いない人、手を挙げて
チャイム音が鳴り響いた。
唐突で、優しくなく、それでいて悪びれたところのないチャイムの音。チャイムという言葉が何を意味するのかすら誰も知らない今の世にあって、未だこの音が使われている。レトロ感が漂うどころか吹き荒れる。誰も困らないので変えようと思う者もいなかったのだろうか。おおかたの「伝統」と名の付くものはすべてこうして育つのだ。良いから残るのではない。どうでもいいから残るのだ。伝統とは怠惰を餌に育つ化け物につけた美名にすぎない。
「はい、チャイム鳴ったぞー。静かに静かに」
教室に入ってきた森秋子先生は、教卓について席を見回した。
久しぶりに話すクラスメートとの近況報告を楽しんでいた生徒たちはそれぞれ定位置に戻っていく。そして声を発するのをやめて静かになった。
「それじゃ出席取ろうかな。……えーと」
秋子先生は卓上で黒い表紙の出席簿を開こうとして途中で手を止め、顔を上げて教室を見回した。
「いない人、手挙げて」
私以外の全員の手が上がった。
秋子先生はそれを見て頷いた。
「大型連休の真ん中だもんな。こんな時期に登校日があるのが悪い。……いる人はゼロだな?」
私は仕方なく、短く言った。
「綿貫、います」
日焼けのない白い手を垂直に伸ばす。
「あ、すまんすまん。綿貫か……。どうした?」
どうしたと言われても困る。むしろどうもしていないからこそだ。私は手をおろし、首を振った。
「どうもしません。いちゃいけませんか」
「いや悪い訳じゃないよ。何も問題はない。じゃあいるのは綿貫だけだな?」
秋子先生は幸い私がいる理由を詮索したりはしなかった。いるのは私だけ……。あれ?
「先生もいないんですか?」
森秋子26歳はパタンと閉じた出席簿で首を叩きながら、頷いた。
「すまんなぁ。私も今日はいないんだ」
「デートですか?」
「いや一人だ」
「独りぼっちですか」
「うるさいな。お前も今日はここで独りぼっちだが、平気か?」
「平気ですよ別に。もう中学生ですよ」
私は肩をすくめる。夜の学校ならともかく。
森先生は頷いた。
「よし、じゃあ授業を始め……おい、佐々木、寝るなー」
ふと見ると、一番前の席にも関わらず、佐々木君が寝ていた。佐々木君は首の裏がえらく汚れている。おそらく数ヶ月洗ってないな……。汚いやつめ。
「あ……は、はい、寝てません」
佐々木君が覚醒状態を主張している。
「嘘をつけ。いくらいないからって、寝てていいことはないんだぞ」
「い、いえ……」
頭をぽりぽりとかく佐々木君。ああ、やめろやめろホコリが舞ってるじゃないか。何ヶ月ほったらかしだったんだよ。後ろの席の三宅ちゃんがせき込んでる。ってせき込む必要はないんだけど。いないんだから。
「……と思ったら今度は村井か。おい、起きろ村井」
窓際の村井君が机に突っ伏していた。いい度胸してるなあ。数秒して彼はがばっと顔をあげた。
「す、すみません起きてます」
「寝る気満々の体勢だったじゃないか。なんだ寝不足か?」
「は、はあちょっと時差ボケで」
村井君が言い訳をしている。
「時差ぁ?」
クラスがどっとわいた。使い古された古典的なギャグだ。
でも秋子先生が眉をつり上げている。
「どこ行ってるんだお前」
「え、ええと……その、ニュ、ニューベネ」
へー。ニューベネチア。いいなあ。
「家族でか?」
「ま、まあ、その、はい」
しどろもどろの村井君に、先生は笑って手を振った。
「別に責めてる訳じゃないんだ。ニューベネは遊ぶとこも多くて楽しいだろ。豪勢な旅行だなと思ってうらやましかっただけだよ。ま……いないのはいいが、出席するなら寝ないようにな」
