62 - 泡沫の夢
菜優は、気がつけば学校の廊下に立っていました。時計の針は十二時を指しているのに、校舎には人っこ一人いる気配がないので、今日の学校は休みなんだと気付きました。それでもせっかく学校に来てしまったので、なんとなく教室に向かってみました。
教室の戸を開けてみますが、当然、中には誰もいません。それでも菜優は自分の席-教室向かって左から五列目の一番前……は席替えする前の席で、今は一番左の列の前から三番目-を探し出して、引き出しの中を覗いたり、席についてみたりしました。左手側にある窓の外へ目をやればグラウンドが見えて、土日でも野球部やサッカー部達が練習していそうなものですが、その姿は見えません。前を見れば、何の変哲もない机達と黒板が見えます。菜優は何だか安心しきって、机に体を預けました。
不意に、涙が一粒、目尻から零れていきました。菜優はそれを拭うことなく、机に落として水溜りを作りました。ここでの生活を想うたび、一つ、また一つと、ぽろぽろ涙が溢れていきます。その度に水溜りは大きくなって、菜優の頬を濡らします。これが夢でなければいいのに。海に投げ出されて、変な世界に飛ばされて、頑張って頑張って生きようとしているけど、元の世界での生活を思い出すたび、そんな努力なんて一度もする必要がなかったんだと思い知らされます。
何で頑張ってるんやろ、私。菜優の脳裏に、ふとそんな疑問が浮かんできました。元の世界にいた時には、毎日のように友達とおしゃべりをして、特に頑張らんでも生きていけたやんか。菜優の考えが巡るたび、涙はとめどなく溢れ出して、机の上の水溜りを大きく大きくしていきました。
やがて菜優は、仕事の依頼板の前で目を覚ましました。目元が濡れている事に気付くと、手で涙を拭いました。
「おはよ。ご機嫌はいかが?」
ケルの問いかけに、菜優は朦朧とする意識の中で考えました。ぐるぐると視界が回るような今の感覚と、夢で見た教室のこと、そして先程までいたパーティ会場での、ピアノリサイタルの事を思い出して、菜優は答えました。
「……最っ悪」
「そ」
ケルはそれっきり菜優に何かを聞くこともなく、ルナーの街を左右へと見回していました。菜優は頭痛を覚えて、頭を抑えます。そこには包帯が巻かれていて、頭を怪我したのはどうやら夢でなかったらしい事に気付きました。けれど不意に、あっちが実は本物の世界で、イースティアのほうが夢なんじゃないか。そう、信じてみたくなりました。
夢かどうかを確かめるのに、あるあるなのは頬をつねってみることです。よくアニメとかで見るように、菜優は自分の頬をつねってみます。頬はまるで餅のように伸びる……こともありませんでしたし、頬から痛みを感じない……事もありません。痛くなかったら良かったのに。こっちが夢であれば、どれだけ良かった事だろう。菜優は涙の溢れ出した双眸を、両手で覆い隠しました。
「えっなに、どうしたの急に。ほっぺた抓り出しては、急に泣き出したりなんかして」
「だって痛かったんやもん」
「はぁ?」
ケルは不審者を見るような目つきで、菜優の方に振り返りました。そして心底呆れ返りながら、そっぽを向いたと思ったら、またぐるりと菜優の方に首を向けました。
「で。いつまでそうやってぐずってるつもり?」
菜優はそう言われて、ようやくここが依頼の掲示板であることを思い出しました。ここで座り込んだままでは邪魔になる事請け負いでしょう。
「ん。起きる。けど、まだ真っ直ぐ立てやんかも。肩貸してくれへん?」
「どうやって貸せばいいのよ」
ケルはそうは言いつつも、菜優の片脇に寄ってきてくれました。菜優はケルの背中を借りながらなんとか起き上がりました。そしてふらつく足取りのままどこともなく歩き始めました。
歩きながらどこに向かおうか考えてみますが、空を見上げれば真っ暗闇が空を覆っていて、星々が一緒に散りばめられています。こんな時間でも酒場はまだ空いているでしょうが、大抵の店はもう閉めてしまっていて、行けるところなど限られています。宿屋に戻る事も考えましたが、財布の中には何食か分程度のお金しかなく、宿賃を払う余地なんて到底ありません。菜優は仕方なく、街の外にテントを張る事にしました。街の中ではその、響き渡る嬌声が耳について、とても落ち着けませんし。
テントにつくなり、タンスと生もので出来た椅子を飾ってみます。椅子に座ってみるとなんだかぐねぐねして、座り心地は良いものとは言えません。まぁ、生ものですからね。それに、タンスなんて置いてもしまう服がありませんから、持て余してしまうだけでした。
売ってしまおうかと考えましたが、そういえば、とてももの寂しい部屋で暮らしている子供達の様子がフラッシュバックしてきました。その子達ならもしかしたら、このタンスを使いこなしてくれるかもしれない。それに菜優は、マリーからお金を貰いっぱなしのままでいるのも、なんだかもやもやとした気分でいたところです。菜優はそう決めると簡易ベッドに潜り込んで、眠りの世界へと深く深く沈んでいきました。




