90 彼女は奴隷じゃない
白い水蒸気が晴れるよりも早く、エスティアは天井を蹴り魔剣を振り下ろす。スライは目にも止まらぬ速さで水の壁を作り上げその攻撃を防ぐ。が、完全に防ぎきることはできずに水の壁は呆気なく斬り裂かれていく。
そのまま壁ごと真っ二つに斬り裂いてやるとエスティアはニヤリと笑みを浮かべる。だが、その壁の向こうにスライの姿は無い。
ぞくりと背後から嫌な気配がする。エスティアは野生動物のごとく反応速度で振り返るが、遅い。目前に迫るいくつもの火の玉。一つ一つが灼熱を秘めたそれは直撃すれば一瞬で灰と化すだろう。だが、エスティアはその口元に笑みを浮かべていた。
「守って!」
優しくも力強い声が響く。その瞬間、ゴォォッ! という強い風が吹きつけるような音が轟き、目前まで迫っていた火の玉がまるで幻だったかのようにかき消されていく。火の玉の影に隠れるように手を翳していたスライが口元を引きつらせる。
エスティアは無理やり身体を捻ると、握り締めていた魔剣を投げナイフのようにスライ目掛けて放つ。これは予想していなかったスライが急いで躱そうとバックステップで距離を取ろうとするが――
「遅い」
「――なッ!」
いつの間にか、スライの懐へと入ったエスティアは邪悪な魔力で空間を歪めながらスライへと迫っていた魔剣を振り返らずに、その柄を握り締めると、そのまま勢いを殺さないように槍のように突き出した。これを避けるのは人間には不可能だ。
やっとだ、これで終わりだ。エスティアがそう確信したその時、悲鳴が彼女の耳を貫いた。考える間もなくその声の主が誰かわかったエスティアは寸でのところで魔剣を止めると、鬼気迫った表情で声がした方へと振り向く。
「シュティレ!」
そこには、鎖でがんじがらめにされ、床へと横たわるシュティレの姿があった。水で出来たそれはゆっくりとだがジリ、ジリ、と彼女の体を締め付けているようだ。気づいたエスティアはスライなど忘れてしまったかのように、一目散にシュティレへと駆け寄った。
魔剣をそこら辺に投げ捨てたエスティアは、水の鎖へと両手をかけ、グッと引っ張る。だが、水の鎖はまるで鉄の鎖のように頑丈で、強化されている彼女の筋肉ですらビクともしない。その間にも、鎖はシュティレの体を締め付け、苦し気な声が彼女から漏れる。
「っう……」
「シュティレ! あぁ、クッソ……千切れろ……ッ!」
力いっぱい鎖を引っ張る。本当であれば、魔剣で斬り裂いた方が早そうな気がするが、鎖は彼女の体に食い込んでいる。これでは、彼女の体を傷付けてしまう恐れがある。故にエスティアは漆黒の籠手で守られた両手に渾身の力を込めたその時、シュティレが青色の瞳を大きく見開き叫ぶ。
「エスト! 危ない!」
その瞬間、エスティアの腹部からナニカが突き出した。鋭くとがったソレはエスティアの血で濡れており、流れ出たものがポタ、ポタ、とシュティレの体へと落下する。彼女の服に赤い斑点が出来上がる様子を二人は思わず眺める。
痛みは感じない。ただ、酷い違和感が体を貫いていく。体が冷たくなっていくような気がする。熱を出した時のように怠くて、吐き気も酷い。エスティアは鉛の様に重くなっていく体を支えることができず、シュティレの隣へと倒れ込んだ。
「エスト!」
ギリギリと縛る鎖の痛みも忘れたような表情のシュティレが叫ぶ。だが、倒れたエスティアはピクリとも動かない。シュティレの青色の瞳が潤む。
エスティアを貫いた刃はいつの間にか消えており、どくどくと腹部から真っ赤な血を流している。いつもなら、魔剣の力によって傷口が塞がるのに、とシュティレは考えながら即座に回復させようと魔力を込めたその時だった。
「――ッアァァァアアアア!」
シュティレの体を激しい痛みが駆け抜けた。電流のように痺れるような痛みに加えて、体を焼くような痛み。悲鳴が口から飛び出すが、痛みが和らぐことは無い。感じたことの無い痛みは彼女の意識を刈り取ろうと手を伸ばす。
だが、シュティレはその手を振り払うように「エスト!」と大声で名前を呼ぶ。息をするたびに痛みが体全体を叩く。おそらく、神経に直接作用する魔法だろう。うまく魔力を操ることができない彼女はエスティアの隣にしゃがんでコチラを見つめるスライを鋭く睨んだ。
「随分と、しぶといじゃないか。前の君だったらそのままショック死してもおかしくない物を打ち込んだのにさ」