「は、はい」
「よーし、じゃあ早速だが……って、おいまた寝てんのか佐々木ぃ!」
今度は秋子先生は怒鳴った。うわっ怒ってるなこれ。佐々木君はさっき起こされたばかりだというのにもう意識を失っているようだった。
「……あ、あ、はい、はい、お、起きてます」
「じゃあ顔をあげとけ! 突っ伏して起きてても起きてるとは認めない……って村井ぃ! だからお前も!」
今度は窓際の村井君が額を机に張り付けている。
がばっと顔を起こした村井君。だが同時に佐々木君がガンッと音をたてておでこを机上に墜落させた。
「…………んー?」
さすがに様子がおかしい。私もピンときた。ああ、やっちゃったな……これは。
先生は、つかつかと佐々木君の席に歩み寄った。
「お、お、起きてますがちょっと首の調子が悪くて」
佐々木君が顔を起こす。
先生は佐々木君から村井君へと目を向ける。
……案の定、村井君が突っ伏していた。
「佐々木?」
「は、はい……」
「お前、佐々木か?」
「う、は、はい……」
「じゃあ村井は欠席でいいな」
「え、いや、村井君も出席で」
先生は首を横に振った。
「代理出席はせめて他のクラスの奴に頼め。村井はどうした? 一緒にいるのか?」
佐々木…………くんはうなだれた。
「は、はい……すみません。い、いや今トイレ行ってるだけなんで」
「おい」
秋子先生が出席簿で佐々木君の机をバシンと叩いた。
「嘘をつくなら二人とも欠席にする。正直に言え。お前……村井だな?」
そう、この自信なさげな受け答えは村井君だ。
「はい……」
しおれる村井君。
「佐々木と一緒に旅行中か……? 親御さんは一緒か」
「は、はい。うち親も仲いいんで」
「佐々木は欠席か? 何してる」
「え、えっとその……今泳ぎに行ってます」
「お前をおいてか。薄情な奴だな」
「そうなんすよー。じゃんけんに負けちって俺」
じゃあ自業自得じゃないか。
先生は窓際で眠ったままの村井君……じゃなくて佐々木君……でもないか……に目を向けた。
「罰として二人とも休み明けに旅行の感想文を書いてこい。みんなの前で音読してもらうからな」
「え、先生、ぼ、僕もですか」
「当たり前だろ。共犯じゃないか。原稿用紙五枚は書いてこいよ」
先生はぐるりと皆を見渡した。
「疑似人体を使っての遠隔出席は、起きてることが前提だ。一日寝てるような奴は欠席扱いだからな。わかってると思うが、正当な理由の無い欠席は年間三日まで。それが進級の条件だ。まあ、長期休み中の登校日なんていう時代錯誤なものを設定しているのは教育庁がバカだからだ。無理して「ここにいろ」とまでは言わんけどな」
って先生、そこで私を見ないでください。私だって、好き好んでここにいる訳じゃない。できることなら旅行に行きたかった。あ~あ、こんなことならせめて、家から遠隔出席するんだった。
「それじゃ早速だが、事務連絡だ。今日は授業は無しだが、夏休みの諸注意があるからノートを取るように。まず……」
先生が話し始めたので私は慌てて目の前の端末を操作して、ノートをとる準備を始める。
「……あれ」
しかし机に半分埋まった端末の画面には、何も表示されない。ブラックアウト。電源部分に何度振れても、反応が無かった。
「あの、先生……。端末が反応しないんですけど」
私が声をあげると、先生は振り返ってから頭をかいた。
「そうか……忘れてた。今日は長期休み中だから事務員さんが来てないんだ。手動で電源上げとかないといけないんだった」
