死ぬなら年の順だ
「おー!パパって言えるようになったか!ほら、パパですよ~」
「たかいたかーいっと。春子もだいぶ重くなったなあ」
「陽子、このおむつ、使わないから捨てるか。もう自分でトイレ行けるもんな。……寂しいもんだな」
「お友達はできたか?へえ、交換日記してるのか。ちょっと見せてくれよ。だめ?」
「高い高いはちょっと腰が痛くなりそうだな。なんだ、もうやんなくていいのか?」
「お父さんとじゃなくて、そろそろ一人でお風呂入る練習しようか。なんでって、そりゃ、恥ずかしいだろ。そういうもんなんだよ」
断片的な記憶の奔流。何気ない日常の一場面たちが、桃山の脳裏を駆け巡る。ミルクの匂い、小さな手の感触、初めて呼んでくれた「パパ」という響き。その一つ一つが、かけがえのない宝物だったはずだ。
◆◆◆
視界の隅、いつもは洗濯物がぶら下がっているだけの健康器具。首にかけられた縄跳びのロープ。ぐったりと揺れる、年相応に育った大きな体。
時間が止まった。思考が停止する。
「――馬鹿野郎っ!!」
声にならない叫びが、喉を引き裂くように迸った。誰に対しての怒りなのか。それはむしろ、この状況を止められなかった自分へのものだった。だが、考える余裕はない。体が勝手に動いていた。
駆け寄り、春子の腰を掴んで持ち上げようとする。だが、高校生になった娘の体は、記憶の中とは比べ物にならないほど重い。
必死に力を込めるが、持ち上がらず腰が痛い。だが、そんな痛みも今はどうでもよかった。
「うらあぁ!」
腰が動かなくなってもいい、歩けなくなってもいい……!全力を込めて踏ん張ると、わずかに春子の体が浮き、春子の息を吸う音が聞こえた気がする。
どうすればいい? 縄を切る? いや、そんな余裕はない。視界に入ったぶらさがり健康器の支柱。古い鉄パイプ製で、土台は意外と軽い。物干し代わりに使い続けて、ネジも緩んでいるはずだ。これしかない。
「うおおおおっ!」
春子を抱えたまま、肩から支柱にぶつかっていく。一度目、器具が少し揺れた。二度目、土台の片側が浮き上がる。三度目――ついに重心を失った器具が、ゆっくりと傾き始めた。
バランスを崩した桃山は春子を庇うように抱えたまま、背中から床に落ちた。後頭部が激突する。視界が一瞬真っ白になり、続いて星が散った。耳の奥でキーンという音が鳴り、吐き気がこみ上げてくる。
それでも、腕の中には確かに娘の温もりがあった。
「春子! おい、しっかりしろ!」
視界がぐらつく中、揺らすのは危険かもと体を軽く叩いて話しかけ、急いで縄を解く。手が震えて上手く結び目がほどけない。やっとの思いで外すと、娘の体が小さく震え、激しい咳をする。
「ゲホッ、ゴホッ、ゴボッ……おぇえっ!」
良かった、生きている。その事実に、全身の力が抜けていく。だが、よく見ると春子の顔には血がついていた。
「大丈夫か!? 血が出てるぞ!」
そう言った直後、頬を伝うなにかを感じた桃山は、慌てて自分の額に手をやった。
べっとりと付着した赤い液体。自分の血だ。さっきの衝撃で頭皮が切れたらしい。軽い頭痛と共に、じわじわと傷口がズキズキし始める。だが、そんなことはどうでもよかった。春子の血ではなかった。ただそれだけで、心の底から安堵の波が押し寄せた。
「なんだ、俺の血か。本当に、良かった……!」
嗚咽が漏れる。春子を強く抱きしめる。失いかけていた温もりを確かめるように。
腕の中で、春子が再びしゃくりあげ始めた。咳き込みながら、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。
「ごめ……なさ……」
「大丈夫だ。何があったか、話せるか?」
春子はしばらくの間、ただ泣きじゃくるだけだった。桃山は何も言わず、ただ娘の背中をさすり続けた。やがて、少し落ち着きを取り戻した春子が、震える声で語り始めた。
「私の絵が、ネットに……」
言葉は途切れ途切れで、内容はすぐには掴めない。だが、その声に含まれた絶望と悲しみは痛いほど伝わってきた。
「『ピーチ画伯』ってまとめサイト。みんな、笑ってた、学校でも」
ネットでの中傷。学校での孤立。高校生の娘が抱えるには、あまりにも重すぎる現実だった。
春子の声が、さらに震えを増す。
「それだけじゃない。サイトに、『ゲームをするパパ』の絵があったの……!」
キャリア強化ルーム送りになったどさくさで紛失したと思っていた、大事な絵。一体どういう経路で、ネットの晒しサイトに流出したというのか。思い当たる人物は、沼田しかなかった。
(畜生、あの野郎……!)