スライはそう言ってカラカラ笑って、シュティレを指さす。すると、再び鋭い痛みがシュティレを襲う。だが、彼女が先ほどのような悲鳴をあげることは無い。グッと引き結んだ口で彼を睨む。
ここで、叫べばヤツを楽しませるだけだ。そうわかっているからこそ、気持ちを強く保つためシュティレは唇を噛みしめ、何とか動く指でエストの体に触れる。痛みはまだ続いている。
トクン、と温かい魔力を感じたシュティレは心の中で微笑む。触れてしまえば、シュティレの魔力で満たされている彼女の体など自分の体も同然だ。彼女の体に流れている魔力を操作して治療を開始する。こっそりやったつもりだが、やはり英雄か、スライはニヤリと口を歪め。
「へぇ、随分と器用なことするじゃないか。さすがは、魔術師ということか。まぁ、傷を塞ぐぐらいは見逃してあげるよ、どうせ、その奴隷商人は目を覚ましたところで絶対に動けないからな」
「……ッ。そんなわけない。必ず立ちあがって、お前なんか……エストが殺してやるんだから」
「ふーん。まぁ、期待でもしておこうか。……それでさ、一つ聞いてもいいか?」
スライの声に反応するように痛みが跳ねるように襲う。ぐわんと酷い頭痛もやって来る。だが、シュティレはエスティアを治すことに全神経を集中させながら、痛みを堪えるような吐息を漏らす。
「なぁ、君が死んだらそこの奴隷商人はどうなる?」
「なっ」
シュティレは驚愕に瞳を見開き、すぐに彼を睨む。射抜き殺すほどの眼光に彼は軽く肩を竦める。次の瞬間、再び彼女の体を激痛が駆け抜けた。
「――ッ!」
意識が飛んでしまいそうだ。体の内側から無数の針で突き刺すような痛みに吐き気すら覚える。だが、シュティレはふーっ、ふーっ、と肩で浅い呼吸を繰り返しながら必死に痛みに耐える。その様子がおかしかったのか、彼は笑ってエスティアへと視線を移す。
早く、早く、起きて。シュティレはそう願いながら回復を続けるが、何故か治らない。そして、彼女は彼の悪戯っ子のような表情を見て確信する。彼が邪魔をしているのだと。
ぎりり、と歯のきしむ音がシュティレの口から漏れる。いつの間にか、水の鎖から解放されている。だが、彼女は動くことができなかった。連続的な神経への攻撃によって体が動かなくなってしまったのだ。
「もう一度聞く。君が死んだらコイツはどうなるかな?」
優しい声。だが、その声にシュティレは嫌悪感でブルリと心臓が震えるのを感じた。
「……一つ言えるのは、どうあがいても、貴方は死ぬでしょうね」
「ははは、俺に一撃すら入れられないヤツがどうやって殺すんだ。まったく、無条件に主を信頼するのは奴隷としてどうかと思うよ」
「私は奴隷じゃない」
小馬鹿にするような彼の言葉を遮るようにシュティレをそう言ってニヤリと口の端をあげた。すると、不快そうに口元を歪めた彼は「そうか」と言った。
次の瞬間、シュティレの太ももを何かが貫いた。今までのように神経へと直接作用するものではなく、物体が彼女の皮膚を貫き、筋肉を傷つける。じわじわと生温い何かが流れる感覚を感じたシュティレは、スライを鋭く睨んだ。
神経の痛みが酷すぎて、肉体を傷つけられた程度、なにも感じない。鋭く睨む彼女に彼は心底つまらなそうに息を吐き出したその時だった――
「テメェ……ッ。シュ、ティレ、に、なにして……るっ」
苦し気な声が聞こえた。スライがその声へと顔を向ける。すると、先ほどまで気を失っていたエスティアが、右目を限界まで見開きながら見つめていた。
血走り、憎悪に囚われた黄金の瞳はまるで全てを燃やし尽くす炎を連想させる。今にでも喉笛を噛みちぎらんとする野犬のようだとスライは思いながら、動けないエスティアを冷たく見下ろす。
コロス、コロス、コロス。その考えだけが浮かぶ。エスティアは心の中で“殺す”と呟き、どうにか体を動かそうとする。が、体は動かない。
スライはそんなエスティアを見下ろしながら、ニヤリと笑って、いつの間にか彼の手に握られているナイフがシュティレの傷を負っている太ももとは逆のふとももへと振り下ろされた。
跳ね返るように抜かれた傷口から血が後を追うように噴き出し、エスティアへと降りかかる。シュティレは痛みなど感じていないが、顔を歪める。
「――クソ野郎がぁぁぁああああああッ!」
