26 - 家に帰って
夕闇があたりが包みこむ頃には、街の様子も落ち着きを取り戻していました。家に帰るものもぽつぽつと現れ始めたので、菜優もそれに倣って帰る事にしました。
薄暮の広がる空の下を、一人と一匹が並んで歩いていきます。途中で狼の群れに出会しましたが、ケルがひと睨みするだけで蜘蛛の子を散らすように去っていきます。
「フン、賢いと言うべきかしら、それとも意気地なしと言うべきなのかしら」
なんて不貞腐れるように呟くケルを、菜優が宥めるように撫でてやると、ケルは低く唸りながら、脅し立てるように牙を剥き出してきました。
やがて家が見えてきて、菜優がその戸を開けます。この辺でいいわよ、と外でうずくまるケルに、菜優が問いかけます。
「あれ、入ってこやんの?」
「あたしまで入っちゃったら、夜番は誰がするのよ。安心なさいな、勝手にどっか行ったりなんてしないから」
「ホントかなぁ?助けてもらってんのに何も言わずに失踪したのはどこの誰やっけなぁ」
「…それにはどう答えれば良いのかしら。あたしは別に、あんたを一回殴り飛ばして、そんなクチ利けなくしてやってもいいのだけれど」
ひい、と冗談めかしく菜優はうなりました。
「夜番なん家じゃあ要らんから、それより入ってきて。せっかくついてきてくれたのに、ケルちゃんは外ってなんか寂しい」
「…わかったわよ」
扉を開けたままケルを待つ菜優に、渋々とケルが答えます。ケルが入った事を確認すると菜優は扉を閉めます。かちゃりという、ノブの回る音がしました。
ケルは洞窟の中を、まるで何かを探しているかのようにしげしげと見回します。
「意外にひんやりしてるのね。人間の家ってもっとこう、暖かいモンだと思ってたわ」
「まぁ、ここ洞窟やしな。暖炉もあるけど、火ぃ焚かなならんほど寒いわけちゃうし」
「あの仕留め損ねた野郎共もこういう洞窟を縄張りにしてたけれど、人間って普通こんな風に洞窟に住んでるものなの?家っていうのを作ってそこに住みつくもんだと思っていたのだけれど」
「そっちのが普通かなぁ。私の場合は、ここを勝手に借りてるようなもんやし」
洞窟の中に、寂しさをはらませた菜優の声が、そこかしこに響いては返ってきます。ケルは一瞬だけちらりと菜優のほうを見やった後、また正面を向きながら言いました。
「勝手に借りてるって、また人間らしくないわね。何があったのよ。いや、別に話したくないならそれでもいいのだけれど」
「…帰れなくなっちゃった」
「帰れなくなった?どういう意味よそれ」
「思うに、ここは私が住んでた世界とはまるで別の世界なんやんな。ラノベにもあった、異世界転生ってやつやないかなって思っとる」
そう言って、菜優は自分が今日までの事を話し始めました。
家族旅行で、フェリーに乗っていたこと。
その時に嵐に巻き込まれて、海に投げ出されたこと。
目を覚ました時には、ここに流れ着いていたこと。
だから、本当はここがどこだかよくわかっていないこと。
ケルは目を丸くしながら、菜優の話をじっと聞いています。菜優は不安をいっぱい膨らませながら、思い出しては涙を浮かべながら。それでも、話を続けました。
ここはイースティアという世界らしいが、生まれてこの方聞いた事のない名前だったこと。
それを裏付けるように、街も生き物も、月や太陽ですら、自分の見慣れたものと違うこと。
だから帰り方も皆目見当のつかないのだと。
それに両親も見当たらないし、連絡もつかないし。
だから突然、自分一人で生き延びなきゃならなくなって。
食料がなくなって、やり方を見たことすらない狩りを自分でしなくちゃいけなくなって。
簡単な罠に引っかかった、ウサギを殴り斃して解体までして。
一通り話し終えて、菜優の口からは嗚咽が漏れ出るのみとなりました。言葉が続かないことを丁寧に確認してから、ケルはそっけなく言い放ちました。
「なによそれ。想像のつかない話ね」
「私だって信じられんよ。でも、本当に起きちゃったことやし」
「人間にもいろいろあるのね」
ケルがそういうと、涙で滲む菜優の双眸を覗き込みました。今までほとんど目を合わせようとしなかったのに、と菜優が驚いていると、ケルがにわかに口を開きました。
「あたしは鼻も耳もあんたよりよく利くし、腕っ節にはなによりの自信があるわ。どこまであんたの力になれるかは分からないけれど、出来る限りには手伝うわよ」
今までにないような優しい言葉に、菜優はさらに驚き固まります。その意味を理解出来ていないと見たか、ケルはもう一度吠え立てます。
「だから、あんたの親探しを手伝ったげるって言ってんの!何度も言わせないで頂戴」
それを聞いた菜優は、一度は涙の引いた眼をまたいっぱいに涙を溢れさせます。菜優はもうたまらなくなって、滲んだ視界に映る紫苑の影に抱きついていきます。
「ケルちゃん、ケルちゃん!」
「だから抱きつくなっての!」
またもケルは菜優を押し除けようとしますが、そんなことで怯む菜優ではありませんでした。退けては押し、退けては押しを繰り返すうち、ケルはとうとう観念して、菜優の両腕に抱かれていきました。
ケルは汚れるわよ、と忠告しようとしました。しかし、壊れたラジオのようにありがとう、ありがとうと繰り返す菜優を見て、なんだか野暮ったい気がして、ケルはその言葉を胸の内へと飲み込みました。そしてままよとばかりに諦めて、なすがままにされていました。




