60 - ルナーでのお仕事
朝食を食べ終えた菜優は、早速お仕事探しに取り掛かりました。昨日はマリーの温情からお金をもらいましたが、これで何日も生活出来るとは到底思えません。
が、すぐに最適なものが見つかるわけもないのが仕事というもの。モンスターの討伐依頼やパーティ会場での演奏依頼など危ないものが多く、菜優では到底請けることは出来ません。
なんとか配達の依頼を一つ見つけることは出来ましたが、配達先はボクシングという、聞いたことのない街の名前が記されています。その報酬、なんと百十ティミと書かれていました。菜優が受けてきた配達の依頼はせいぜい十ティミ強ほどで、その差は十倍にものぼります。これを逃すまいと菜優は意気込みましたが、耳元で囁く声に止められました。
「おや、ナユ。ボクシングに行くつもりですか?」
「うん。だってこれ、報酬がとんでもない額になっとるもん。物運ぶだけで百十ティミは破格やんな」
「貴方、マリーナで痛い目に遭ったばかりでしょうに。まぁこんな掲示板に貼り出されるような依頼ですから、後ろ暗いものはないのでしょうが。ボクシングまでは、ここから徒歩だと……そうですね。一月は掛かるでしょうが、それでも行きますか?」
それを聞いて、菜優はぞっとしました。一月も歩き通しだなんて、七日ですら根を上げかけた菜優に、果たしてそれだけ歩けるでしょうか。それにコアトルが続ける話によると、ボクシングは北東の端にある極寒の地で、夏でも積もった雪が溶けることはないそうです。それに夏休み真っ只中に船の難破あった菜優の服装は、半袖のシャツにホットパンツといった具合で、腕や脚を晒け出していますし、靴はお気に入りのピンクと白のスニーカーです。雪を踏みしめれば、溶けた雪が染み込んでくる事請け負いでしょう。こんな格好のまま、果たして雪道を歩く事が出来るでしょうか。
「……無理かも?」
「無理でしょうね」
高い仕事には、高いなりの理由があると、菜優は思い知らされました。
掲示板に置かれている他の仕事を探してみますが、やはり、菜優が受けられそうな配達の仕事は見つかりません。菜優は途方に暮れました。早晩にも宿代が必要になるでしょうに、お金がなければ仕事もないのですから。携帯式テントを使えば寝床だけは確保出来るでしょうが、お風呂には入れません。命に関わるわけではないでしょうが、菜優としては街にいるのにお風呂に入らない、は、我慢なりませんでした。
菜優は意を決して、演奏依頼の依頼票を手に取りました。他に手段はありませんし、菜優自身、自分のピアノの腕がどこまで通用するかを試してみたくありました。もしここで成功すれば、受けられる仕事の幅が広がります。
そんな菜優の脳裏に、ヴァレンタインの酒場で見たピアノの事を思い出しました。床は黒ずんだ血で汚れていて、幾人ものピアニスト達が、そこで命を落としたと聞きます。
菜優は怖くなりましたが、あそこはあくまでも酒場である事を思い出しました。酔っ払いのおっちゃん達が難癖つけて、きっと酔った勢いでタコ殴りにするなどしたのでしょう。けれど、今から向かう場所はパーティ会場です。紳士達の社交場のはずです。そんなところに集まった紳士淑女の皆様が、寄って集ってタコ殴りにするなんてこと、あるのでしょうか。
菜優は意を決して、一度は踏んだ二の足を前に運びました。そして演奏の依頼票を掴み取ると、依頼主の元へと向かい始めました。道すがら、肩口にまで登ってきたコアトルに問いかけてきました。
「……正気ですか?ナユ」
「正直怖いよ。怖いけど、怖がってばっかじゃ何も変わらんやんな。それに、すぐお金が要るようになるのに、お金を稼げそうな手段は他に思いつかん。なら、いっそ勝負に出ようって思てさ。うまくいけば、これからも演奏依頼には挑戦出来るって自信になるし」
「なるほど。そこまで言うのであれば、止めるのは野暮というものでしょう。貴方にエーカトル様のご加護があらんことを」
菜優は慣れない街並みに迷子になりながらも、なんとか依頼主の元に辿り着けました。依頼票を見せると、彼はパーティ会場に案内してくれました。
ルナーに立っているギルドの一つ、「王族の隣の石」の建物に入って行くと、階段を降りていきました。階段より先はペットお断りだそうで、入り口でケルとコアトルはお留守番です。その時にケルがまた機嫌を悪くして一悶着あったのですが、それはまた別の話。階段は壁にまばらに刺された電灯で照らされていますが、電灯の光も弱々しく、薄暗くありました。足元くらいの距離ならなんとか見えますが、注意していないと足を踏み外してしまいそうです。菜優は壁に手をつきながら、慎重に、慎重に降りていきました。
階段を降りながら、菜優はなんかイメージと違うな、と思っていました。これから向かうのはパーティの会場のはずで、明るいシャンデリアに照らされたような、紳士淑女達の社交場のはずだと思いこんでいました。だのに、会場までの道のりはこんなにも薄暗く、どことなく不気味とすら感じます。こんな場所で、果たして紳士淑女達が会合を開くのでしょうか?もしかしたら酒場に集るような酔っ払いのおっさん達ばかりで、菜優の演奏に野次を飛ばして、あまつさえ気に食わないようなら殴りかかってくるような人ばかりだったりするのでしょうか?
とたんに、嫌な想像が止まらなくなってしまいました。もし会場の人たちが襲ってきても、ケルが近くに居ない今、菜優はたった一人で戦わなくてはなりません。エーテルソードとスクルドの指輪は持ってきていますが、一度使ってしまえば酷いエーテル酔いを起こして、しばらく立つこともままならなくなることでしょう。そうなればきっと、演奏どころじゃなくなってしまうでしょうし、依頼をこなすこともままならないでしょう。
さらに言ってしまえば、菜優は戦いの経験のほとんどない一端の中学生です。頑張って戦ったところで、そもそも勝ち目がない事もあるでしょう。そうなればエーテル酔いの気持ち悪さを抱えたまま、菜優は袋叩きに遭うのです。気持ち悪さに襲われるのも、痛い目に遭うのも嫌だ!考えれば考えるほど、菜優の想像は悪い方向へと転がり落ちていきます。
怖くて怖くてもう逃げ出したくなりましたが、その度に、ここで逃げたらお金の事を別の方法で解決しなくてならないことを思い出します。そして今受けられそうな仕事は、これしかなかった事も。これすらこなせなかったら、しばらくはルナーの街の外で野宿の生活になる事でしょう。それに、買い物が出来なければご飯が確保できる保証もありませんから、最悪飢え死んでしまうことでしょう。菜優は他に手段はない、他の手段はないんやと自らに言い聞かせるように呟き、気を奮わせました。
やがて階段も降り切って、パーティ会場の扉が開きます。促されるままに、菜優は会場に入りました。不安で不安で仕方ないですし、どんなコンクールに参加したときよりも緊張して仕方ありません。菜優は両手で両頬をぱしんと叩いてから、中へと歩き始めました。