その表情を見た瞬間、弾かれるようにそう叫んだエスティア。どうにかして体を動かそうとするが、動かない。それはまるで神経が通ってないのではと考えてしまうほどにだ。グルル、と喉を鳴らした彼女はシュティレへと視線を向ける。
その表情は今にでも泣きそうな子犬のようだ。その様子を見ながらスライは大きく声を上げた笑った。
「っはははは! おいおい、たかが奴隷にそんな顔するかよ。まったく、お前は噂通りおかしな奴隷商人だなぁ」
嘲笑う言い方。だが、エスティアは気にすることなくシュティレへと「大丈夫、絶対に守るから」と言って笑いかけると、再び彼へと視線を向けて噛みつくように言い放つ。
「テメェのことは絶対に殺す! 斬り裂き、グチャグチャにひき潰して、燃やし尽くしてやるからなぁぁッ!」
エスティアはそう叫んだ。その勢いを利用して体よ動けと願ってみるが体はやっぱり動かない。スライは持っている血まみれのナイフをくるくると弄びながらつまらなそうに欠伸をする。そして、エスティアへと顔を向けた。
「どうせ、動けないのにどーすんだよ。……それにしても、お前、よく生きてられるな」
「なにを言って」
「だって、お前の体に毒を打ち込んだんだぜ? しかも、一滴で誰でもコロっといくやつを。それなのに、どうして生きてるんだ?」
まるで、珍しい生き物でも見ているかのような視線にエスティアは、これでもかと不快感をあらわにする。が、スライはすぐに興味を無くしたかのようにため息を吐き出すと、エスティアの右目を見つめた。
彼の瞳に射抜かれた瞬間、エスティアの心臓がドクン、と跳ね、ゾクリと背中が震える。強烈な悪意に心臓でも撫でられているような気分だ。そんなエスティアの考えを知ってか知らずか、クスクスと笑いながら彼が言う。
「なぁ、俺と取引しないか?」
「……は?」
冷たく返事をするエスティア。
「まぁ、そんな顔するなよ。俺さ、どーしても欲しいものが二つあるんだよ。そんで、そのうちの一つをお前が持ってる。もし、それを俺にくれれば、お前たち二人は逃がしてやるよ」
「……なにもあげないって言ったら?」
挑発的に返すエスティアにスライは鼻で笑う。そして、持っていたナイフを――シュティレの首筋へと突きつけた。
ドクン、と体の熱が噴き出しそうになるのを必死に抑えながらエスティアが睨む。
「こうするだけさ。さて、気を取り直して、続きと行こうか。俺が欲しいのは」
そっとスライの手がエスティアの頬へと伸びる。その行動にシュティレはキッとスライを鋭く睨むが、両太ももから流れ出た血が彼女から急速に体力を奪っているようだ。その瞳から力がゆっくりと無くなっていく。
「――奴隷商人。お前の右目が欲しい」
そう言って、スライは笑う。その姿がベルトランと重なって見えてしまったエスティア。呼吸が早くなり、口が渇きを訴える。そういえば、スライはどことなく彼に似ている。人を油断させるような優し気な視線と柔らかい声。が、すぐにエスティアはフッと息を吐き出すと同時にその感情を蹴り飛ばす。
もう、怖くない。隣に彼女がいる限り、もう大丈夫だ。エスティアの強い眼差しにスライはフッと鼻で笑う。
「その眼差し、少し、似てるな。……だが、まぁいいや。それで、どうだ? 俺にその瞳をくれないか?」
「……」
エスティアは答えずにシュティレをチラリと見やった。死にはしなくとも、出血が多い。朦朧とした意識の中でもしっかりとエスティアの服の裾を掴んでいる彼女にどうしようもないほどの愛おしさで満たされていく。
大丈夫、絶対に守るから。その言葉をそっと飲み込んだエスティアはスライへと視線を戻す。気づいた彼が嬉しそうに口角を上げる。
エスティアはそんな彼を見ながらそっと口を開く。
「お前に渡すぐらいならここでシュティレと一緒に死んだほうがマシだ!」
剣のようにまっすぐで力強い言葉。スライはその言葉にまったく嘘が含まれていないことが分かったからこそ、不快そうにこれでもかと顔を歪めた。その顔はまるで理解不能な物でも見るような視線だと気付いたエスティアは笑う。
「ふんっ、変な奴だ。が、まぁ、死にたいってなら遠慮はしない。どうせ、死んですぐなら瞳も取り出せるだろう」
そう言ってスライは血まみれのナイフの切っ先をエスティアの心臓へと向け――。
「おいおい、そんな簡単に死んで良いのかよ。まったく、そんなんで俺のオリジナルかよ」
闇を叩き潰すような勝気な自分の声が聞こえたエスティアは、瞳を大きく見開き、「うるさいな」と答えていた。




