51 - 失われた"当たり前"
明くる日のこと。菜優はベッドの上で目を覚ましました。ベッドは特段柔らかいわけではありませんが、まともな寝具、脅威のない環境で寝るのは久しぶりだったものですから、たっぷりと深く眠ることが出来たようです。完全とは言えませんが、昨日までの疲労は嘘のように吹き飛んでいます。
顔を洗い、いつものように朝の支度をしはじめました。いつものように朝ごはんを食べ、いつものように歯を磨き。いつものようにヴァレンタインへ出かけようとして、菜優ははっとしました。
そういえば昨日、菜優はヴァレンタインのたすけあうジャパンの人達に捕えられかけたのです。これがもし、町中の人達が同じように菜優を捕まえようとしたら、どうなることでしょう。
もし捕まったとしても、ケルが力づくで助け出してくれるかもしれません。しかし、彼女はあまりに力強く、相手が少しでも抵抗しようものなら、その体がぐちゃぐちゃにされること請け負いでしょう。
あるいは、罪を正直に打ち明けて、投獄されてきちんと罪を償う、というのはどうでしょう。菜優がそう考えた時、中学校で出会った先生の話を思い出しました。曰く、その先生は刑務所の見学に行ったことがあるそうで、具体的な事は話しませんでしたが、とにかく、とても人間が住むようなところではなかったそうです。
この国よりもはるかに文明が進んで見える日本ですらその有様なのですから、この国の牢獄となればどのようなものなのでしょう。もしかして篝火すらない地下の暗がりのような場所で、骸骨が転がっていることが当たり前だったりするのでしょうか。そんな光景を想像して、菜優はぶるると身を震わせました。そんな場所に軟禁されるのは、やはりというか、嫌ですね。
それに、マリーナやヴァレンタインで追手を巻いて逃げ延びてきたばかりです。その際に、色々と抵抗したのもちゃんと記憶にあります。それがどの面を下げて、自白しにいくのでしょう。さらに言うと、自白をしたとして、情状酌量の余地などあるのでしょうか?そもそも、裁判があるかも不透明なのに、単に捕まりに行くのは大きなリスクが伴います。
菜優はポーチを肩から外して、居間にまで戻ってきました。そしてちゃぶ台の近くに腰掛けると、コアトルとケルを呼びつけました。
「どうしました、ナユ?」
「いや、作戦会議したいなあ思て」
菜優の言葉に、ケルは呆れたようにあくびを噛み締めます。そしてケルは全身をべったりと地面に降ろすと、うんざりしたように言いました。
「作戦会議も何も。あたしはあんたの決定に従うだけよ」
「別にいてくれるだけでも構わんよ。それに、ケルちゃんの意見が役に立たんとはこれっぽっちも思っとらんし」
あっそう、と言いながらケルはそっぽを向いてしまいました。菜優はそんなケルの頭を撫でて、早速状況を整理しはじめました。
「私はおそらく指名手配犯になってて、少なくともマリーナやヴァレンタインでは捕まったり、殺されたりしそうになった」
事実ながら、口にしただけでも悲しくて涙が出そうになります。それでもぐっと堪えて、話を続けます。
「そんでさ、コアトル。例えば私がもといた世界では犯罪を犯しても、自白して素直に捕まれば罪が軽くなるっていう制度じゃないけど、そういうのがあったんよ。こっちでもそれは期待出来る?」
菜優の疑問に、コアトルは体を渦巻かせます。顔がないので表情はわからないですが、もし顔があったとしたら、とても難しそうな顔をしていそうです。
「…期待しないほうがいいでしょうな。そもそもナユは二度も逃げのびてしまっていますし、ある程度以上の罪を犯せば、捕まえて反省させるというよりは、死んで詫びろ、のほうが多い気がしますしな。自白して殺されるか、ほとぼりが冷めるまで大人しくするか。ナユはどちらのが良いですか?」
コアトルが答えるには、そういうことのようです。しかし、罪を犯せば殺されるとは、あまりに物騒ではありませんか。もしかして、殺してもどうせ這い上がってくるんでしょう、という事なのでしょうか。そうだとすると死生観が違い過ぎて、この考え方にとてもついていけないと、菜優は改めて思い知らされました。