「どうして? お父さん、どうしてそんなことするの?それに、『桃D』のコメントだって……!」
疑いの言葉。それは、春子がどれほど追い詰められ、誰をも信じられなくなっていたかを物語っていた。父親である自分さえも。
「コメントなんて、いくらでもなりすましできるだろう。絶対にそんなことはしない。春子を悲しませるようなことは、絶対に」
「じゃあどうしてあのサイトに、絵があるの!?」
「わからないんだ。前の会社で持っていったやつがいるとしか考えられない。あんな大事なものを机に置きっぱなしにしてた俺が悪かった……本当にすまなかった」
迂闊だったが、考えられる可能性はそれしかない。説明して深々と頭を下げると、春子は少し納得してくれたようにも見えた。
安心したからか、春子を安心させるためか。心からの春子への想いが、言葉が溢れてくる。
「なあ、聞いてくれ。春子は俺と母さんのたった一つの宝物なんだ。厳しいことも言うから、うるさいと思う事もあるかもしれない。もう高校生だ、俺にも言いづらいことだってあるだろう」
「……」
泣きながらも、真剣に聞いている様子が伝わってくる。
「でも、春子を思う気持ちはずっと変わらない」
あの春の日、病院でこの手に抱いたときから。
「だって、もうどうしたらいいか……! 学校にも行けない、誰も信じられないよ!」
「それでも、聞いてくれ……!いつか俺達がいなくなっても、自分でなんとかやっていけるように、幸せになってほしいんだ。そのためなら、父さんも母さんもなんだってする。それが親ってもんだ、春子もいつかわかる時がきっとくる。だから生きてくれ、 それだけでいいんだ」
思わず涙が溢れそうになる。
「どんなにゲームが売れても、会社で偉くなっても……。春子のいない、人生なんて、俺には耐えられない!」
声が震える。でも伝えたいことがある。
「だからお願いだ、失敗してもいい。学校だって休んだっていい、生きてさえいりゃどうにでもなる。だから、俺と母さんより、先に死なないでくれ。死ぬなら歳の順だ……!」
そう、耐えられない。守るべき人を失ったとして、それでも進み続ける空虚な人生。想像するだけで怖くなる。
必死な思いが伝わったのか、春子は「ごめんなさい……疑ったりして」と泣きながらもなんとか絞り出した。
「いいんだ。色々、気付けなくてすまなかった」
初めて春子をこの手に抱いたあの日から、きっと弱くなってしまった。失うことが怖くなった。
深く息を吸い込み、まだ震える手で春子の背中をさする。立ち上がろうとすると、視界が一瞬ぐらついた。まだ頭の奥がズキズキと痛む。今は春子のそばにいなければ。そう思った、その時。
「桃山さん!春子ちゃん!」
玄関から福田の声が響き、そのままドタドタと足音が近づいてくる。事前に部屋番号を教えていたとはいえ、本当に呼び鈴も押さずに押しかけるとは。
リビングに飛び込んできた福田は、倒れた健康器具と泣きじゃくる春子、そして額から血を垂らしている桃山を見て、一瞬息を呑んだ。血は顔の半分を赤く染めていた。しかし、すぐに状況を察したのか、ふらつきながらも真っ直ぐ春子に向かって駆け寄った。
「はろこちゃん、あのね、話をさせて!」
酔いが残っているのか呂律の回らない様子でそう言うと、福田は迷わず春子のそばに座り込んだ。
「えっ!?どうしてここに……」
SNSの投稿で知っているだろう、憧れの人物が何故か目の前にいる。春子は状況を理解できないままだ。
桃山はまだ痛む頭を抱えながら立ち上がり、状況が状況だからと福田に声をかける。
「ちょっと待ってくれ、今は春子も混乱してて――」
だが、福田は制止を聞かずに春子のそばに座り込んだ。
「春子ちゃん!会いたかった~!」
