88 青い瞳のヒーロー
走る、走る、走る。息が苦しくなり、心臓が痛い。動かしている足は自分で動かしているのかと思うほどぎこちない動きで地面を踏む。
どこに向かっているのか、走る彼女はただ目の前に続く廊下を見つめている。いや、どこも見つめていないのかもしれない。
「やだ……やだ……いやだ……っ」
荒い呼吸と共に出たその声は酷く震えていた。ガチガチと歯が鳴る。それは寒さではない。彼女の心と脳内を埋め尽くすは果てしないほどの恐怖。左目を抑えながら走っているせいか、エスティアは絨毯の柔らかさに足を取られ、小さくつまずき、そのまま倒れ込むように床へと座り込んだ。
怖い、怖い、コワイ。すべてが怖い。いや違う。暗闇に沈むのが怖いのだ。エスティアはブルブルと震える手を温めるように握り締めながら、呼吸交じりに「もう、やだ……」と小さく呟いていた。
「エスト……?」
不意にどこからそんな声が聞こえた。だが、エスティアは気付いていないのか、ひたすら自分を守るように体を小さくして震える。
「怖い、いやだ、もう……」
「――エストッ!」
エスティアだとわかるや否や、シュティレはエスティアへと駆け寄り、その震える体を強く抱きしめた。思いのほか早く見つかったことに安心したシュティレは小さく安堵の息を吐き出しながら、グッと腕の力を込める。
だが、エスティアはシュティレの存在など気が付かないのか如く、「いやだ、もう、いやだ」とブツブツと同じ言葉を繰り返す。シュティレは見たこともないエスティアのその姿に小さく息を呑むと、そっと呼びかけた。
「エスト、私だよ。迎えに来たよ」
エスティアの耳元に口を寄せ、優しい声で囁くように言う。いつもならすぐさま気づくはずのエスティア。だが、今の彼女は無反応のままガチガチと歯を鳴らし、体を震えわせているだけだ。そっと、シュティレは、エスティアの顔を自分の方へと向けさせ――その顔を強張らせた。
生命力と彼女の心の強さを現す大好きな黄金の右目は、なにも見えていないただ目の前の景色を映すだけのガラス玉のように、虚ろにシュティレの顔を見つめていた。そのあまりにも無機質な瞳は彼女という人格が入っていないのではと思わせる。
まるで、あの日の夜の自分のようだ。シュティレは虚ろでいながらも今にも泣き叫びそうな悲痛の面持ちでいるエスティアを見ながらそう考える。そして、強く彼女の肩を揺すった。が、反応を示すことは無い。
あの時はどうして正気に戻れたのか。暫く考えたシュティレはフッと舞い落ちる羽のように思い出が脳裏へと浮かぶ。そうだ、どうしてこんな単純なことがすぐに出なかったのか。
シュティレはキュッと口を結ぶと、そっとエスティアの頬に両手を添え――
「エスト、お願い戻ってきて」
同じ言葉を紡ぎ続ける言葉と吐き出される息を吸い取る。
また、キラキラと星のような輝きを放つあの大好きな瞳で見つめて。シュティレは相手の呼吸も言葉も全て奪い取るように体を押し付け押し倒さん勢いで唇を強く押し当てた。
「んっ」
どちらからともなく声が漏れる。だが、まだ足りない。虚ろな瞳にどうしようもなく心を苦しめながらシュティレはエスティアの閉じている唇を無理やり舌でこじ開け、するりと彼女の口内へと滑り込ませる。
ゆっくりと彼女の全てを絡め取るように口内を蹂躙。甘くもとろけそうな唾液に交じって感じる悲しみ。数十秒にも及ぶそれは、エスティアの息の限界と共に終わりを告げた。
「――っは、はぁ……はぁ……」
顔を離し、お互いに荒い呼吸を繰り返しながら見つめ合う。どうやら、彼女を引き戻すのは大成功したようだ。戸惑いながら揺れる黄金の瞳はまだ暗いながらもわずかな光が見え隠れしている。シュティレは安心したように笑みを浮かべると、そっと彼女の手を握った。
エスティアの手は酷く冷たかった。
「エスト、大丈夫?」
そう問いかけると、エスティアは瞳を伏せながら静かに「ごめん」と謝る。だが、それだけだった。項垂れ視線を合わせようとしないまま彼女は黙りこくってしまう。
「エスト、立てる? 危ないから、みんなの所に戻ろ?」
