13 - 菜優、ホワイトデイに征く。二日目
浅く、そして足りない時間の眠りは、菜優の調子をことごとく崩していきました。頭がズキズキと痛んで働かないだけならまだしも、荷車のハンドルを握る手に、押し進める腕に、一歩を踏みしめる足に、力が入ってくれません。
昨日はそれほど重たくなかったはずなのに、今日は次の一歩が重たく感じます。意識ははっきりしていたつもりでしたが、次の一歩がもたついて転けそうになったり、街道から外れそうになっているのに気づけなかったり。背中を這い回る冷たい感触に反応する気も起きないまま、菜優は一心に荷車を押し続けています。
「ナユ、ストップです。休みましょう」
「え?でもホワイトデイまでまだまだなんやろ?」
「はい。ですが日程に余裕はあります。今休んでおかないと、きっとどこかで事故を起こすでしょう」
二日もかかる旅程を急ぎたい菜優はやはり渋りましたが、自分の体調が芳しくないこともまた間違いないと感じていたでしょう。菜優は適当な木陰で休む事にしました。
腰を降ろし木の幹に体を預けると、間もなく菜優の意識は手から離れていきました。意識の外でコアトルの声が聞こえた気がしましたが、あまりに重たい瞼を起こすことが出来せん。一度は表に浮かびかけた菜優の意識は、木の幹の枕と、暖かな空気に包まれて、また深く深く沈んでいきます。
しばらくの眠りの後に、菜優は目を覚ましました。木に預けていたはずの体はいつの間にか剥がれ落ちていたようで、横向きにうずくまるように地面に体を投げ出していました。草木や土の匂いがないまぜになって菜優の鼻腔を満たします。随分と長い時間眠っていたような気がしましたが、太陽はまだ天の高い位置につけていて、生み出す影が東に伸びゆこうとしているところでした。
「目覚めましたか。ご機嫌はいかが」
「おはよう。スッキリしたかも」
そう言いつつも、実はまだ寝ぼけ気味なまま上体を起こしあげます。右腕に着いていた土を軽く払ってから、また街道に戻っていきました。
意識が冴えてきた菜優は、順調に街道を歩み進んでいきます。先程まで感じていたの荷車の重さがまるで嘘のように、軽く、軽く押し進められます。やがて看板のある大きな岐路にたどり着いたきます。軽やかな心地のまま、進路を北に向けて折りました。
そこから先の道はなだらかな上り坂となっていて、荷車を押す腕に重みがさらにのしかかってきます。しかし、菜優はそれを歯牙にもかけず、ずいずいと押して押して押し進みます。
「ナユ、もうちょっとペースを落としませんか。坂の勾配も、少しずつ険しくなって来ているようですし」
「大丈夫、大丈夫。まだ平気やし、早よ届けに行きたいしな」
「そう、ですか。しかし無理はしないようにしてくださいね」
日程に余裕があるとはいえ、やっぱなるだけ早くに届けたい。それにさっき長く休憩を取ったんやから、その遅れは取り戻さんと。菜優はそんな事を考えながら、ホワイトデイへの旅路を急ぎました。
日が茜に滲み行き、明るかった空に陰りが出てくると、それまで調子づいていた菜優にも異変が出てきました。息が切れて肺や喉ががざらざらとして、膝や足がひどく痛みだしたのです。それでも負けじと押し進めていましたが、太陽が地平線に降り立った頃、とうとう膝から崩れ落ちて動けなくなってしまいました。
「今日はここまでですね。日が落ちなきらないうちに、休めるところを探しましょうか」
「うー…そやな。もうちょい進みたかったけど、もうめっちゃ辛いわ」
「ま、時間はまだまだあります。もう道半分も過ぎ行きましたし、焦らずに行きましょう」
菜優は力なく頷きました。本当はまだ明るいし、進めるだけ進みたかったのですが、もう体が言うことを聞いてくれません。少しの休憩の後に、菜優はまた荷車のハンドルを握り、あるだけの力を振り絞って街道からどかしました。そして寝袋を地面に繰り広げると、気が抜けたのか、途端に意識が重たく感じてきたのです。菜優はなんとか寝袋に潜り込むと、そのまま死んだように深く眠りました。
ぼやける意識の中で、菜優は自分の二倍はあろうほどに、大きな熊と出会いました。菜優は慌ててポーチからクラッカーを取り出そうとしますが、それらの一つも見つける事が出来ません。まだ何個か残っていたはずだったのに、と思っていても眼の前の状況は変わりません。
菜優の肌が天の頂きに登った烈日に焼かれ、じわりと汗が滲み出します。一目散に逃げ出そうとして、そういえば、熊って逃げ出すと追っかけて来るんやっけと思い直します。
木を間に挟みながら逃げると良いと聞いた事を冷静に思い出して、菜優は左右を見渡します。でも、そこは一面に広がる野っ原で、木はおろか、見渡す限りの一切に、遮るようなものはありません。
熊は獰猛に吠え猛り、菜優に右腕を振るいました。絶体絶命のピンチです。もうあかん。そう思った菜優は、恐ろしさのあまりに目を瞑って身を屈ませました。
しかし、振るわれたはずの右腕に、殴りとばされる事はありませんでした。不審に思って眼を開けると、犬のような姿をした黒い影が、果敢にも熊に襲いかかっていたのです。
犬のような影は十倍はあろう体格差をものともせず、熊を一方的にねじ伏せていました。その様子を見届けると菜優は、気が抜けたように意識がぐらりと傾いて、その場に崩れ落ちていきました。
目を覚ますと、朝焼けのきれいな空が一面に繰り広げられていました。寝ぼけた頭では状況が整理出来ていませんでしたが、やがてあの熊が悪い夢であったことが理解できると、菜優はさっさと寝袋から這い出してきました。
その時、なんだか血なまぐさい匂いが辺りに漂っている事に気付きました。注意深く見回してみて、やがて菜優は気付きました。なんと、夢で見たほどに大きな熊が近くに斃れているではありませんか。
全身に見てわかるほどに酷い打撲痕があり、四肢はありえない方向に捻じ曲がり、顔は潰れ、首元には噛みちぎられたような跡がありました。あまりに惨たらしい光景に込み上げてきて、菜優はその場にうずくまります。
落ち着きを取り戻した菜優は、改めて斃された熊と正対します。熊がこのように斃されていなければ、酷い目にあっていのは菜優のほうでしょう。菜優は、自然界の恐ろしさに出会ったような気がしました。そして今の自分が五体満足にあることが奇跡のように感じました。
しかし、斃された熊の凄惨さたるや、人間が菜優を守るためだけに戦って出来た傷には見えません。一体、何者が熊を斃し、そして、近くにいたはずの菜優の事は襲わなかったのでしょうか。気にはなったものの、気にしていても収穫はないでしょう。
菜優はあえてそれ以上に考えることはやめて、寝ている間に襲われないようにするにはどうすれば良いかだけを考える事にしました。そのことについては、ホワイトデイについてから、人に聞くことが良いだろうと、菜優は結論づけます。
街道に戻る前に、菜優は静かに屈み込んで手を合わせます。やがてすっくと立ち上がった菜優は翻り、ホワイトデイに向けてまた出立するのでした。