「え……まさかこの教室、今電源来てないんですか?」
「すまんすまん。今日は授業が無いから教室の設備使う必要ないから気づかなかったわ」
「う……」
そういうことか。今この教室で、この場にある端末を使ってノートを取る必要があるのは、私だけだってことだ。みんな旅行先で、遠隔操作しているこの各自そっくりのマネキン、「疑似人体」に搭載されたカメラやマイクを通じて教室の先生の話を聞いたり黒板を見たりしながら、ノートは手元の端末で取ることができる。代理登校用の疑似人体はバッテリーで動いてるから電源が落ちてても問題ないのだ。
やれやれ。
「どうする綿貫? 電源入れてきてもいいぞ」
酷い。教室の主電源は電源室まで行かないと入れられない。なのに電源室は三棟となり。坂と階段と入り組んだ廊下のせいで、冗談みたいな話だが本当に往復二十分くらいかかる。
つまり、超面倒くさいのだ。
「いいです……。紙とペン使います……」
もう今日は欠席にすればよかった、と私は思った。
*
いつにもまして居心地の悪いホームルームが終わり、宿題提出の時間になった。と言っても提出自体はオンラインだ。先生が提出状況を確認しながら、提出物が足りてない生徒には理由を聞く。
「わたちゃん、なんでいるのー?」
隣の席の田中佐緒里子が話しかけてきた。
「なによ、さおりこ。その言いぐさ。いちゃ悪い?」
「不健康だよー。引きこもってばかりいないで出かけなよ」
「引きこもってないでしょ。こうして学校に来てるじゃない」
「普段の活動範囲を出ないことが引きこもりの定義だってこないだテレビで言ってたよ。最後に街を出たのいつ?」
「……えっと、中学受験の時か。一年半前」
えーっと甲高い声をあげるさおりこ。私はため息をつく。
「ちょっとうるさい。私は今生身なんだからボリューム調整ついてないんだってば。……ていうかさ、いつも思うんだけど、行動範囲が広いほうが健康的だっていう考え方は偏見だと思う。無駄にあちこち移動することは危険も多いし環境にも優しくないし、時間も無駄になるし、良いことないよ」
「わたちゃん。多数派の偏見のことは、常識と言うのだよ?」
さおりこはちちちちちと虫みたいな音を鳴らしながら人差し指を高速に振ってみせた。こいつ……疑似人体を使いこなしやがって。
「でも所詮偏見でしょ。根拠のないイメージよ」
「はっはっはっ。この時代、発達しすぎた医療によって、既に健康という概念は実効的な意味を失っているのだよ。なればイメージこそ重要なり!」
さおりこは大げさに肩をすくめながら目を閉じて口をゆがめた。社会の谷垣先生の仕草だ。
「その口調やめてくんない?」
「えへへへへ」
さおりこ、たぶん自分で気づいてないけど谷垣先生のこと好きなんじゃないのかな。
「でもさ、わたちゃん。いつも同じ環境で生活してると考え方が狭くなるよ。それは確かでしょ?」
「あらそうかしら。想像力のない人間はどこへ行ったところで考え方は狭いままよ」
私はお姉ちゃんの口まねをしながら言った。といってもさおりこは会ったことがないので元ネタ不明。
「わたちゃん、論理的思考の評価悪いでしょー。それじゃ反論になってないべさ。AならばB、とBであってAでない、は同時に成立するのだよ?」
ちっ。さおりこめ。小癪な。
*
「おい、おい、新山。なにをうつらうつらしとるんだ。言ったよな先生、出席を認めるのは起きている場合だって」
新山くん(たしか、海上リゾート「小熊座」にいるとか言ってたな)が、さっきから意識を失いかけているのかかくん、かくんと頭を揺らしていたのを、先生が注意した。