福田は返事も待たずに春子を抱きしめた。アルコールの匂いがわずかに漂う。
突然の抱擁に春子は戸惑い、体を強張らせた。こんな最悪の状態を他人に見られて、しかも抱きしめられている。でも、不思議と嫌ではなさそうだった。
仕方ない。純粋に善意からの行動だろうし、こうなっては止めるものでもない、悪いことにはならないだろうと、桃山は安静にしながら二人を見守ることにした。
「私ね、画伯のまとめサイト見て。ピンときたの。あれ春子ちゃんでしょ。いてもいられなくなって無理やり押しかけてきちゃった」
酔っているからか、いつもより声が大きい。でも、その分怒りも隠さない。
「許せないよね、ああいうの」
福田はそのまま春子を抱きしめたまま、自分の過去を語り始めた。
「辛かったね……。わかるよ、私も自分の趣味が変だって言われたり、笑われたりしたこと、いっぱいあったんだ」
福田は春子の背中を優しくさすりながら語り続ける。その声は、いつもの冗談めかした明るさとは違う、落ち着いた響きを持っていた。普段なら言わないようなことまで、酒の勢いか、純粋に助けたい一心なのか。次第に、春子の嗚咽が少しずつ小さくなっていく。
「私のやってることは、けして堂々と人に言えるようなものじゃない、そんなことはわかってるの」
「あのっ……そんなことは、ないと思います。文江先生の絵、私好きです」
春子も控えめながらも、確かに素直な気持ちを伝える。
「ありがとう。でも、わかるでしょう?子供に見せちゃいけないものだって多いから」
「それはっ、確かに、そうかもですけど!」
春子もそう言われては反論できず、焦っているようだ。
娘ももう高校生となれば、一体どこまで知っているのかを想像すると複雑な心境になった桃山だったが、それ以上考えないようにした。
「思い出すな、高校の頃。クラスでオタク趣味がバレないようにって、いつもキャラを作ってた。それなりにうまくやれてたと思う。でも、大切な人には私のことをよく知っていてほしい。そう思うのは自然でしょ?だから同人誌のこととか、BLのこと思わず話しちゃったりして。悲しいけど、それが原因で別れた人もいる。バカにしてきた人もいた。でもね」
福田は一旦言葉を切り、春子の目を見て、はっきりと告げた。
「好きなものは好きなんだから、しょうがないの」
きっぱりとした口調。そこには何の迷いもなかった。
「私は描き続ける。その間は、自分で居られるから。きっとそんな私だからこそ、わかってくれる人もいる。春子ちゃんのお父さんみたいに、ジュエルソフトウェアのみんなみたいにね」
福田はそう言うと、おもむろに自分のスマホを取り出した。慣れた手つきでアプリを操作し、何かの投稿を準備している。そして、その画面を春子に見せ、その後少し離れて座っている桃山にも見せた。
そこに表示されていたのは、今の彼女の美麗な絵柄からは想像もつかない、拙い子供の絵だった。
「見て。これ、私が昔描いた絵。お父さんが『これだけうまかったら、文江の将来は漫画家かな』って褒めてくれて。まだ小学生にもなっていない頃だけど、ずっと覚えてる」
顔なのかどうかも判別できないような線のかたまり。それが、年を追うごとに少しずつ人の形を成し、漫画のキャラクターのようになり、そして現在の画風へと繋がっていく。
「誰もが最初は初心者よ。どんなすごい人でも。だから、それを安全なところから笑うなんて、絶対に許さない」
福田の投稿には、怒りのメッセージが添えられていた。匿名で心ない言葉を浴びせる者たちへの、真っ直ぐな宣戦布告だった。
「だから、春子ちゃんも絶対に大丈夫!」
春子は、福田の力強い言葉に、ただ黙って涙を流していた。しかしその涙は先程までの絶望の色とは違う、温かいもののように桃山には感じられた。
