10 - 運命のいたずら
いつの間に眠っていたのでしょうか。菜優はにわかに目を覚まし、机に突っ伏した体をゆるゆると起こしあげました。机上を見やれば、肉の剥がれた丈夫な骨が放りっぱなしになっています。どうやら、夕食後にそのまま眠りに落ちてしまったようです。どれほどに眠ってしまっていたのか。菜優は時間を確かめようと辺りを見渡しましますが、洞窟には窓は無く、なぜか時計もみつかりません。他の家電や家具は揃っているのに、と菜優は疑問に思いながらも、扉を開け放って外の様子を伺うことにしました。
太陽は既に天の高い位置につけており、地面を柔らかに照りつけていました。からっと乾いた暖かな風が洞窟の中に吹き込んで、菜優の頬を撫ぜて過ぎ行きます。ふわりと舞い上がった土の香りが、菜優の鼻腔に満ちゆきます。ふいに、寝坊したかも、と考えて焦りだしますが、菜優の通っていた学校にここから通うことは出来ません。滲み出た寂しさを意識しないように薄くのばしながら、菜優は出掛ける支度をはじめました。
昨日剥いだウサギの皮を手に取ろうとしたとき、皮を剥ぐ前の姿を留めているように見えてぎょっとしました。しかし自分が殺めた命を、折角なら余すことなく使ってあげないと成仏出来るものも出来やんよなと、菜優は気を奮わせました。
扉を開けて外に出ると、側で一匹の猟犬が何かに食らいついていました。菜優は食べられるか分からなかったものたちを打ち捨てたことを思い出して、それを食べてくれてるのだろうと理解しました。その時、にわかにその猟犬がこちらに顔を向けました。
紫苑のひどく荒れた毛並みに黄金色の瞳を宿した彼女は、顔中に切り傷の跡のようなものをたくさんつけていました。おばあちゃんの家で見た柴犬と大差ないほどの大きさの、前に街道で襲われた狼よりも幾分と小さな体躯の持ち主でした。しかし菜優の心臓は危険を知らせるかのように、早鐘の打ちだしはじめました。菜優は恐ろしさのあまりに腰の剣に手を添えて、いつでも抜けるように構えます。
「何、やる気?」
にわかに聞こえてきた低くくぐもった声に、菜優は驚きました。右に左に視線を這わせましたが、人はおろか、近くに他の人のある様子などありません。やはり間違いなく、正面から聞こえてきたのだと菜優は理解しました。
その声の主は前に遭遇したあの狼のようににわかに飛びかかってくることこそありませんが、ただじっと姿を捉えられるだけでいつかその殺気に射殺されそうな迫力がありました。
菜優は猟犬から目を離すことなく、どうやって逃げようかを必死に考えていました。背を向けた瞬間に、いや、視線を逸したその一瞬で懐に飛びかかってくるんじゃないか。そんなことあり得ないだろうと分かっていても、考えずにはいられませんでした。
周りの空気が、菜優の肌にびりびりと張り付きます。全身の血の気が引いてきて、腕が、唇が、わなわなと震えだします。逃げなきゃいけないのに、体が動いてくれません。緊張の瞬間が連なっては刻々と過ぎ行き、次第に菜優の集中を蝕んでいきます。
しかし、一方の猟犬はおもむろに体を震わせて軽く欠伸を一つかき、菜優から興味を失ったように視線を逸らせました。そしてまた菜優の方を一睨みして言いました。
「去りなさい。売られた喧嘩は買うけれど、弱い相手は襲わない主義なの」
その言葉を聞いた瞬間に、菜優の緊張の糸はぷつりと切れて、その場にへたり込んでしまいました。すると、
「早く失せてくれないかしら。目障りなんだけど」
なんて言われてしまったので、菜優は跳ね起きるように立ち上がり、一目散に走り去りました。夢中になって駆け続け、やがて街道が見えてきて、菜優は息を切らせながら振り返ります。しかし、あの紫苑の猟犬が追ってくる様子はありません。ほっと胸を撫で下ろし、そのまま一度休むことにしました。南中した太陽が、菜優の全身をやわらかに包みこみます。暖かな陽気に包まれて、菜優の意識はまどろんでいきます。雑草の萌える地面に体を預け、菜優の意識は手放されていきました。
