1.
「それじゃあ行ってくる」
「いってらっしゃいませ、ルーカス様」
カバンを手渡し、そして深々と頭を下げる女とそれを当然のように受け取る男。二人はれっきとした夫婦である。
とある国ではそれは立派な夫婦の形として認められることもあったが、この国では違った。夫を見送ることはあっても、妻が夫の荷物を持つことなどない。特に彼らのような貴族であるならなおのことだ。なぜならそれは使用人の仕事だからだ。そんなことを、使用人の代わりにやらせるとはなんとも不思議な光景である。実際、この家の使用人達もそれを止めようと思ったことは一度や二度のことではない。けれどそれを実行することは出来なかった。
なぜならその行動はこの屋敷の当主であるルーカスが決めたことだからだ。
ルーカス=クロードとルナ=クロードはれっきとした夫婦ではある。だがこの光景を見ればわかる通り、他の夫婦とは少し違った。
夫婦であるはずの彼らはそれぞれが別の寝室を使っている。ルナとルーカスが同じベッドで寝たことは一度もない。それどころかルナがルーカスの寝室に足を踏み入れたことは一度もなかった。
初夜の日ですら、ルナはルーカスの部屋から少し離れた位置にある与えられた自室で朝になるのをベッドで一人待ちながら、窓からこぼれてくる光を感じていた。翌日の朝、ルーカスのいつも通りの筋肉が凝り固まった、頬の筋肉さえも動かない顔を見て使用人たちは何もなかったのだということを理解した。ルナの顔もルーカスと同じように、とはいかなくても固まっていて。そんな二人を使用人たちは何も言えずただ見ていることしかできなかったのだ。
ルナは毎日決まった時刻になるとルーカスの部屋の戸を叩く。毎日きっかり同じ時間、時計の針が180度開いた時に起こしにくるように夫であるルーカスから言われているからだ。ルナはルーカスの指示に従い、指定された時刻の数分前に部屋の前に待機し、言われた通りの時間になったときに戸を叩くようにしている。
「おはようございます」
ルナはドアを三回叩いた後に朝の挨拶をする。すると、すぐに「ああ」という声が部屋の中から聞こえてくる。そしてしばらくしてルーカスは部屋から出てくる。わずか数分にも満たない間に。そう、ルーカスはルナが起こしに行くころにはすでに起きていて、着替えまで完璧に済ませているのだ。でなければ、わずか数分で出てこられるわけがない。女性よりも準備に手間を取らないとはいえ、男性もこんなに早く準備ができるわけがない。そんなことは歳の少し離れた兄のいるルナにはわかっていた。
それでもルーカスはルナにこの役目を課した。
ルナはそれがなぜなのかわからなかったが、ルーカスに指示されたことをこなす。毎日、決められた時間に。
「おはようございます。ルーカス様」
部屋から出てきたルーカスに一礼し、ルナは彼の後について歩く。角を曲がる度にルナがついてきているか確認するルーカスに、彼女は申し訳なさを感じて彼の歩調に合わせる。デビュタントを迎えたばかりの少女と同じかそれよりも小柄なルナと、屈強な門番達と体つきは違えども同じくらいの背丈のルーカスでは歩幅に2倍ほどの差がある。それをなんとかついていこうとルナは必死で足を動かした。
シェフによって用意された朝食の席に着くころにはルナの額にはうっすらと汗が浮かんでいた。その姿をルーカスは一瞥して声をかけることもなく、すぐに視線を戻して席に着く。まるで機械のようにほとんど同じ時間に食事を終える彼は、起きた時間から時計の長い方の針が少し進んだ頃に決まって席を立つ。
それはルーカスが屋敷を出発することの合図だ。
ルナはすでに準備してあるルーカスの荷物を持って、玄関へ先ほどと同じように早足で向かう。
そして夕刻になればルーカスは勤め先の城からこれまた同じ時間に帰宅をし、そしてルナに荷物を預ける。ルーカスが決まった時間に帰宅しなかったことは、ルナと結婚してから片手の指で数えられるほどの回数しかない。
そして、そんなルーカスを出迎えるためにルナは毎日決まった時間に玄関へ向かうのだ。
こんな傍から見れば不思議な夫婦関係にルナは満足していた。
ルナはルーカスと共にいられるだけで満足なのだ。それどころかこれ以上望むことなどしてはいけないと考えていた。