げ延びる菜優を見て、にたにたと気味の悪い笑みを浮かべています。
「いいね、いいねきみ。既に死んでいると言うに、殺されまいと必死に逃げるその姿。実にいい…」
アトロポスの愉快そうな声が響いてきますが、菜優はちっとも愉快ではありません。菜優の頭は、とにかく逃げないと殺されちゃう、その一点のみに集中していました。
アトロポスの手が緩んでいる間を伺っては、荒れた息を整えます。けれど真白広がるこの世界に、隠れられる場所なんてありそうにありません。それに、菜優が休み始めたのを見るやいなや、アポロトスは突然に菜優の眼前へと迫ってきて、巨大な鋏を振りかざすものですから、菜優もなかなか休むわけにはいきません。まるでインターバル走をしているかのように、休んでは逃げ、休んでは逃げを繰り返していました。
「きみ、いいよ。ほんとにいい。生の意思を感じる。ならぼくから逃げ切って、這い上がってみせてよ!」
またじゃきりと、菜優の元に鋏が突き立てられました。菜優はこれをまた紙一重で躱わすと、力が入らなくなった足を必死に回して距離を取りました。
そのうちに菜優は、アトロポスから逃げ続けるのはあまり現実的ではないことを悟っていました。どれだけ距離を離しても、アトロポスが眼前に現れるのはほんの一瞬の間です。しかし、アトロポスが盛大に鋏を空振って、次に動いてくるまでには多少の猶予がありそうです。ですから、適度に距離を取りながら、アトロポスの動きに合わせて躱わす、というのを繰り返す方が効率が良さそうだと、菜優は考えていました。
「あれ、もう逃げないのかい?なら…これならどうだい!」
アトロポスはまた姿を消すと、その次の瞬間にはまた大きな鋏を開きながら菜優の眼前へと現れました。菜優はすんでのところでそれを避けると、アトロポスの動向を伺うべく、そちらに向き直ります。しかし、アトロポスの姿は既にそこにありません。
「上だよ」
アトロポスの声が、その小さな体躯と、大きな鋏と共に落ちてきました。菜優は慌てて避けようとしましたが、あまりに無理な体勢のままに飛び退ろうとしたものですから、一歩目で足を滑らせ転んでしまいました。大きく開かれたアポロトスの鋏が、菜優の背中を挟み込むように突き立てられます。
「つぅかまぇた♪さて、どうしてあげよっかなぁ」
アトロポスのニヤニヤとした意地の悪い笑みが、菜優の眼前に広がります。菜優は突き立てられた鋏の、刃の間をすり抜けようとしたところ、今度は首元にまた大きな鋏がもう一丁突き立てられて、菜優の行手を阻みました。これでは肩が鋏の刃面につかえて、逃げようがありません。
「逃げようたって無駄だよ。さて、どこから切り裂いてあげようかなぁ…」
アトロポスはもう一丁鋏を取り出すと、その峰を菜優の頬にぴたりとつけました。そしてちょっきちょっきと刃を開閉させながら、頬を下へなぞります。刃先がぴたりと閉じるたびに、刃の擦れ合うようながりりとした感触が、菜優のやわらかな頬に伝わってきます。鋏はちょきちょき、がりりと音を立てながら開閉しては菜優の頬を撫で滑り、やがて首筋のあたりで止まると、そこを峰でとんとんと叩きました。
「例えば…首筋とか。人間の首筋って大きな血管が通ってる割に、薄いんだよね。ここを、ちょんと切ってあげたら、赤い血がぷつぷつと噴き出て来るんだろうなぁ…」
アトロポスはうっとりとしたような口調で話しながら、歪み切った笑みを菜優に向けました。その目は大きく見開かれ、その瞳は真ん中に小さく縮こまり、そしてその口は絵本で見たチェシャ猫のように、大きく鋭く広げられていて、その様はとても少女とは思えないほど不気味でした。
菜優の首筋に、また鋏の峰が当てられます。その鋭く、冷たく、そして恐ろしい感触に、菜優の顔が青ざめていきます。血の気は早々に頭から引いていってしまっていて、鋏の峰の冷たさを、余計強く感じ取ってしまいます。
たらりと一筋、脂汗が落ちました。そして変わらず、首筋に当てられた鋏に、全ての意識が集まってきてしまいます。胸の内はばくばくと、煩いほどに早鐘を打たせて、菜優に危険を知らせてくれていますが、肝心の菜優は身動き一つ取れません。
「もうおしまい?つまんないの。スクルドのお気に入りと言うもんだから、もうちょっと楽しませてくれるものだと思ったのだけど。残念だ」
スクルド。その言葉に、菜優の耳がぴくりと反応しました。そう、菜優はスクルドから力を借りられる事を、今の今まで忘れていたのです。この状況を覆せるかは分かりませんが、このまま恐怖に押し殺されたまま、殺されるのを待つよりかはよっぽど良いでしょう。
しかし、使ってしまったが最後、この力を引き出すに伴うエーテルの力の奔流と、それによって引き起こされるエーテル酔いに対する対処法を、今の菜優はまだ持ち合わせていません。きっと次の瞬間には酷いエーテル酔いに襲われて、まもなく同じように捕まってしまうことでしょう。しかし、菜優はそれでも抗うことを選びました。エーテルの力が、菜優を取り巻き渦を巻きます。これが、最後のチャンスとなるでしょう。金と翠玉の散りばめられた、豪奢な鎧が菜優の身を固めました。
次の瞬間には、膨大な量の未来が菜優の脳に届きます。が、そのどれにも、アトロポスから逃げ延びるどころか、この鋏に挟まれ身動きが取れないこの状況から、脱せられる未来が見えません。というか、それら全てが現在の菜優の状況を見せているだけで、およそ未来に起こることが見えているようには見えませんでした。
であれば、と菜優は前に神殿から逃げ延びたように、一か八かと言わんばかりに飛んでみます。しかし、その試みは背中を鋏の刃に突きつけるに留まって、前のようにどこか遠くに飛ぶことは出来ませんでした。スクルドの鎧がなければ、菜優の体は、その鋭い刃に見事に切り裂かれていたことでしょう。
「考えたね。しかし、ここには時間の概念がなければ、過去も未来もない。スクルドの未来を司る力では、この状態は覆せんだろうさ」
感心したようにアトロポスは言いました。けれど浮かべているのはにやりとしたような意地の悪い笑みで、どこか菜優を揶揄っているようにも見えました。
みるみるうちに菜優のエーテル酔いは酷さを増してきて、目の前もぼやけて見え、意識もふわふわしてくるほどになりました。そんな状態ではスクルドの力を維持出来ず、彼女の力と、その鎧達が翡翠の光と化して霧散していきます。
意識をふわふわとさせながらも絶望に打ちひしがれる菜優は、ぼやける視界の最中に、鋭く光る刃のようなものを見つけました。次の瞬間には、その光が自分自身を引き裂いて、やがてポルト・ニューイヤーの街でもそうなったように、何も感じなくなっていくことでしょう。菜優はその光が、二度と目に入ってこないくらいにきつく、きつく目を瞑りました。




