あるふゆのおだやかなひ
ピンと張り詰めていた空気は朝から昼へと時間を下っていくうちに緩む。
五万円はたいて買ったヴィンテージもののレザージャケット。重たくて肩が凝るけれど私のお気に入り。
隣には三日月色に染めた金髪の男の子がもう踏み荒らされてしまった霜柱を諦めきれずに踏んでいる。
私と草太が過ごす二度目の寒い季節だ。彼の子供っぽい行動をじっと見つめていると、私の呆れた視線に気づいたようで、白い息を吐きながら少し照れたように笑って口を開いた。
「すももちゃん。小学生の頃よくこうやって崩さなかった? 新しい霜や誰も踏んでいない雪のあるところに足跡をつけるの好きなんだ」
「解るけどさ、君もう二十歳過ぎてるじゃん。恥ずかしい行動やめてよね」
「でも、すももちゃんだってこの前浅草寺行った時やたら太った鳩の後ろを脅すように歩いていたじゃんか」
してやったりの顔をして草太は細い目を糸のように細くして笑う。私は一つため息をつくと何も答えないで歩みを早めた。
がたごとと音を五分おきに鳴らしながら走る電車の線路沿いを歩く。
東京に出てきて二年と少しばかり。初めは人の多さに目を白黒させていたけれど渋谷から10分。
井の頭線沿いはスクランブル交差点のようなせわしさや喧騒はない。
毎日がお祭りのような人混みはたまに行くには良いけれどどうにも疲れてしまう。
「今日どうしよっか。下北は朝が遅いし、どこか行きたいところある? あ、でもビールは駄目だよ。
すももちゃん、この前うちの店の近くのコンビニで朝寝てたでしょ。マスターが笑って報告してくれたよ」
「あの日は語学の友達と飲んでたの。私一人だけじゃないし。おまけに警官にそろそろ帰りなさいって肩叩かれたんだから」
「どこでも寝る癖治した方がいいと思うよ。ここは変な奴そんないないけどさ、新宿でやったらあっという間に財布盗られちゃうよ」
「草太だって、人のこと言えないんじゃ無い? 三茶でゲラゲラ笑いながらスキップしてたって聞いたんだから」
互いの酒の失敗についてああだこうだと言い合いながら目的もなく歩く。
手袋をしていない掌は最初こそ温度を保っていたもののすぐに寒さに熱を奪われてしまい、平生より動かしにくくなっていた。
「珈琲でも飲みに行こっか。後のことは店に着いたら考えよう」
私がそんな風に提案すれば草太は乗ったっとはしゃいで歩みを軽やかにした。
徒歩で三十分。駅にすれば二駅分の道のりを経て見慣れた街へと行き着く。
それもその筈、長い春休みに入った今は特段通っていないが普段は毎日のように通う大学がある場所だ。
駅前の高架下をくぐって甲州街道まで真っ直ぐ伸びる道を数分。地下にある喫茶店。
一面に本棚が並んで所狭しと蔵書された古書が太陽を厭うかのような顔をしている。
ここは著名な作家がオーナーをしており、アーティストの卵を支援するスタジオも併設されていた。
重たい黒の鉄扉を開けるといくつかのテーブル席と六人はかけられるだろうカウンター。迷うことなく奥のカウンター席に二人並んで座る。
平日だからなのか、寧ろ平常運転なのか私たちの外客の姿はない。
「ケーキセットにする? 僕お腹減っちゃったよ」
「痩せの大食いめ。朝ごはん食べたじゃない」
「甘いものは別腹ってあるでしょ。すももちゃんはいつものキリマンジャロ?」
「うん。ミルクなしで」
すっかりおなじみになったやりとりに店員は微笑を浮かべながらフラスコに火を点ける。
しゅっしゅっと音が静謐な空間に響く。私と草太は一言も会話を交わすことなく、本棚へと歩み寄りそれぞれ好みのものを持ち出した。
彼は冷蔵庫の写真集。私はというと遠く昔の歌集を選んだ。
平安時代に生まれた作者はある高貴な女性に恋情を覚え出家した男だった。しかしここに綴られている文字には想像する坊主像とは異なり、俗に塗れている。
桜を愛し、今の奈良の吉野へと移った彼の短歌は『花』を題材にしたかが多い。
次第に文字の世界へと引き込まれていこうとしていたが、とん、と軽やかな音に戻された。
「キリマンジャロです」
穏やかな声と共に湯気の立った白いカップが目に入る。
草太の方にはクリームが添えられたパウンドケーキとブレンド珈琲が置かれていた。
「ほんの少しの間なのに随分集中してたね」
いただきますと言って、白いクリームとスポンジを絡ませながら頬張る彼は横目で見る。
私は酸味の効いた液体を喉から胃へと少しずつ流し込む。まだ冷めていないそれはちりりと舌を痺れさせた。
「すももちゃんは読み出すとそっちらけになるよね」
「自覚はしてる」
「それ、初めて読んだやつじゃないよね。なんか気になるものがあったの?」
「春の歌が好きなんだよね。ほら二月ってさ冬だけど冬じゃない気がしない?
梅の匂いとか、徐々に緩んでいく空気とか。そうすると待ち遠しいのかわからないけれど春を感じたくなるというか」
「うん、解るよ。僕は暖かい季節より今が好きだけれど何か芽を出しそうな雰囲気っていうかさ。
動き出すみたいな? 難しい言葉はわからないけど」
草太は相槌を打つ。彼はいつだってぞんざいな返答をしない。私はそれが嬉しくなって顔を綻ばせた。
「今日はどこへ行こうか。お腹をあったまったらまた散歩に戻る?」
「そうだねえ、美味しいガパオライスが食べたいな。ひとごこち着いたら下北やっぱ行こうか」
「相変わらず食い気なのね」
「身体動かしてお腹を空かすって理に適ってるよ。まあ、でもさ」
妙なところで切った草太に首をかしげる。
「何、どうしたの」
私が促せば彼は歯切れが悪そうに、言い渋っていたがぽそりと呟くように言葉を吐いた。
「一緒に居ればどこへ行っても楽しいよ」
「君の羞恥心の在りどころってわからない」
私がそう言って笑えば、彼もはにかんで笑う。その瞬間がどうしようもなく愛おしく思え、心に充足感が広がっていた。
酸味と苦味が効いたはずの珈琲が甘く思えるほどに。