2 - ここはどこ?私は菜優
「ああ、気がついたようだ。思っていたより、幾分早かったな」
「よかったわ。拾ったときには、どうなることかと思ったけれど」
横たわった少女がにわかにひどくむせ返るのを見て、二人は安堵しました。少女はむせ返りながら海水を吐き出しますが、あまりにひどくむせたのか、鮮血を混じらせていました。
少女はぼんやりとした意識のまま、ゆるやかに目を開きました。視界はぼやけたままですが、錆青磁の色をした髪の男の人が、こちらを覗き込んでいることが分かりました。
「ああ、まだ動いちゃダメ。さっきまで貴方、意識を失っていたんだから。それにしても、酷い流れ着き方をしたものね」
奥からまた一つ、女の人の声が聞こえてきます。彼女の声は、安心感すら感じられるような、低く落ち着いた響きを持っていました。
「ながれ、つき?」
「話は後で聞く。もうしばらく、ゆっくりしてるといいさ」
男の人は朧げな問いを一蹴すると、海水に濡れさぼった短く黒い髪を一撫でして、少女の元から離れます。
―ああ、生きてる。
あの人、コスプレしてる人みたいな髪してたけど。
意識を起こせた少女は、とりあえず、自分が生きている事を実感出来ました。一方でまだ意識をきちんと操れないようです。朦朧としたまま、またぼんやりと沈むように目を閉ざしました。
次に意識を取り戻した時には、まだ頭も意識もくらくらするものの、なんとか動けるまでに回復していました。ふらつく足取りで立ち上がろうと試みますが、やはり踏ん張りは効かず、平衡感覚にも自信が持てなかったものですから、そのまま崩れ落ちるように地に臥せていきました。
「どう、気分はいかが?」
「マシになってきました。まだしんどいですけど」
女の人が歩み寄り、少女の視界に入り込んで来たことが分かりました。優しい微笑みを湛えて少女と視線を合わせると、長い浅葱色の髪も一緒に垂れてきました。
「そう、よかった。一時はどうなることかと思ったけれど。ああ、自己紹介がまだだったよね。私はエルレアネ。風の民よ。緑のアレは火の民のライアン。あなたは?」
「なゆ、です。朱鷺風菜優」
―よかった。ちゃんと覚えてる。
まだ朦朧としているところもありましたが、自分の名前ははっきりと覚えているようです。野原に生ける菜の花のように、優しく強く、美しく。両親から貰った大切な名前を、彼女は忘れるわけにはいきません。
「おいおい、会って数分の相手にそんなぬけぬけと身の上を話して良いものかね。その牙がいつお前に向くか、知れたもんじゃないぞ」
「良いじゃない、別に。減るものじゃないし、"袖触れ合うも他生の縁"って、よく言うじゃない」
「"助けを呼ばれてる、そんな気がする"なんて一言から始まった、三日がかりの寄り道を、どうして"袖触れ合った"などと言える。私に言わせば、根拠のないお前の勘とお人好しに振り回されてるだけなんだが」
「でもちゃんとついてきてくれる貴方の優しいところ、私は好きよ」
「仕事だからな。延滞金はきっちりいただくぞ」
表情一つ変えぬ軽口の応酬に、菜優はおもむろに頬を緩ませました。きっと仲良し同士なのでしょう。
―私にもいたっけな。あんな、気の置けやん友達が。さくらちゃん、元気にしとるかな。
菜優が友達や家族の事を思い出していると、壁に突き刺さっていた電球が突然、こちらに向かって飛び出してきました。辛うじて動く体に鞭打って無理矢理避けようとしたものの、電球はすでに元の位置に戻っていました。くたびれ儲けの菜優は、ぐったりとしたままエルレアネにその全身を支えてもらっています。にわかに頭を振ることになったものですから、頭の中身がゆらり揺られ、更に気持ち悪くなってしまいます。
「どうしたの?突然、飛び出そうとなんかして…」
「突然、あの電球がこっちに飛び出してきたように見えたんです。でも、すぐに引っ込んでって」
菜優は電球を指差しますが、当然、電球は壁に収まったまま微動だにしていません。そのすぐ後に、菜優は不快な羽音に包まれ、振り追い払おうと手を振り回します。そのさまを訝しく眺めていましたが、やがて合点が行ったようにエルレアネは言いました。
「ああ、それはきっと幻覚ね。電球が独りでに襲ってくるなんて、そんなことはありえないから安心して。羽虫は出そうなところだけれど、とりあえず見当たらないよと伝えておくね。しばらくしたら落ち着いてくるから…ただ、ちゃんと幻覚だって意識してあげてね」
幻覚と聞いた菜優は幻覚を掛けている人がどこかにいる、とか、不思議な薬を飲まされた、といったことを思い浮かべて恐怖しました。ただ、意識を長い間失っていると次に目覚めたときに幻覚は見えるものなんだとエルレアネは教えてくれました。
それからというもの、電球から光線が飛んで来たり、床に引かれた絨毯が独りでに歩きだしたり、石で出来ている壁の凹凸が、ずーっと一方向に流れ出したりと、様々なことが菜優の視界の中で起こりました。しかし、菜優はもう動じることはありません。それらは幻覚であると、分かったからです。ひんやりぶよぶよとした感触が首筋を襲いましたが、そんなものが近くあるとは想像に難いですし、遠くにいるライアンやエルレアネの悪戯とも考えにくいです。これもまた幻覚やろなと考えながら、菜優はぶよぶよした感触になすがままにされておきました。
エルレアネとライアンが戻ってくると、ライアンの顔付きがみるみるうちに険しいものに変わります。そしてにわかに菜優の首筋にまとわりつくものを引き剥がすと、ライアンの手中には、その握られた掌からはみ出すか出さないか程度の大きさの、どぎつい緑色のスライムが、ライアンの手中でぶよぶよしていました。
それでもまだ菜優にすり寄ろうとするので、ライアンはスライムを握ったままの手から火を放ちます。スライムは萎々《しおしお》とライアンの手から溢れ落ち、やがてその動きを止めました。
ライアンはスライムが消えていかない事を訝しんで、鞘から長剣を抜き、スライムをたった斬ろうと踏み込みます。
「ライアンさん、待って!」
菜優はにわかに叫びました。ライアンはすんでのところで勢いを殺し、ただスライムへ切っ先を向けていました。スライムは相変わらず消えいくことなく、また一方で動きそうな様子もありません。
ただ菜優はただなんとなく、このスライムは人にじゃれていただけのような気がしていました。実害がなければ、殺す理由はない。菜優はそう考えたのです。
「お前、このスライムに襲われていたんだぞ。しかもあの一撃で消えていかないあたり、そこらへんのモンスターよりよほど強いぞ。お前じゃどうにも出来ないと思うが、それでいいのか?」
「はい。人懐っこいだけな、そんな気がします」
いいんじゃない?と言わんばかりに、エルレアネも目を配せます。ライアンは呆れたと言わんばかりに大きく肩を竦ませ、剣を鞘に収めました。
「なら、好きにするがいいさ。だが、次にそいつに襲われた時には、助けてやれんぞ。私達はそろそろ出立せねばならんのだからな」
「大丈夫です。なんとなくですけど、大丈夫です」
菜優はそう、微笑みました。