次に菜優が気がついたときには、周囲が真っ白な世界に菜優がぽつんと一人だけ佇んでいました。周囲を見回しても、動物はおろか、草木の一つもありません。ただ黄金色の暖かな光が差し込んでいるのを感じられるのみです。しかしやがて光に影が差し、菜優はその影のある方向に翻りました。するとさっきまで何もなかったはずの場所にとても大きな像がそこにありました。
人を象った像は両手に糸とハサミを持ち、黄金色の光を、背中に受けて神々しく輝いているのです。あるいは、像が光を放っているのでしょうか。菜優には判別出来ませんでしたが、その像の美しさに間違いはありません。半ば無意識のうちに頭を垂れて、ただただ暖かな神の威光に触れていました。
やがて菜優は意識をゆるゆるとゆり起こします。ぼやけたままの視界に紫色の犬が映りこみます。菜優は夢現な心地のまま、犬に手を伸ばしてその頭を撫でました。すると、伸ばした手は鋭く打ち払われ、びっくりした菜優は飛び起きるように目を覚ましました。
「まったく、あたしを気安く撫でちゃって。恐れ知らずってこのことを言うのかしら」
手を伸ばした先を見やれば、そこには先程家の前で見かけた猟犬の姿が、そこにありました。菜優は慌てて身構えますが、かがみ込んだ自分よりも小さな体躯の彼女から、殺気のようなものはまるで感じられませんでした。口元を見やれば、茶色い毛皮のようなものが咥えられているのです。それを菜優に投げ返すと、吐き捨てるように言いました。
「こんな食べられない物もらっても、ちっとも嬉しくないんだけど。用はそれだけ」
菜優の手元に、街へ持っていこうとしていたウサギの毛皮が舞い込んできました。それを手早く畳むと、菜優は猟犬に向かって言い放ちました。
「あの、猟犬さん。ありがとう」
猟犬は振り返ることもなくすたすたと立ち去りました。菜優は畳んだ毛皮を両腕に抱えて、また街へ向かって歩みだしました。
道すがら、いつの間にか肩口に這い上がっていたコアトルに、菜優は少し気になったことを聞いてみることにしました。
「そういやさっきの猟犬さん、普通に人間の言葉喋ってたけど、あんなもんなん?」
「…普通、ないですね。ましてや、猟犬系モンスターであれば、それほどの知能があるとはとても思えないですね」
街に着くなり、たすけあうジャパンの支社へ足を運びます。ウサギの毛皮はどこで買い取ってもらえるかを相談するつもりだったのですが、なんとそのまま買い取って貰えるようなのです。見積もりに時間がかかるとのことだったので、終わるまでの間に街をまた見て回ることにしました。依頼の掲示板も覗いて見ましたが、相変わらず菜優に出来そうなものはありません。見積もりが終わったとの知らせを受けて、菜優は支社の中に戻りました。
「…モノは良いが状態があまり良くない。十ティミってところだな」
ニメートルはあろうほどの強面の大男に、そう説明されました。十ティミあれば、市場にあったクラッカーを数セットと、ある程度の食糧を買っていくことも出来るでしょう。菜優は毛皮を手放し、初めてのお金を手にすることとなりました。大男は毛皮を手に、おもむろに建物の奥へと戻ろうとしましたが、にわかに菜優に向き直りました。菜優はやや竦みながら、不思議そうに大男を眺めていましたが、やがて大男が口を開きます。
「二週間後だ。また来い」
菜優を指差しながらそう言い放つと、大男はまた緩やかに奥のほうへと戻っていきました。菜優は頭にはてなを浮かべながらしばらく立ち尽くしていましたが、やがて肩口から這い出たコアトルに促されるように市場へと向かったのでした。