20 - その猟犬、凶暴につき
荷車を押し、菜優たちは街道を進みます。石っころのない乾いた土の道の上を、車輪がかろかろと転がりながら進みます。時折、菜優と同じように荷車を引く人もいたので、こんにちはと声をかけていきました。
幾人かとすれ違った後、菜優はRPGやファンタジーではよく見るはずの馬車をなかなか見かけないことに気づきました。
仮にここがファンタジーの世界でなかったとしても、このイースティアは隣町まで三日ほど歩かなければならない程度には離れています。それなのに移動手段が無いのは相当不便なはずです。
一度気になりだすと、気になって仕方がないのも菜優の性分でありました。なので、コアトルに尋ねてみました。
「そういやさ、コアトル。こっちには馬車とかってないの?」
「いえ、ありますよ。まあ馬は飼い葉喰いなので、ロバの方がポピュラーではありますが」
話を聞きながら、菜優はこのヴァレンタインとホワイトデイの間の旅程を思い返していました。それらのどこにも、馬車はおろか、驢馬車らしいものすら見た記憶がありません。
ホワイトデイの街にはホワイトリカーという特産品があり、外の街にも評判が良いと聞きました。なのに、それを運んでいそうなものが無いのは、いささか不審です。
「へえ、あるんや。でも、やとしたらここ数日で全く見やんのは、なんか不思議な感じするけど」
「…あれ。確かにそうですね。ふむ、調べさせますか」
そう言ってコアトルは地面に降り立つと、そのまま地面に染み行くように入り込んで行きます。それを気味悪そうに見つめるのが一匹。
「なんなのよこのスライム…」
「八体で合体すれば、こうもなれますよ」
「キモいからそのまますっこんでてくれないかしら」
コアトルはわざとらしく地面から這い出て体をすくみ上がらせると、ケルが一際きつく吠えたてました。そしてまたわざとらしく慌ててながら、おそろしくゆっくりと地面に潜っていきました。
「ねえ、なんなのアレ」
「私にもよく分からん。けど害はないし、知識面ではすごい役立つから頼りにしてるの」
「まったくもう!アレとか、よく分からんとか、失敬しちゃいますわ」
それを聞いたコアトルはまた地面から恐ろしい速度で這い出て抗議をしに来ましたが、それがとうとうケルの逆鱗に触れてしまったようです。
這い出たところを、ケルは思い切りよく踏みつけます。地面はその衝撃で抉れ、直径にして一〇センチにはなろう小さな穴を作っていました。
そこにコアトルの姿は見えませんでしたが、ケルの耳は、鼻は、たしかにコアトルが地面を這い這い逃げゆくのを捉えています。ケルはひどく苛立たしげに毛を逆立てて、牙を剥き出しにします。
「へえ。あたしに喧嘩売ろうっての。スライムの分際で生意気ね。今に見てなさい」
そう言って、ケルはもう一度地面を強く殴り付けます。地面に開けた穴を広げるばかりか、軽い地響きすら感じられました。
「そこね」
もう一度、街道から離れたところを力いっぱいに踏みしめます。ケル一匹がすっぽりと収まるほどの大穴が開きましたが、手応えはありません。
「逃さないわ」
出来た穴の壁面に向かって、ケルは突進します。すると地面がえぐれて吹き飛び、扇状の大きな穴へと成長しました。浮かび上がった土の中に、どぎつい緑色のスライムが紛れ込んでいるのが見えました。
「隠れてたって無駄よ」
「はは、無茶苦茶ですねこれは」
ケルは打ち上げられたコアトルに向かってまっすぐに跳躍し噛みつきかかりますが、コアトルはまるで弾丸のよう地面に向かって体を器用に打ち出して、その牙を見事に躱しました。
そのさまを、菜優は呆然と眺めていました。ケルがべらぼうに強い事は把握していましたが、まさかこんな、小さなクレーターのようなものを容易く作り上げるほどとは想像だにしていませんでした。
「ちょっと、ケルちゃん。やりすぎやって」
そんな言葉に耳を貸すこともなく、ケルは耳や鼻先に意識を集めて行きます。なんとかして止めないと、また大きな穴が出来上がって、今度は街道を壊してしまいかねません。そうなってしまったら、この荷物はどうやって運びましょう。
菜優は必死になって考えます。言葉は届きませんでしたし、掴みかかって止めようなどした日には、菜優の五体の無事は保証出来ないでしょう。命すら危ういかもしれません。
菜優は菜優が必死に考えているうち、ケルが菜優の近くに降り立ちました。毛は酷く逆立ち、針のように鋭く尖っていて、今にも飛んでいきそうなほどです。
が、菜優はこれを好機と見ました。やってみて反応があるかは分からないけれど、ちょっとでも注意がこちらに向けばそれでいい。菜優は落ち着いて、しかし素早くケルの耳元にに近づきました。
「わっ」
出来る限り抑えめに、でも脅かせられる程度には大きく、短く、菜優は叫びました。ケルはびっくりして後ろに飛び退いて、菜優に向かって毛を逆立てます。
「きゃあ!いきなりなにすんのよ!」
思いの外可愛らしい声を上げたケルは、喉を低く鳴らして菜優をにらみます。
「ケルちゃん、落ち着いて。この調子やと、街道が壊れちゃう」
「それがどうしたのよ。あんたには何も関係ないじゃないの」
「それが関係あるんよ。私さ、この荷物をヴァレンタインの街まで持ってかなあかんのな。でもさ、この道壊れちゃったらさ、この荷物よう持ってかんのよ。したらさ、お金ももらえやんくなるし、ご飯も買えやんくなるの。したらさ、私さ、狩りはそんなに得意やないしさ、飢え死んじゃうかも知れやんのやんな」
ケルはぎりりと歯を軋ませながら菜優をにらみます。納得してなさそうなケルを、もう一押しします。
「私さ、それは嫌なんな。ケルちゃんだってさ、アルファが飢え死ぬのは困るやろ?やからさ、そこら辺でよしにしといて欲しいんな」
ケルはそれでもしばらく菜優を睨みながら喉を低く唸らせていましたが、やがて剥き出しにした牙をしまい込み、逆立てた毛を寝かせていきました。
「おい、キモスライム!今回は見逃してあげる。けど次はないから、覚悟しなさい」
吐き捨てるようにケルは言うと、体を翻して街道の方へと戻りました。菜優はほっと胸を撫で下ろし、ケルの背中を追いかけました。荷車のハンドルを握りなおし、ヴァレンタインへ向けて再出発です。
しかしどうしたことか、ケルの姿が見えません。見回してみると、遥か後方からこちらを見やっているケルの姿が見えました。菜優は慌てて行く先をケルに教えると、ケルはゆっくりとこちらに戻ってきて、菜優を先導し始めました。
看板のある丁字路を右に曲がります。正面に茜色に染まって、今にも暮れ落ちようとしている太陽がやってきました。彼は地平線のすれすれにまで低い位置にまで降りてきいて、菜優の体を真正面から照らし出し、後ろに長い長い影を作ります。
菜優はにわかに振り返って、背中の方へ伸びる影を見つめました。いつか、パパやママとその影を踏み合ったり、背比べをした事が思い出されます。けど振り返った先にある影は、彼女の牽いている荷車と、先を行くケルの分しかありません。
菜優自身の影はも荷車の影に潰されてしまっていて、人の形の影など、そこにはありませんでした。




