50 - 悪い夢なら覚めてほしい
網の飛んできた先を見やると、シイラをはじめとした、たすけあうジャパンの面々がこちらを睨んでいるのがわかりました。やがて、彼らは菜優の方に向かってにじり寄ってきます。
突然の事に、菜優は放心していました。まさか、ヴァレンタインで世話になった人々からも敵視されることになろうとは。信じていたのに。菜優の意識はだんだんと遠のいていって、現実味がないほど、世界が遠のいて見えました。
「ナユ、なにしてんの!さっさと逃げなさいよ!」
網の中でもがく、ケルの怒声が聞こえてきました。それでようやく、菜優は現実に引き戻されました。そして菜優は迷う事なくケルを捕らえた網に飛びつき、エーテルソードを抜いて網を切り裂こうとします。
「何やってんのよ!あたしなんか置いといてとっとと逃げなさいよ!」
「嫌や!ケルちゃん置いて私だけ逃げるんは、絶対嫌!」
目に涙を蓄えながら、菜優は絶叫します。五十センチの物差しくらいの大きさの、網を切るには長すぎる刃を慎重に縄に這わせながら、網に開けた穴を広げていきます。
「バカね、あんたほんっとバカね!」
「バカでも構わん。けど、ケルちゃんは助ける!」
菜優は指輪に呼びかけてスクルドの力を借りてきて、未来を見ながらケルを捕らえた網を必死になって切り裂きます。背後から襲われる未来を見ると、菜優はすかさず振り返って、手にしたエーテルソードで応戦します。
エーテルソードの切れ味は抜群で、男達の武器を簡単に斬り裂けてしまいます。それに、スクルドの力をもってすれば、誰がどこから襲ってきて、どのように対処すればどのような展開が待っているかなんて、手に取るように分かってしまいます。
それでも体力と経験の差を埋めることは難しいですし、それに、今の菜優は疲労にエーテル酔いが重なった影響で、もはや目の前ですらぼんやりとしていて見えません。それに頭もぼうっとしてきていますし、体もだんだんと重たくなって、体が思うように動かなくなっています。あまりもたもたしていると、いずれ簡単に組み伏せられるだろうことが、未来見るまでもなくわかりました。
まもなく、網を切り裂いていたら、すぐさま組み伏せられるような、そんな未来しか見えなくなりました。襲いくる人たちに応戦するので精一杯で、ケルを助けるための時間は割けなさそうです。
それに、ケルが自力で脱出出来ない場合、菜優が見ている未来はもっぱら、菜優自身が体力の限界を迎えて倒れるような、そんなものばかり。逃げる手段など、もう残されていないようです。
菜優はもはや、ケルを信じて耐えることしか出来ません。前後の感覚ももはやなく、くらくらと揺れる意識の中で、スクルドの未来視の力だけを頼りに剣を振るいます。もはや姿勢を保つのも難しく、茫然自失としたまま、攻撃に反応するように剣を振るいます。
やがて、呼吸も浅くなってきました。それでも、菜優は立ち続けました。剣を振るい続けました。手の感覚もなく、剣の切れ味があまりに鋭いものですから、その刃先が撫ぜたものが、何なのかもはや見当が付きません。
やがて未来も見えなくなって、意識も尽きかけた、その時でした。倒れかかった菜優の体を、網から脱出した紫苑の猟犬が受け止めたのです。
「まったく、ほんっと無茶するんだから。でも、お陰で助かったわ」
とうとう意識を失った菜優の横顔に、ケルはそっと囁きかけます。そしてまた正面に向き直ると、自分を取り囲む、自分よりも何倍も大きい体躯の男達に向かって言い放ちました。
「やる気があるなら相手してあげるけど。けど、この子に手ぇだしたら、ただじゃおかないんだから」
言い放つとケルは、背中に乗せた菜優を落とさないように慎重に、外へ歩いていきます。最初こそケルを取り囲んでいたたすけあうジャパンの面々ですが、ケルが近づいてくるにつれて、ケルに道を譲るように左右に引いていきます。
たすけあうジャパンの面々は、ケルがどれだけ強いのかをよく覚えていました。前に一度、ヴァレンタインが盗賊団の襲撃に見舞われた時など、ほとんどケル一人の活躍によって撃退できたようなものですから。
戦いの心得がある者でも、あの暴力的な戦いっぷりを見て怯まないものはいないでしょう。何せケルは彼女の突進を受け止めようと構えた盾ごと、人の五体を砕いてしまえるほどの膂力を持ち合わせているのですから、並大抵の事では暴れる彼女に触れることすらかないません。
それでも、命知らずの蛮勇の持ち主が、一人はいるものです。裂帛の気合いと共に、ケルに斬り掛かる若い男が一人現れました。シイラは咄嗟に「やめなさい!」と叫びましたが、その声届くよりも早く、彼が手にした剣が振り下ろされていました。
ケルはピリリと殺気を漲らせて、その剣の鎬を薙ぎ払うように前足で殴りつけました。すると剣はまるでガラスをバットで殴りつけたかのように、いとも簡単に打ち砕かれます。男は勢いあまって前につんのめり、そのままケルのそばに倒れ込みました。
男が顔上げる間もなく、ケルが男の頭を前足で押さえつけます。ケルはその男の耳元一杯まで近づいて、
「言ったわよね?この子に手ぇ出したらただじゃおかないって。さて。どうしてやろうかしらね。この頭を踏み潰して、見せしめにしてあげましょうか」
と、うっとりとしたように囁きました。蠱惑的な声色とは裏腹に、男は恐怖に打ち震えて、指の一本ですら動かせません。
ケルが耳元から離れると、ややあってから頭を抑えつけていた前足をどけました。そしてその足で脇腹を蹴り飛ばして、男を元いた場所に返してやりました。
「これくらいにしといてあげるわ。まったく、下手な事したら後でナユに何言われるか分かったもんじゃないのよ」
ケルは呟くようにそう言って、ケルはたすけあうジャパンの支社から、菜優を背負って出ていきます。一度振り返って自分を追うものが無いと見ると、振り返る事もせずに街を離れていきました。
菜優が目を覚ましたのは、日が落ちてからのことでした。絨毯の上に寝転がされていた菜優は、目を覚ますと、起き上がる前に気持ち悪さに負けて吐瀉しました。
ようやく起き上がれるようになると、離れた場所で寛ぐケルの姿が見えました。そしてあたりを見回すと、仮住まいにしている洞窟の中だと言うことが分かりました。他でもなく、ケルが運んでくれた事でしょう。菜優は「ありがとう、ケルちゃん」と言うと、ケルは「なんの話かしら」ととぼけてみせました。
菜優は、胸元につけられたバッチに目が行きました。外してみると、その裏には菜優の能力とか、こなしてきた仕事などか確認出来ることが分かりました。しかし、このバッチをくれたシイラ達は、菜優の信頼を裏切りました。そんな人たちがくれたこのバッチに、興味が失せて、つけているのも嫌になって。
強く握った握り拳の中に閉じ込めてやると、それを力いっぱいに外へ放り投げるのでした。そして、心から、悪い夢であってほしいと。悪い夢なら、覚めて欲しいと願うのでした。
しかしどれだけ願っても、菜優は夢から醒めることはありませんでした。それもそのはず、今日起きたことは紛れもない現実で、夢だというのは、菜優のただの願いなのですから。




