☆6.ルーカスside
今日ルーカスに割り振られていた仕事は昼にはすでに終わっていた。残りの仕事なら他の文官たちでも滞りなく進めることが出来るはずだ。さて、帰るか。腰を上げたとたん、座れといったように来客を表すドアの叩く音ががらんどうの宰相室に響いた。ルーカスは仕方なく腰を掛けてドアに向かって「どうぞ」と声をかける。
すると来客は初等教育を受けるために必要な数冊の教本と同じくらいの厚さの書類を持った文官だった。朝、宰相室に入ってから一度も席を外していないことを知っている文官は申し訳なさそうに一礼し「すみません、ルーカス様。これもよろしくお願いします」と空っぽになった未処理の書類を入れるケースにすっぽりとその紙の束を入れた。
ふざけるな、と喉まで出かかった怒声を腹の奥へとしまい込み、これも仕事だと山の一番上に乗った書類の提出期限に目を通す。
そこには何も書かれてはいなかったが、代わりによく見える位置には綺麗に四角形に切り取られた黄色い色をした紙があった。その紙はかすかに塗ってあるノリを頼りに書類に引っ付きながら、赤字で大きく書かれた『至急』という二文字の言葉を主張する。これを無視して帰れるほどにルーカスは冷たい人間ではない。しぶしぶ先ほど築き上げられたばかりの山に手を伸ばし、少しずつ崩していく。
やっと半分までなくなったころ、先ほどの文官は「休憩でも……」とカップにコーヒーを注ぎ持ってくる。ルーカスはそれをありがたく飲みながら、これが今日二度目の水分補給だということを思い出した。一度目はあの、中身のよくわからない液体。日が変わってからまともな飲み物を口にしたのは目の前のコーヒーが初めてだ。
人間の体内の多くは水分でできている――そんなこと分かりきっているはずで、昔から水分補給を怠ったことなかった自分が、誰かに出されるまで水分を取ることすら忘れていたなんて……。自分が思っていた以上にダメージが大きかったことがわかる。手に入っただけで満足していたはずなのに、自分の手の届く場所にいなければこんなにも心を乱す。ルナのことを頭に浮かべ、再開するかと半分ほど残った中身を飲み干し、カップを下げる。中身はまだ少し熱く、一気に飲むには少しつらかったが今のルーカスにはそれがちょうどいい温度だった。
くっきりと跡の残った椅子に再び腰をかけ、残っている山に手を伸ばす。これならきっともうあと1刻もすれば終わることだろう。ルーカスが前任の宰相からもらったお気に入りの万年筆に手を伸ばした時、ルーカスの耳には音が入ってきた。
トントントン――今、ルーカスが一番聞きたくないドアを叩く音。それでも言わなければならない。ルーカスは「どうぞ」と入室を許可する一言を何とか腹の奥底から絞り出す。その声に促され「失礼します」と入ってきた文官の手には先ほどの比でもない、文官の胸のあたりから目の前をふさぐかふさがないかぐらいの高さのある書類が抱えられていた。
文官はルーカスの目を見ることはない。だがはっきりと告げる。
「できれば本日中に……」
「……ああ」
そしてルーカスの吐き捨てたような声に、猫に見つかってしまったネズミのように恐れをなして逃げるように去っていった。それを見送ってから仕方なしにその山を何も言わずに崩していった。途中で処理済みの書類を回収していく文官にねぎらいの言葉一つかけることはなく、ただ黙々とこなしていく。
宰相室に聞こえるのはごくまれに開くドアの音、そして途切れることはない万年筆の紙の上を走る音だけ。
それが途切れたのは、いつも通りの時間――毎日、規則正しく生活をするルーカスが席を立つ時間だった。
カチコチといつも通りに時間を刻み続ける置時計に、時間は守るべきだといつも使用人や部下たちに言い聞かせているつけがこんな時に回ってきたのかと苦笑いを向ける。きっと帰ってきているだろうルナの顔を早く見たい、その思いを胸にへとへとになった身体に何とか鞭を打った。
「今帰った」
「おかえりなさい、坊ちゃん」
そんなへとへとになったルーカスを出迎えたのはルナの可愛い声ではなく、昔から嫌というほど聞いているシンラの低い声だった。
「……ルナは?」
「まだおかえりになられてませんよ、って落ち込まないでくださいよ」
もう何も発したくはないと訴えている腹に力を入れて紡いだ言葉は、シンラの言葉によっていとも簡単に否定された。
「……なぜだ?」
「俺に聞かれましても……」
「迎えに行く」
「ランドール家に迷惑が掛かりますので、おやめください」
「妻を迎えに行くのに迷惑も何もないだろう!」
「いつもルナ様と業務連絡みたいな会話しかしない坊ちゃんが? 妻を迎えに行くだなんてよく言えますね」
「なんだと?」
幼い時から一緒に育ったシンラが他の使用人よりも若干口が悪いのはいつものことだが、こればかりは聞き捨てならない。ルーカスは平然と目の前に立つシンラの整った首元のスカーフをつかんだ。それでもシンラは顔色一つ変えることはなく、何でもないことを告げるように口を開いた。