それにしても、街中にまで爆弾を運んで、人を大量に殺した罪の、ほとぼりは果たして冷めるものなのでしょうか。菜優は疑問に思いましたが、問答無用に殺されるよりは幾分かマシでしょう。菜優は、ほとぼりが冷めることを祈りながら身を隠す事にしました。
「けどさ、それやと一つ問題があるんよな。食べ物の事やけど、今までは街でお仕事をこなしながら食べ物を買うてきたんやけどさ、その街に入れんくなってしまったやんな。私、ちょっとなら狩りは出来るけれど、それで毎日ご飯にありつけるかって言われると、ぶっちゃけ自信ないで。じゃあ他に…例えば畑とか耕して野菜育てるのとかも考えたけどさ、こっちはこっちで種なんか持っとらんし、そんな土地もないし」
「むむ。食糧問題ですか…頭が痛いですね」
菜優の言う通り、食糧の問題が目の前に迫っていました。今は冷蔵庫に多少の買いだめがあるので少なくとも向こう一週間分くらいはありますが、ほとぼりが冷めるまで-がどれくらいかは分かりませんが-耐えられるほどにはありません。
街でものが買える。こんな当たり前なことが出来なくなるだけで、ここまで不便な思いをするのかと、菜優は思い知らされていました。それと同時に、市場とお金の価値とその重みを、再認識させられることとなりました。
不意に、菜優が手をやったほうからギリギリと歯ぎしりをするような音が聞こえてきます。見れば、手の下でケルが機嫌悪そうにしていました。
「てかあんた、いつまで撫でてるつもりなのよ」
「ん?ああごめん。無意識やったわ」
菜優はそれでようやく、ケルの頭から手を離しました。ケルは手がどけられると同時にすっくと立ち上がり、伸びをしながら言いました。
「入れる街は他にないの?例えば、あたしとあんたが出会った、あの村とか」
「難しいでしょうな。ホワイトデイはヴァレンタインよりもマリーナに近いですし、少数ながらガードもいます。ヴァレンタインより状況が良いとは、少し考えづらいですな」
コアトルの言葉に、ケルは思うところがあったようです。耳をぴくりと動かすと、頭だけをちゃぶ台の上に出しながら言いました。
「逆に言えば、そのガードとやらが居ない街ならば、入っても問題ないってことかしら」
「左様。しかしそんな街など…はて、待てよ…」
コアトルはそう言ったっきり、体をぐるぐると渦巻かせてあれでもない、これでもないと言い始めました。やがてピタッと動きを止めたかと思うと、またにわかに回転し始めました。
「いや、一つ心当たりがありますぞ。この国の南西の端に、ルナーとよばれる無法者の街があります。そこであれば、あるいは」
無法者の街。それを聞いて、菜優は眉を顰めました。エーテルソードという強力な武器に、ケルという頼もしい仲間。それに加えてスクルドの指輪も持っていますし、菜優も戦おうと思えばそれなりに戦えます。
が、そんなことよりも前に、菜優は年頃の女の子ですし、エーテル酔いという重大なハンディキャップもあります。護身のためとはいえ、毎度毎度戦ってばかりもいられません。治安が悪いと分かっているところに、わざわざ行きたがるものでしょうか。
「え?無法者の街?それってさ、治安悪いってこと?嫌やよ、そんなとこ行くの」
「治安を守るガードのいない以上、治安が悪くなるのは自明なのれす。なのれそこは諦めてくださいな」
そう言われても菜優は納得出来るものではなく、口を尖らせました。が、選択肢が他にあるわけでもないでしょう。仮にルナーでない街を選んだとしても、治安を保つためのガードがいない限り同じことでしょうし。ケルにも同じように諭されて、とりあえずルナーを目指して出発することにしました。
が、菜優は先のコアトルの言い方に、なんとも言いようのないモヤモヤに襲われました。わざとじゃないとしたら、ツッコミを入れるべきじゃないよな、でもわざとならツッコミ入れなあかんよな、と。しかし、やはり生まれた家の血筋には抗えなかったようで。菜優は、まだ遅すぎないよな、と心の中で計りつつ、ツッコミを入れることにしました。
「なぁコアトル。さっき、なんで噛んだの」
「噛んでいまへんわ」
噛んでいないそうです。どう聞いても、噛んでいるのですけどね。