「い、いえ先生、違うんです。なんか通信悪いみたいで……」
「通信?」
「ええ、切れそうなんです。通信が途絶えた場合って……やっぱり欠席扱いですか」
「そうだな……。とは言ってももう帰りの会の時間だから大目に見てやるけど。あ、だからって今すぐログアウトするのは無しな」
「そんなつもりは無……ですけど……せんせ……」
「おいおい、なんだ? 天気悪くなったか? 人工島は大変だな」
「すいません、先生、あたしもピンチです!」
でかい声をあげたのは、一番うしろの席のイガちゃん……井川恵美ちゃんだった。
「わ、わた……も! 電波悪いみた……」
台詞の途中でガクンと首をのけぞらせたので、谷川さんの周りの席の子がひっと息を飲んだ。
さらに橋本さんと辻さんが手をあげた。
「落ち着け落ち着け。なんだこっち側の問題か? ちょっと待て。学校のネットワークが不調っぽい……」
先生が中空を見ながら何かつぶやいている。きっと手元で学校近辺のネットワーク回線状況を確認してるんだろう。私もそうしたかったが、電源の入ってない机上の端末では何もできない。
「みんな大変そうだあ……」
私は他人事みたいにつぶやいた。
その瞬間。
糸の切れたマネキン……そう思った。実際にはマネキンほど大きいものが操り人形にされている場面など出くわしたことはないが、それを見た瞬間に「ああこれがあの糸の切れたマネキンというやつだ」と思った。
先生の肩や腕から力が失われ首ががくりと前に倒れる。そのままゆっくりと教卓の後ろの椅子に腰掛けた。ズッと椅子が床との摩擦音を立てる。
まわりを見ると、クラスメートたちも全員頭を垂れていた。元々寝た姿勢だった佐々木君(の疑似人体)だけは机に突っ伏した姿勢だが他の子は皆頭を垂れているのみだ。
通信が切れたのだ。制御を失った疑似人体は、いきなり倒れて物を壊したり他人に危害を加えたりしないように、ゆっくりとその場で安定姿勢を取る機構を持っている。立っていた先生は椅子に座り、椅子に座っていた生徒たちはそのままの姿勢でうつむいていた。
教室は沈黙に包まれた。
私だけが、その光景を見ている。
「通信切れたのか……学校側の障害かな?」
私は、隣のさおりこの後頭部を撫でる。反応はない。慌ててその髪の生え際の下側、うなじにあるコネクタを開く。それから、さおりこの机の横からケーブルを引っ張りだして、そのコネクタにつなぐ。非常時用通信ケーブル。
「あ、ダメだ。電源も来てないんだ」
自分のバカさ加減に腹が立つ。
ため息をついて教室を見渡す。私以外、誰も「いない」教室。
「しょうがないな……。今日はもう帰ろ」
公的ネットワークの障害は、お役所仕事ということなのか復旧に最低でも2時間はかかる。さすがに待っていられない。
どうせ、もう帰りの会だったのだ。わざわざ電源を上げにいくほどのことでもない。
私は帰ることにした。
……。と、その前に。
「ふっふーん」
せっかくだから、クラスメートたちにいたずらしてから帰ることにした。
「まずはさおりこ」
さおりこ(の疑似人体)の顎に手をかけて、顔を上げさせる。すると重力に負けることなくさおりこは顔をあげた姿勢を取った。背筋を伸ばさせるとそのままの姿勢で。
通信の切れた疑似人体は、安全性を重視して、姿勢保持機構を持っている。変な姿勢で停止してしまうと邪魔な場合もあるし、物を握ったままでは困る場合もある。そんな時、外からそれほど強くない力で関節を曲げさせたり、さらにその姿勢を維持させたりすることができるのだ。
「さおりこには……反省してもらおうかな」