そう言ってシュティレが立たせようとするが――エスティアは首を横に振り、まるで銅像のように動くことは無かった。不安げな表情でシュティレが持ち上げていた腰を落とし、エスティアの顔を覗き込んだ。
すると、伏せられていた彼女の右目がシュティレを一瞥し、小さく彼女は口を開く。
「立てないよ……もう、立てないよ」
「エスト……」
「怖いの。あの人に会うまでは全然平気になってたつもりだった。もし会ったら、“よくもやってくれたな”って言って一発殴ってやるつもりだった……でも」
顔を上げたエスティアは泣いていた。その右目からはなにも流れておらず、潤んでもいないが、ずっと見てきたからこそシュティレはすぐに分かった。彼女は今、心が折れかかっている。いや、もしかしたらもう折れているのかもしれない。
眉尻を下げ半開きに開いた口とぎこちなく上がっている口角は泣き笑いともいえない悲愴に満ちている。見ているこちらが彼女の代わりに泣きたくなってしまうようなその顔のまま、息を吐くような細くも力強い声で言葉を続けた。
「ダメだった。アイツを見た瞬間、動けなくなって……何もできなかった。そして、まんまとまた奪われてさ……っ。私は、なにも」
エスティアがグッと握り締めた拳が床を殴る。絨毯にいくらか衝撃が吸収されていても、彼女の拳はその下にある石の床にヒビを入れたような鈍い音が響く。シュティレは何も言わずにそっと床を殴った彼女の手を取り握る。
「変わってない……っ! 臆病で弱くて、なにも守れない子どものままだった! 怯えて、怯えて、怖い物から逃げて……っ」
酷く震えた声は濁った池のように淀んでいた。それは人間が出せるのか、聞き取れるのかと考えるほどの声。今にも壊れてしまいそうなぎこちない笑顔のエスティアをシュティレはほぼ反射的に抱き寄せていた。
アイツ、という人物が誰なのかははっきりとはわからない。だが、おそらくは彼女の故郷で彼女が話してくれた“医者”のことを言っているのだろうということはすぐに想像がつく。
左目に片手を当てたエスティアは乾いた笑い声ともとれるような溜息を漏らし、言葉を続けた。
「きっと、またアイツに会ったら、私は……もう、やだ……立ちたくなんてない。やだ、やだ……もうあんな世界で、一人は嫌だよ……」
「エスト……」
「みんな、みんないなくなるんだ……また、私が気が付いたころにはみんないなくなってる……もう、そんなの嫌なんだよ! だから、立ち上がらない、このままでいい!」
そう言ったエスティアの右目から大粒の涙が零れた。その表情に小さく息を呑み、シュティレは体を離すと、まっすぐ彼女を見つめた。
「いなくならないよ。私は、どんなことがあろうと貴女の前からは絶対にいなくならない。絶対に」
青色の瞳が黄金の右目を射抜く。すると、エスティアはフッと鼻で笑う。その笑い方は呆れたようなそれに見えたシュティレはグッと唇を噛みしめる。
「――わからないじゃん」
「えっ」
聞いたこともない投げやりでいて全てを諦めたような言葉と声色に、シュティレは大きく瞳を見開き、困惑に満ちた表情で彼女を見つめたまま固まってしまう。
「だって、そうだよ。お父さんもお母さんもユーティナも、みんな私とずっといるって言ってくれた。けど、結局みんないなくなった。……みーんな、みーんな。ははっ、だからさ、シュティレだって、どうせ――」
その時、パァン、と乾いた音が響いた。それは、シュティレがエスティアの頬を叩いた音だった。
エスティアは叩かれた頬に手を当てながら、一瞬だけ瞳を見開いたが、すぐにキッとシュティレを鋭く睨んだ。シュティレはそんな眼光をものともせず、彼女の胸倉を強引に掴み、お互いの額がぶつかる距離に近づき、叫ぶように言う。
「なんでそんなこと言うの! エストは、エスティアは! 私のこと、信じてくれないの……?」
エスティアは答えずシュティレを見つめる。だが、その表情に先ほどまで浮かんでいた悲愴や怒りは浮かんでおらず、まるで助けを求める子どものような表情となっていることに気が付いたシュティレは、彼女を抱き寄せていた。もう絶対に離さないといわんばかりの強さで抱きしめた腕にそっとエスティアが手を添える。
