21 - ヴァレンタインを臨んで
菜優がホワイトデイを発ってから、三度目の朝を迎えました。歩くうちに、街道に沿ってぽつぽつと家が立ち並ぶようになってきました。正面をみやれば、見覚えのある簡単な門とその先に建物が立ち並ぶのが見えます。そう、ヴァレンタインです。
「ああ、やっとや。やっと帰ってこれた。長かったな…」
菜優は早いながらも安堵して、へなへなとその場にへたりこみました。疲れがどっと押し寄せてきて、体を動かせる気はしません。少しだけ休んだのちに、荷車を街道からどかします。
「そう。アレがヴァレンタインの街なのね」
ケルが街のほうを見やりながら言います。菜優はすっかり忘れていたのですが、ケルとの約束は、ヴァレンタインの街までだったはずです。
「あんたが街に入るまではついてくけど、それからはどうするの。ちゃんと考えてなさいね」
ケルは菜優のほうを見やることはなく、ただ両耳をひょこひょこと右左に動かして周囲の状況に気を張っています。
そう、ヴァレンタインに着いたらば、菜優はケルと結んだ約束は満了することになります。すると、ケルはその瞬間から、頼りになるボディガードではなくなってしまいます。それでも菜優は、ただ友達として、ケルとの縁は離したくありません。
あるいはアニメに見た相棒のようなモンスター達のように、苦楽を共に出来たらどんなに素敵な事でしょう。菜優はそんな夢を脳裏に描きながら、微睡みの世界へと誘われます。
気がつくと菜優は、つるはしを手に地面を掘っていました。すでに菜優の背丈の四倍程度の深さにまで斜めに掘られた穴に潜り込み、わずかに差し込む太陽の光を頼りに、菜優はひたすらにつるはしを振るいます。
時折飛び出してくる電気やら炭やら紙やらを拾い集めては、ポーチの中に仕舞い込んでいきます。菜優は何のために地面を掘り進めているのかもよくわかりませんが、とにかく、ただひたすらに地面を掘り続けました。
その時、大きな砲丸のようなものが視界の脇を掠めていきました。紫にも見えたそれに気を留めることもなく地面を掘っていると、砲丸はやがて菜優の視線の彼方へと消えていきます。そして遠くでにわかに爆発を起こると、菜優の周りに張り付いていた暗闇をことごとく吹き飛ばしてしまいました。
菜優は陽の光の眩しさに晒されます。辺りは一面に大きな大きなクレーターが出来たように抉れていて、その中心には、紫苑の色のふわふわとした毛の塊が見えます。
その時菜優は、にわかに紫苑の体躯を持った、大事な友の存在を思い出しました。そしてその時まで気にも留めなかったはずの紫に向かって、菜優は無我夢中で駆け出しました。
しかしクレーターは無限大と言えるほどに大きいのか、あるいは広がり続けているのか。いくら必死に足を動かそうが、中心に横たわる紫苑のふわふわの元にまで、一向に辿り着けそうにもありません。
日の暑さにじりりと焼かれ、肺には砂漠が広がって。足は疲れ果て踏み締める一歩をままならなくなっても、菜優は追いかける事をやめませんでした。段々と遠ざかっていく友の名を、何度も何度繰り返し叫びます。
「ケルちゃん!」
叫び声を上げながら、菜優は飛び起きました。全身に脂汗が浮き出て、息を荒らげながらも、さっきまで見ていたのが夢だったことに、菜優は安堵します。
「何よ、なんなのよあんた。いきなりそんな跳ね起き方して。びっくりしたじゃないの」
声のした方を見ると、毛を逆立てながら目を丸くする、紫苑の猟犬の姿が見えました。
「ごめん。なんかちょっと、疲れてたみたい」
「まったく。あんなに寝てまだ疲れてるだなんて。人間ってなんて贅沢な生き物なのかしら」
ケルは毒づきながら周囲を見渡しています。逆立っていたはずの毛並みは既に寝かされていて、気が立っていたというよりも、本当にただ驚いただけのようです。
彼女との別れが今でなくて安心しましたが、早ければ今日中にはその時が来るでしょう。どうにかケルとの縁を繋ぎ止める方法を考えましたが、ケルにはケルの人生-いや、猟犬なので犬生でしょうか-、ケルにはケルの自由があることに気づきました。
私に付いてきてくれるのはとても嬉しいし、ケルちゃんと一緒にいられるのはとても楽しいし頼もしい。けれど、ケルの方は、どう思ってるのだろう?もしかして、本当は私と居ても楽しくなくて―現に、口を開けば毒を吐くばかりだし―ケルの自由を奪ってしまっているばかりかもしれないと。菜優は悩みました。
良いアイデアも浮かばないまま、菜優はヴァレンタインの入り口へと到達しました。その門をくぐるより前に、足元から声がしました。
「じゃあね。あたし、ここまでだから」
ケルは菜優に背を向けて歩き始めます。垂れた尻尾を見やりながら、菜優は叫びます。
「ケルちゃん」
「何よ」
「…ありがとうね」
「…フン」
菜優はヴァレンタインの町の中へ、ケルは広がる草原の彼方へと歩き始めます。結局、菜優はケルには自由でいて欲しいと、そう思ったのです。
-また、会えるよんな。そん時はさ、こんな、主従みたいな関係やなくてさ。友達同士として、仲良う出来たらええな。
草原の彼方に消えゆく背中を視線で追いかけながら、菜優は手を振ります。ケルは一切にも、振り返る事はありませんでした。