私はさおりこの体を立ち上がらせると、おじぎをさせ、右手を伸ばさせる。そして手が私の肩の位置にくるように調整。
カシャ。
個人端末の画面で撮影した画像を確認。
私が腕を組んでいる前でさおりこは頭を垂れ、その右手を私の肩に置いている。猿の反省の格好だ。……やっている途中で、これが人間の反省のポーズとして妥当なのか疑問がよぎったが、気にしないことにしておく。
「次は先生……」
カシャ。
先生には、私の頭をヨシヨシと撫でているポーズをとってもらった。それが本当に私のやってもらいたいことなのかと途中でやはり疑問が湧いたが、他に思いつかなかったのだ。
「じゃあ井川さんと大木君で……」
カシャ。
剣道部で長身の大木君に、小柄な井川さんを抱き抱えさせてみた。お姫様だっこ、という奴だ。
「うわぁ、はまりすぎ」
大木君はまったく重そうな様子もない。二人は見つめあっている。現実にはつきあっている訳ではないが、私の中ではベストカップルの二人なのだ。
やってみると意外に楽しかったので、つい私は調子にのっていた。土下座する中島くんと仁王立ちの佐々木さんで「浮気のばれた亭主」をやってみたり、適当な二人を向かい合わせて見つめあわせては雰囲気作ってツーショット写真を撮ってみたりする。稲垣さんと三井くん、味松くんと音無さん、佐々木と村井もギャグで。
こんな写真を撮ったりして、別に後で脅しに使おうとか思った訳じゃない。ただ私はなんというか、「この人とこの人お似合いだなー」とか考えるのが好きな人なのだ。そうだとも。とても残念な女なのだ。笑いたまえ清めたまえ。
「さて、いい加減にしとかないと……通信復旧したら大変だし」
私は小堀くんと熊沢さんの、作品名「亭主関白」を元に戻す。
「……」
ふと、今まで手を触れなかった生徒に目を向ける。なんて空々しい。あえて手を触れなかったのだし、あえて目に入れないよう意識していたのだ。
「森川くん……」
教室の最高列窓際。その席には森川幸司君が座っている。うつむいた姿勢で手を膝に置いている。姿勢保持機構の取らせた体勢。
「んー、これはヤバイかもしれん……」
森川くんの正面に立つ。そして机に肘をついて、森川くんの顔をしげしげと見つめてみる。惜しい。目を閉じている。顔の角度はうつむきすぎてなくて、ちょうどいいのに。目を開けてくれれば見つめあえるのに。
「やばい。好きすぎる……」
私は自分の顔がにやけていることを悟って顔を引き締める。まわりを見渡す。誰も見てない。
「ちょっとだけなら、い、いいかな」
そう同意を求めるが、当然彼は反応しない。なぜならこれは彼そっくりの疑似人体であって、本人はここには「いない」からだ。彼はどこか遠くにいる。
「知らないよね、私ずっと森川くん好きだったんだよ」
……それは誰も知らないだろう。私も二ヶ月前までは知らなかった。さおりこにも言ってない。まして森川君とは……ほとんど話したこともないままだ。
「あ、まつげ長い……。こんなとこまで再現されてるのか……すごいなぁ」
閉じた目。閉じた唇。
すらりと伸びた鼻。血色のいい唇。
髪が少しかかった耳。ほくろが隣にある唇。
唇。
唇。唇。
唇。唇。唇。
やばい、と思った時にはもう遅かった。やってしまっていた。私は彼の唇に自分の唇を重ね合わせていた。
そして。
「え……」
ビクッて。ビクッてなったのだ。森川くんが。その瞬間に。
目を開いた。大きく見開いている。怒っているのか怖がっているのかわからない表情で……私を見つめていた。
え?
何?
どういうこと?
