011-幸せの一つ
ヤグがかまどに火をつけてからしばらくして、彼はどんぶりのような器を二つ取り出すと、木のお玉で土鍋から料理を掬っていた。
味付けは岩塩(だと思う)をゴリゴリと削っただけのシンプルなもので、出汁などはあまり考えられていなさそうだ。
せめて肉があればとは思うが、食べ物を出してくれるだけでもありがたいと思うべきだろう。
最後に器に匙を突っ込んで、ヤグはそれらを板の間に置く。
そして靴を脱いで自分も板の間に上がると、囲炉裏のような場所に火を付けてから、どんぶりの片方を俺に向けて差し出した。
「『出来たぞ』」
「イーク」
「『イークは肯定という意味だ。返事をするときは、ラウ、と言え』」
「そうなのか……ラウ!」
言葉を教わりながら、彼の手から器を受け取る。
温かく、植物の煮えた匂いのする、文明を感じる食事だ。
最近の俺は魂のエネルギーだけを啜っている野生動物のような生活をしていたので、普通(?)の食事を目にするのは久しぶりだった。
まぁ魂のエネルギーはとても美味しかったので不満があるというわけではないのだが、慣れ親しんだ文明の香りがあるということが重要なのだ。
「『食わないのか?』」
「おっと」
そうだった。
俺は器を一度床に置くと、手を合わせて目を瞑る。
「いただきます」
そして僅かに頭を下げながら食事の前の一礼をして、器と匙を手に取った。
ヤグはそれを無表情に見ていたが、そんなことを気にしても仕様がない。
今は久しぶりの人間的な食事の方が重要なのだ。
スープを匙で掬って、息を吹きかけて適度に冷ます。
そして待ちきれないとばかりに、俺は匙を口に運んだ。
「ん……んん?」
「『どうした?』」
しかし、俺の期待した塩味のスープは、俺の舌にはやって来なかった。
熱は感じる。水分も感じる。
だが塩気を、味を一切感じない。
水のような味すらも、何も感じないのだ。
口の中で転がしてみても、飲み込んでみても、もう一口飲んでみても、感触以外は何も感じない。
「これは……まさか、そういうことなのか?」
幾度か口に運んでみて、俺は理解した。これは俺にとって関係のないものなのだと。
カロリーのあるものを美味しく感じるように、腐ったものを臭く感じるように。
体が求めているものを食べた時にやたらと美味しく感じるように、食べ飽きたものを不味く感じるように。
生物は必要なものを摂取することに快感を覚え、毒になるものを摂取しないように不快感を覚えた。
だからこそ食事をして、生存してきたのだ。
だが今の俺にはそのどちらの感覚もない。
つまりこれは、俺にとって物理的な食事は毒にも薬にもならないものなのだということを示しているのではないのか?
「嘘だろ」
愕然とした。
食事は人生の楽しみの一つだ。
生きる上で必ずついて回るものであり、そうであるが故に日常の幸福の一因になる。
だのに今この瞬間、俺はその一つを失ったのだと理解した。
また同時に、俺が自己を人間だと定義するための、もっといえば生物だと定義するための要素を一つ失ったのである。
「『口に合わなかったのか』」
「違う、違うんだ……どうしたら良いんだ」
食事の楽しみを失ってしまったショックは、俺にとって存外に大きかった。
あまりの衝撃に、ヤグに対して日本語で返してしまったくらいには動揺している。
今後、俺が食器の中身を美味しくいただくことは、二度と無いのだ。
「…………ん!?」
そうして視線を落としていると、ふと自分の右手が手に入った。
そういえば今の俺は、手を硬度まで含めて変形させられる。
と言う事は、ある程度なら組成を変えられるということではあるまいか。
「もしかして……」
思いついたのなら、試してみないわけにはいかない。
俺はスープを口に含むと、舌に思い切り力を集め始めた。
「フンンンンンン!!!」
応えてくれ俺の魂!
───そう強く願ったのが功を奏したのだろうか。一瞬僅かに、ピリッという電気が走ったような感覚が走る。
次いで舌が何かの情報を訴えかけてきた。
甘みだ。甘いと言う情報だ。
「ムー!?」
それは小さな情報で、言うなれば薄味といったところだろう。
次に塩気、そして酸味、最後に苦みと、スープの味が舌の上で感じられたのが理解できる。
あまりにも単純で、味気ない。舌の肥えた日本人の舌にはとてもでは無いが合わない味である。
しかし俺にとって、このことは衝撃であった。
失ったかと思った味覚が、原理は分からないにせよ返ってきたのだ!
その事実に比べれば、スープが不味いことなど何ほどのことも無い。
「んぐっ……良かったー!」
今日一番にホッとしたかも知れない。
衝撃と焦燥が大きかった分だけ、安堵も大きなものだった。
ものの価値は無くしてみなければ分からないと言うが、それを己が身で体験することになろうとは、思いもしなかった。
「ああ、焦った……あっ」
しかし、力を抜くと味覚はあっという間に霧散してしまう。
どうやら食事の時は常に舌を変化させていなければいけないらしい。
不便ではあるが、味覚を完全に失ってしまうよりは比べようも無いほどにマシだろう。
俺は味覚を復活させると、器に口を付けて中の植物ごとスープを一気に飲んでいった。
暖かく、幸せな気分だ。
「ふはぁっ……!」
「『よく分からないが、食えたのか』」
「イーク!」
いや、本当に良かった。一時はどうなることかと思った。
食事が出来ない人生など、きっと味気なくて色あせているに違いない。
そうなれば、あるいは俺は味覚の代替を求めて、周囲の生物の魂を借りまくっていたかも知れないのだ。
乱獲、ダメ絶対。
「『そうか。では食い終わったのなら、そこの藁で寝ろ』」
「イー……ラウ」
「『イーラウは騎士の返事だ。ラウでいい』」
「ラウ。なるほどなぁ」
そんなやり取りが終わると、ヤグは自分のスープを飲み始めた。
彼はもう話すこともなさそうだし、そうなると俺もやることが無い。
であれば彼の言うとおりに、さっさと寝てしまった方が良いのかもしれない。
木製の格子窓の外を見れば、空は暗く星が瞬いている。
とはいえまだ夜になったばかりの筈だが、このくらいの文明では夜に起きていようにも、明かりの燃料を用意するだけで大変だろう。
俺にとっては今でも周囲がはっきりと見えているが、ヤグにとってはかまどと囲炉裏の火だけが視界の頼りのはずだ。
「おやすみ」
俺は伝わらない挨拶をしながら、板の間の隅に敷かれた藁の上で横になった。
この分だと、明日は朝から仕事かな───と、そこまで考えてふと気付く。
そういえば俺、この世界に来てから寝ていない様な気がするが、眠れるのか? と。
食事は人生の活力!
経験談ですが、料理を覚えて美味しいものを作れるようになると、日々の幸せが増えます。