5.
エルの部屋は3階の突き当りにある、夫である第4王子、マイク=ベネットの部屋の隣に位置している。彼らの部屋に限らず、王家にかかわる人間の部屋までたどり着くまでにとても時間がかかる。それは不審者が王家のもののところまで侵入するまでの時間を稼ぐためである。
実際に城に足を踏み入れてからエルの部屋に着くまで、門番達のような成人男性でさえ10分以上はかかる。彼らよりもだいぶ背の低いルナならなおさら長い時間歩き続けなければならない。
ちなみに1階から2階まで行くための階段と、2階から3階まで行くための階段はつながってない。これも時間稼ぎの一環なのだ、と以前城を訪れた際に青年がルナに教えてくれた。いつもは案内役に気を使わせまいと必死で足を動かしていたルナの歩調に合わせゆっくりと歩きながら。
ルナは青年の言葉を思い出しながら3階に続く階段のある場所に向かって歩く。確か3階に上がるための階段はこの角を曲がったところにあるはずだ。もう少しでお姉様の部屋にたどり着ける、とそう思った時だった。
いつもならこの時間は誰も居ないはずの奥の方、ちょうどルナが目指していた階段のあたりから聞きなれない男の声が聞こえた。
「…………す」
盗み聞きなんてはしたない。そう思ってこの場を去ろうとしても、今までルナの歩いてきた廊下はずっと直線の続く道。ルナがこの道に入ってからすでに結構な時間が経過している。男の話声が聞こえないところまで引き返すのは少し難しかった。それにこの廊下は反響を邪魔するようなものはほとんどない。そのせいか男の声ははっきりと彼女の耳に声が響いた。
「ルーカス様、この前の夜会でご令嬢方に言い寄られていたらしいですよ。結婚しても全く減らないどころか増えているんですからさすがですよね」
「まあ、相手が氷の姫なら勝ち目はなくとも死に神なら勝てると思ったんでしょう」
氷の姫? 死に神? なんのこと?
男達の言葉にルナの頭ではいくつものハテナマークが浮かび上がる。盗み聞くつもりはなかったルナの耳には自然とその続きの会話も入ってきてしまう。
「氷の姫は言葉こそきついがマイク様が見惚れるほどの美女。それに引き換え、死に神なんて気持ちが悪いだけじゃないですか。あの銀色の髪に銀色の目。なんでも見た者の魂を抜き取るのだとか……」
「ああ、おっかない。いくらあの氷の姫の妹とはいえあんなやつで妥協することなんかなかっただろうに」
「噂ではランドール家の前当主との約束があったから仕方なく結婚したのだとか……。それさえなければ今頃他のご令嬢と結婚されているでしょうね」
「だからって死に神なんかを……な」
「一度結婚したのですから離縁してしまえばいいのに」
「あの方はお優しいからできないのだろう」
「ああ」
銀色の髪――それはルナの自慢の髪。
ルナは見慣れた自分の髪を一房とってみた。長く腰まで垂れる髪はルナが支えることをやめれば重力に逆らうことなく手からするりと落ちて行った。
銀色の目――それはルナの自慢の瞳。
鏡を通さなければ自分で見ることはできない。けれども、それはルナが人に自慢できるもの。
髪の色も目の色もエルやカーティス、そして父のグレンとさえ違う色を持つルナが『みんなと同じ色がいい』と泣いていた時にグレンはそっとルナを抱き寄せて教えてくれた。
「この髪の色も目の色もお前の母様と同じ色なのだ。だから泣くことなんてない」――と。
幼いころに母を亡くしたルナは母の面影すら覚えてはいなかった。それでも『母様と同じ色』というグレンの言葉に胸のあたりが温かくなったことを今でも覚えていた。
ルナにとって銀色の瞳も髪も母からもらった大切な宝物である。例え姉のように綺麗でなくとも、兄のように賢くなくとも、それが、それだけが彼女の自慢だった。
ルナは長い間ずっと兄や姉とは違うことに悩んでいた。
『家族』と胸を張れるものなど一つもないのだと。
『家族』の中で唯一違う容姿はルナの不安を増長させていた。だからこそ嬉しくなった。母と同じ色を持つ、ということが。自分も家族の一員であることが認められているようで。そんな『家族の証』ですら他人から蔑まれる要因で、ルナはやはり姉や兄とは違うのだと思い知らされた。
もしもあの時、ルナが結婚を申し出なければ顔の見えない男たちの言うようにルーカスはエルでも、ルナでもない、他の令嬢と婚姻を結んだのだろうか。
あの時、自分が彼を縛り付けてさえいなければ……。
ルナは目の前景色が段々と色が褪せていくような気がしてならなかった。
あの時自分の気持ちしか考えていなかった。全てはうまくいかないと思い込んでいたから。だからあんなたいそうなことが言えたのだ。だがそれのせいでルーカスの他の令嬢と結ばれるはずの未来を奪ったのだ――と。
それはあくまであったかもしれないという可能性の話で、ルナがあの時行動を起こさずともルーカスが彼女を諦めることはなかっただろう。だがルナはそのことを知らないのだ。なにせルーカスは愛おしくてたまらない妻に何も伝えられていないのだから。
だからルナは1年前の己の行動を責める。
ルーカスに、姉に迷惑をかけてしまった……と。崖から突き落とされたような、すがっていたはずの糸を切られたような、そんな気分に陥る。そして一度沈んだ気持ちは底へ底へと向かっていく。
ルナはこの場所に、エルとルーカスのいるこの城の敷地内に立っていることすら申し訳なくなった。そしてもしかしたらお姉様は私のことを避けているのかもしれないとさえ思うようになった。
