不遡及の原則
「私は確かに法を犯しましたが、間違っているのは現行法であると考えています」
民主化運動のリーダーだった、その若い女性は、法廷で堂々とそう述べた。
彼女は政治デモを規制する法律に違反した容疑で刑事被告人として裁判の場に立たされていた。
「女神」……ここ10年で一気に軍事独裁国家と化していったこの国で民主化運動を率いていたその女性を外国のメディアはそう呼んでいた。
「つまり、貴方は『国は国民の表現の自由を保証するが、あくまで非政治的なものに限る』と云う憲法の規定が間違っていると言われるのですね?」
「その通りです」
検事の質問に彼女は、はっきりとそう答えた。
「では、貴方が違法デモで主張していた『後世の歴史家に裁かれるのは現政権である』と云う言説は修辞や比喩ではなく、本心からそう信じていた訳ですか?」
「当然です」
その答を聞いた時、検事の顔に、微かな笑みが浮かんだ。
「裁判長、検察は訴えを取下げます」
「えっ?」
驚いたのは被告と被告側弁護人だけで、裁判官達と傍聴席のメディア関係者は、この展開を知っていたかのように落ち着いていた。
「訴えの取下げの理由を述べて下さい」
「はい、被告は1990年代以降、我が国で常識と化した『今の規準で過去を裁いてはならない』と云う大原則を理解していないのは明らかです。この時代が、そして神聖なる現政権が、後世の規準からして……あくまで一兆分の一未満の確率では有りますが……悪と見做されたとしても、後世の日本人が、その時代の規準で、今の時代を裁くなど有り得ません。検察としては、被告は精神異常により責任能力は無く、被告に行なうべきは、処罰ではなく医学的な治療であると考えます」
「検察の訴え取下げを認めます。被告の入院先及び入院期間については規定通りに行なって下さい」
「ま……待って下さい……」
「民主化の女神」の叫びは、法廷内に虚しく響いた。
203X年以降、「民主化の女神」と呼ばれた、この女性の消息に関する記録は、一切残っていない。