「私、ずっとエスティアの傍に居るよ? たとえ、この世界が終わっても、絶対に貴女の傍に居続けると誓う! だから」
「――んっ!?」
エスティアの唇を強引に奪ったシュティレ。一瞬だけだが、気持ちを伝えるには十分。そっと唇を離した彼女は小さく微笑み、エスティアの額に口づけを落とした。
「エスティア、二つ選択肢をあげる」
「え……?」
「一つ目は、もう一度立ちあがって、私と一緒に目的を終わらしてその後、私と幸せに暮らす未来。もう一つは、今ここで私と一緒に死んで全部終わったことにする。……まぁ、私のおすすめは幸せな未来だけど。でもね」
ニコっとあっけらかんと言い放つ彼女を見つめたままエスティアは言葉を失った。そんなエスティアを見つめた彼女は言葉を続ける。
「貴女がどちらを選んでも、私は喜んで受け入れるよ。だって、どっちも貴女と最後を一緒にできるんだから」
そのまっすぐな言葉にエスティアはこれでもかと、大きく瞳を見開く。なにかを言おうと口を動かしては見たが、余りの衝撃に声が出ないのか僅かに唇が震えて吐息が出るだけだった。
エスティアはわかっている。おそらく、今ここで“死にたい”と言ったら、彼女は本気で一緒に死んでくれる。彼女の恐ろしくなるほど澄んだ青色の瞳が黄金の瞳を射抜く。それは、まるで黄金の瞳の上を漂う恐怖と困惑を吸い取るかの如く。
「ねぇ、エスティア」
するりと頬を撫でるシュティレ。その触り方は優しく、エスティアは開ききっていた瞳を正常までもどすと、グッと次の言葉を待つ。
「愛してる」
噛みしめるようにゆっくりと吐き出された言葉。エスティアの心臓がドクン、と大きく脈打ちその体温を急速に上昇させていく。いま、なんて言われたのか。そう考えているだろうなとすぐに分かったような表情でシュティレはもう一度――
「エスティア、愛してるわ」
「っ……!」
「貴女のことを心の底から愛しているからこそ、私はどんな結末でも構わないよ。だからね、自分の好きな――」
シュティレはそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。なぜならグイっと後頭部を押さえつけられ、噛みつくようにエスティアが彼女のキスをしたからだ。
今まで味わったことの無いような激しいキス。それは、普段のエスティアから想像もできないほどに強引で貪るようなそれを、シュティレは驚きながらもそれを全身で受け止めるようにエスティアの首筋へと腕を回し体を密着させた。
お互いの全てを交換するように絡んだ舌が水音を立て、ハァ、と熱く重たい吐息がどちらからともなく零れ、二人の瞳からぽたりと涙が流れる。
何度も、何度も、何度も、それを繰り返したのち、エスティアは満足したように体を離す。穏やかな笑みを浮かべる彼女の右目は先ほどとは打って変わって驚くほど澄んでいた。
シュティレはその表情に思わず心臓がドキリと跳ね、キュッと口を結ぶ。エスティアが小さく笑って口を開く。
「シュティレ、ありがとう。そして、ごめんなさい。君に酷いことを言っちゃった」
心から申し訳ないとすぐに分かる声色。シュティレは小さく首を振る。
「怖かった、もし君まで居なくなったらって思うと本当に怖くて怖くてたまらなかった。でも、シュティレはそんな臆病な私に手を差し伸べてくれて……本当にありがとう」
シュティレの脇に落ちていた魔剣と宝剣を一瞥し、エスティアはそれを持って立ち上がる。そして、剣を腰へと納めた彼女はニコリと微笑み、見上げるシュティレへと手を差し伸べ――
「幸せな未来のために、私と一緒に来てくれますか?」
まっすぐな瞳はまるで、夜に輝く満月のよう。するりと心を撫でるような声は力強い。シュティレは小さく頷くと、ニコリと微笑む彼女の手を取り、そして、零れんばかりの笑顔を咲かせ。
「喜んでっ」
そう答えて立ち上がるのだった。
いつも読んでいただきありがとうございます。
今までは、三日以内更新を頑張ってまいりましたが、これからは月曜日と木曜日更新にしたいと思います。
有志勇者はまだまだ続くのでこれからも応援よろしくお願いします。