私の思考が停止する。
「わ、わた……」
ようやく、森川君が何か言いかけたのは、たっぷり三十秒は経ってからだった。
私はいきなり森川君の後頭部に手を回した。森川君がびっくりして私の手を払いのける。
「やっぱり」
私の手は確かに、その事実を認識していた。森川君の後頭部にコネクタハッチが無い。
つまり……。
「森川君、いたの?」
そう、森川君は、私と同じように、ここに。この教室に、「いた」のだ。
疑似人体じゃ、なかった。
私は泣いていた。
全部見られていた。この教室が通信不能になってから、私がクラスメート達の疑似人体を使って遊んでいたのを。「ずっと見てたの?」
「ま、待ってくれ。泣くことはない」
意味がわからない。
「見てたの? 最低」
最低なのは誰だ。私だ。でも森川君も最低だ。
「なんで、いない、なんて嘘ついたの?」
「見栄をはったんだ。友達にも旅行行くって言ってしまってたし、中止になったって言いたくなかった。嘘をついた」
「なんで?」
「旅行が中止になったのは弟が体調を崩したからだ。弟はそれを気に病んでいたから、学校では旅行に行ったことにしようなって言い含めた」
「わ……ば……ま……」
言葉にならない。私は涙をぬぐった。
「で……なんで黙ってたの、今。今、私に。それは弟のためじゃないじゃん」
「君にもバらす必要はないと思っただけだ。君はすぐ帰ると思っていた。それまで疑似人体のふりをしてやり過ごそうとしたんだ」
「なのに私がバカなことを始めたから困っちゃったって訳ね。でもさすがにさ……途中で止めるべきだったんじゃないの? ねえ、私みんなに酷いことしてたんだよ?」
もう自分でも何を言ってるのかわからない。泣きながら彼を責めていた。
「違う。綿貫さんのやってたことはそんなに酷いことだとは僕は思わない。ポーズを取らせたりしただけで……大したことじゃない。所詮は疑似人体へのことだ。傷つけた訳でもない」
「写真撮ったよ?」
「その写真は僕が消去する」
いきなり森川君は私の端末をひったくった。私はそれを止めることもできずに泣きじゃくっていた。
「その後やってたツーショット写真だって、たわいもないものじゃないか。服を脱がせたりとか抱き合わせたりとかした訳でもない。大木と井川さんのお姫様だっこくらいだろ……。別に問題ないさ」
「ていうかほんとに全部見てたんだ。なんだ、森川くんってムッツリスケベなんだね」
「君に言われたくはないね」
森川君が……気に入らなかった。なんで、そうまっすぐな目で、挑戦的な目で、私を見るの? 見られるの?
顔を赤くすることもなく。視線を泳がせることもなく。何の動揺を示すこともなく。
キス、したんだよ? 私が。それを……何とも思っていないってこと?
「正直言うと、綿貫さんじゃなかったら、たぶん途中で立ち上がって止めてたかもしれない。大笑いしながらね」
そう、森川君が言った。
「でも、綿貫さんだったから。そうする訳にいかなかったんだ。かといって、本当にしゃれにならないことを始めたら止めなくてはならないと思った。だから見てたんだよ」
「は。意味わかんない。なんで私だったら止められないわけ? そこまで仲良くないから? 気まずいから?」
「気まずいからだ」
そりゃ悪うございました。
私は反射的に彼を叩いてしまっていた。頬を。
「……痛い」
私も痛かった。
泣き崩れる。
彼が痛い。
私もだ。
泣く。
涙。
。
指。
彼の。
親指が。
私の頬を。
伝う涙滴を。
なぞるように。
優しく、拭った。
「綿貫さんとは気まずくなりたくなかったんだよ。綿貫さんとだけは」
「……」
「綿貫さんが近寄ってきた時はどうしようかと思ったんだ。何かおもしろいポーズを取らされるだけであれば耐えようと思った。でもあろうことか……キスとは思わなかった。目を閉じていたし、さすがに動かずにいるのは無理だったよ」
今気がついた。彼の顔は真っ赤だった。
……まちがいなく、私も。
「……ごめん」
「いいよ。……悪くなかったし」
何言ってんの、もう。
私は吹き出す。
「怒ってない?」
「何が?」
「キスしたこと。怒ってない?」
「もう一回したら怒らないと思う」
それから私たちはちょっとだけ見つめ合って、もう一回キスをして、二人で手をつないで下校した。