「でも私には、文江先生みたいな才能は無いし、みんなに笑われて……」
友人に裏切られネットで叩かれ、自信を失った春子が弱音を吐く。
「才能、か」
どこか遠い目をした福田が、一呼吸空け、部屋に静寂が訪れる。どう伝えたらいいか、考えているのかもしれない。
「違うの春子ちゃん。仮に私に才能があったとして、認めてくれる人ばかりじゃない。むしろそれで妬まれたり憎まれることだってある。私にだって、どうやっても叶わないと思う人はいくらでもいる。大事なのは人との比較じゃない。私がただ描くことを楽しんで、日々進んでいること。そうやって進んできたから、今ここまでたどり着いた」
彼女がSNSに投稿した一連の画像が、まさに証明だった。
「でも、どうしたらいいの?先のことなんてわからないよ」
春子の問いに、福田は優しく、しかしきっぱりと言った。
「じゃあこうしよっか。今日から私が春子ちゃんのお姉ちゃんになってあげる」
「えっ?」
唐突な提案に春子が戸惑う。
「絵の描き方だけじゃない。ネットの使い方も、好きなことを貫く強さも、なんでも教えてあげる。だから、一人で抱え込まないで」
福田の申し出は、春子の固く閉ざされた心に、確かな光を灯したようだった。春子はゆっくりと顔を上げ、福田の目を見つめ返した。
「……うん、ありがとう」
小さく、しかし確かな頷きと感謝。
桃山は二人の間に生まれた温かい絆を、顔から滴る血が服を汚すのも構わず、ただ黙って見守っていた。
二人の静かな息遣いと、穏やかな会話が部屋に響く。数分前までの出来事とのあまりの落差に、自分の発言を思い出した桃山は恥ずかしさをごまかすように、そろそろ一区切りついたかと春子に声をかけた。
「まあ、そういうことだから心配するな。ちょっと顔洗ってくるから、その後病院行って診てもらおうな、念のため、な。春子もなんだったら着替えるか」
危機は去ったとはいえ、まだ頭からの出血も止まっていない。いつまでも部屋でこうしているわけにもいかない。
「そうだね、それより、お父さんも頭打ったからちゃんと診てもらわないと」
人を心配する余裕も出ているらしい、もういつもどおりの春子だ。
洗面所で顔を洗って血を流し、シャツを替え、タオルを傷口に当てる。
桃山は夜間救急を受けつけている病院に連絡し終わると、パート中の陽子にも電話で行き先を伝えた。
「春子、準備できたか?」
「うん」
「はいはい桃山さん、私も病院行きたいです!」
「遊びにいくんじゃないんだ。ここからはもう大丈夫だ、春子と話してくれて助かった」
「あの、お父さん、私もう少し文江先生と話したい」
控えめながらも春子がはっきりと主張する。
「そうか、春子がそう言うなら、まあついてきてくれても構わないが、家の方にはちゃんと連絡したのか?」
「やったー!」
どうやら後半は聞こえていないようである。
「旦那さん心配するじゃないのか?やれやれ、賑やかでいいことだな」
その後三人はタクシーに乗り込み、病院に向かった。
病院への道中で、桃山は助手席に座り、後ろの二人の会話を聞いていた。久しぶりに聞いた春子の心からの楽しそうな声。好きなものに夢中になって、打ち込んでいるときの声。目指すべき道が、見え始めている希望に満ちていた。
それを悪いことだと、恥ずべきことだと笑われる恐怖や痛みを受け入れながら、ときにはうまく躱しながら自分を保てるほどには、まだ大人ではないということなのだろう。だから、きっと自分にも父親としてまだできることがある、時には誰かの力も借りてもいい、やっていこう。そんなことを、まだ少し痛む頭をタオルで押さえながら考えていた。
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