そしてその原因は自分が邪魔な存在で、気持ちの悪い存在だからと結論づけるのだ。
もしもこの場にエルがいたのならば、彼女はすぐに愛する妹を胸に抱きかかえて愛しているわと何度も繰り返すことだろう。そんなこと、普段のルナならすぐに思い至るはずなのだ。けれどルナにはもうエルが自分のことを避けているのだとしか考えられなくなっていた。
それはルナが普段からエルへ劣等感を、そして罪悪感を抱いているからだった。
(お姉様は結婚して王家の方となったのに。私とはもう身分が違うのに今までのように接してしまったのは迷惑だったのかもしれない。)
ルナは言い訳じみた結論を頭の中で繰り返して踵を返す。相変わらず彼女の耳には男たちの会話が入ってきていたがもう理解するだけの頭が回らなかった。ただルナの頭には『この場を去る』という無意識の中で出した命令しか届かなかった。
ルナが床を見つめながら数歩歩くと、ルナのほうへと歩いてきていた一人の男性とぶつかってしまった。その衝撃からルナははっとなり、前を向いた。
「ご、ごめんなさい」
「いえいえ。ってルナ?」
「お兄様!?」
急いで謝ると上から落ちてきた声は兄、カーティスのものだった。その声に安心したのもつかの間、今までは届かなかったルナの耳に先ほどから絶えず続く男たちの会話が流れ込んできた。そして兄にも彼らの話が聞こえてしまっているかもしれないという恐怖が彼女を襲った。
「えっと、あの……」
ルナはカーティスの意識を何とかそらすために必死で言葉を紡ごうとした。けれどこんな時に限って、何を話せばいいのか全く頭に浮かんではこなかった。それでもカーティスには男たちの話を聞いてほしくはなかった。自分が悪く言われているのを聞いて、ランドール家が侮辱されていると思ってほしくはなかった。嫌わないでほしかった。彼には、彼にだけは嫌われたくなかった。
(ルーカス様やお姉様に嫌われているかもしれないのに、お兄様にも嫌われてしまったら私は……。)
ルナは目の前の大きな存在に縋りたいのだ。そうでなければ自分は壊れてしまいそうな気さえした。
「ルナ、今帰り? もしよかったら俺の馬車に乗っていかないか?」
「え……、はい」
ルナは少し迷って頷いた。エルのもとに行くつもりだった彼女だが、あんな話を聞いた後にエルのもとに行く勇気はなかった。もし拒絶されたらと思うと臆病な足はすくんでしまって、前に進むことなんて出来なかったのだ。
臆病者だと言われても、ルナは先ほどまでの目的地に背を向けて、カーティスの手にひかれながら歩いてきた道を戻るのだった。
そして気付けばランドール家の馬車の中にいた。自分がいつの間にあの長い道を歩いたのかなんて全く覚えてもいなかった。覚えているのは恐る恐るつかんだ手が強く握り返してくれたこと。ただそれだけだった。
「ルナ、その美味しそうな香りのするものは何?」
カーティスはずっと足元を見つめているルナの手を指さした。正確にはルナが大事そうに持っている、エルに食べてもらうはずだったタルトの入った籠を。
「えっと……」
何といえばいいのか。エルに渡せなかったもの、なんて言えるはずもなく代わりの言葉を考える。するとカーティスは籠の取っ手にぴったりとくっついたルナの指を丁寧に外し、籠を膝の上に乗せ、蓋を開いた。
「タルトだね。中身は?」
「チェリーです」
「お土産にもらったの?」
「いえ……」
「……そっか。もしかしてルナの手作り? もらってもいい?」
「ええ、もちろんですわ」
カーティスにはそれがエルに渡すはずだったものだということはバレていることだろう。そしてきっと先ほどの話だってキッチリと耳に入っている。それでも彼は何も言わずに籠からタルトを取り出してくれた。そして籠の中にフォークやナイフがないことを確認してまん丸いタルトにかぶりついた。籠の中にはボロボロと食べかすが落ちて行った。
それをただルナは眺めていた。
カーティスが全てを胃の中にしまい込むまでずっと。タルトが小さくなる度に兄の優しさを感じ、少しずつ安心してくるような気がしていたのだ。
その後のことをルナはあまり良く覚えていない。カーティスが家まで送っていってくれたのだろう。気付けばルナは自分の部屋にいた。
衣服をしまうための真っ白なクローゼット。睡眠をとるための、天井にはレースのあしらわれている、ルナ1人が寝るには大きすぎるベッド。そして身だしなみを整えるための白く縁どられた大きな鏡。ルナの部屋には必要なもの以外何もない。ほとんど色のないこの部屋で、色を持つのはエルからの贈り物ばかり。鏡台にしまってあるアクセサリーケースの中をうめる色も、クローゼットの中をうめるのも全部エルからの贈り物。
ルナの耳に光るイヤリングでさえもグレンからの贈り物に過ぎない。
自分の部屋を見回して、エルは自分の物には色がないことに気がついた。いつも過ごしている部屋なのに、自分で選んだもので埋め尽くされているはずのこの空間が何故かむなしくなってしまう。そして何もないこの部屋は自身を表しているような気がして、気がつけば瞳には涙が溜まっていた。けれどその涙はつうっと一筋だけ流れて、後は全て行き場を見つけられぬまま乾いてしまった。
ルナは今日もいつも通りにルーカスを出迎えて、食事を共にして、そしていつも通りの時間に部屋に戻ってくる。
この何もない部屋に。
ルーカスと一緒にいるときは満たされているような気分になれた。しかし、部屋に戻るとそうでないことをまざまざと見せつけられているような気がした。
自分は姉の代替品。
ルーカス様の望んでいる人ではないのだ――と。