「俺は坊ちゃんの使用人ですよ? でも今はルナ様のお世話をしています。あなたよりも長い時間、ルナ様を見ているんです。一人でずっと寂しそうにしているルナ様を」
「うっ」
図星だった。何もルナが寂しそうにしているのを知らなかったわけではない。それでも彼女はあくまで姉の代わりにここにいるのだと、何もしなかったのは自分だ。
「外出するときはいつもそれはそれは楽しそうで。昨日でかけるときは本当にお兄様であるカーティス様のことを心配されていました。そんなルナ様を迎えに行く? ふざけないでください」
「そんなこと……」
ないとは言えなかった。定期的に行われるお茶会があるときは、前日からそわそわしていたのを見ていたからだ。今回だって、本当にカーティスのことを心配しているのだと一目でわかった。わかったから、外出を許可したのだ。
「ルナ様はそのうち帰ってきます。それまで大人しく待っていてください」
シンラのナイフの先よりもとがった視線はえぐるようにルーカスの胸を傷つけた。その言葉に少しでも抵抗しようとしても出てくる言葉なんて片手の指の本数よりも少ない。
「でも……」
出てきた言葉は自分を心配する言葉。もしもルナが帰ってこなかったら、俺はどうすればいいのか……なんてすべてを吐き出す前に消えて行ってしまった。
「でも、じゃないです。いいですね?」
「ああ」
結局はシンラの威圧に負けてただうなずくことしかできなかった。
「坊ちゃん、起きてください」
昨日に引き続き、今日もルーカスを起こすのはシンラだ。無理矢理に目を閉じてベッドに寝てはいるものの全く疲れが取れていない。
なにせ今日は待ちに待ったルナの誕生日。だというのに、ルーカスの元にはルナはいない。彼女は自分を選んではくれなかったのだという事実だけが突き刺さる。
今すぐにでも、ルナの元へ行きたい。そうは思っていても、昨日シンラに言われた言葉が胸に刺さって行動に起こせないでいる。
「はあ」
重い足取りで宰相室につく。するとルーカスの目の前にはいつも以上に山積みにされた書類があった。休んでいた分の書類は昨日すべて処理したはずだ。なのに……なんなんだ、この量は!
「失礼します」
「なんだ?」
「書類をお持ちしました」
今、目の前にあるだけでも結構な量があるというのにまだあるのか!?
書類の量が多いと嘆いたところで減るわけでもない。仕方ないと席に着いた途端に、先ほどとは違う文官がまた追加の書類を持ってきた。そしてルーカスの目の前は真っ白になった。
例えなんかではなく、事実だ。どこを見ても書類、書類、書類。あまりの多さに目をそらしてもそらした先も書類。紙の白さがルーカスの視界を遮り、他の色など見せてはくれない。嫌になるが、もしかしたら今日こそはルナが帰ってくるかもしれない。そう思うとやる気が出てきた。
――が、終わらない。一向に終わる気配が見えてこない。理由は簡単だ。終わったら終わった分と同じだけの書類がやってくるのだ。
内容はどれも災害について。
昨晩からいろんな地域で大雨が続いているらしく、かわるがわるに被害地域の書類が回ってくる。
あまりの多さに文官の手でも借りようかとも思ったが、あいにく文官たちも書類の仕分けや整理、こまごまとした処理で忙しいようだ。
今日は定時に帰れそうもない。
この山が終わったら、シンラに連絡するか。そう思い新しい書類の山の一番上の書類を手に取った。
するとそこにはカザール地方の橋が落ちたとの報告が書かれていた。カザール地方といえばクロード家からランドール家に行くために通る橋だ。あの橋は木でできているのだ。以前、ランドール家にあいさつに行く際に一緒に馬車に乗っていたエルが教えてくれた。エルが幼いころからあったというその古い橋は、今回の大雨で落ちてしまったのであろう。
ルナは無事だろうか。いてもたってもいられなくなってルーカスは書類の山をあさった。橋が落ちたという報告があったのならば、ランドール領の報告もあるのではないかと思ったからだ。
なければないでいい。あるかもわからない報告を探すルーカスを、せわしなく歩き回る文官たちは誰も気に留めることはなかった。
「あった」
山の真ん中あたりに、やっとランドール領の報告書を見つけた。枚数は少ないながら、端的でどの報告書よりも見やすいそれには――昨晩から降り続く雨で土砂崩れが起きている。幸いけが人は出なかったものの復旧作業に追われている――という内容が書かれていた。
いくら古いとはいえ橋が落ちたとなるときっとカザール地域の雨の被害は大きかったのであろう。これではルナが帰ってこられないのは仕方がない。災害ならば……。寂しくはあるが、ルナの安全が第一だ。ルーカスは何度も自分に言い聞かせるように頭の中で繰り返しながら、またすぐに築かれるであろう山のために今ある山を崩すことに専念した。




