87 守るのは貴女の役目でしょう
「うぁ、あ、あぁああああああああああああッ!」
エスティアは左目を押さえ、叫び声をあげる。ない、無い、無い。左目が無い。蘇る子ども頃の記憶。たとえ、片目だとしてもエスティアが正気を保っていることなど不可能だ。
狂ったように「目が、左目が」と繰り返し、ありもしない自分の瞳を探し回ろうと地面へと這いつくばる。
そんな彼女の左瞼は瞳が無いにもかかわらず開いており、そのぽっかりと開いた眼窩は魔剣よりも暗い漆黒に包まれていた。
「エスト……」
抱きしめていた彼女が離れ、床を這いつくばるのを見つめながらシュティレは声をかけることすらできずに固まる。アリスとエリザも同様のようだ。
無理もない。今のエスティアに声をかけたところで、彼女の耳に声が届くことは無いだろう。それほどまでに今の彼女は耐えがたいほどの喪失感で満たされており、それで頭がいっぱいなのだ。
「目……私、の光……あ……や、だ……」
シュティレはそんなエスティアを見つめながら、彼女の故郷で教えてもらった彼女の過去を思い出す。自分の瞳を失った過去と苦しみや恐怖。きっと、その時の恐怖で埋め尽くされているのだ。また暗闇に放り込まれたらという恐怖でいっぱいなのだ。そう考えたシュティレがエスティアへと近寄ろうとしたその時だった。
ペタリ、ペタリ。
そんな湿り気のある足音が響く。まるで、水に濡れた何かが歩くような音は次第に近づき、数も増していく。エスティアは気付かない様子でブツブツと言葉にならない単語を呟き続けている。
シュティレがその音に気付き振り向くと、いち早く察知していたアリスが聖剣を構え廊下の奥を睨んでいた。エリザも警戒した様子で睨んでいる。
ペタリ、ペタリ、ペタリ。ペタリ、ペタリ、ペタリ。
アリスとエリザの向いている廊下の角から何かが覗いている。それは、白濁した物体だった。曇り空のような薄明りに照らされソレの姿がゆっくりと明らかになっていく。三本指の手が角の縁へとかけられ、そこから顔を覗かせたソレは笑っていた。
口元だけ作られた白濁した顔。ニターと三日月のように裂けた口から覗かせる歯がギラりと光を反射する。見た者を不快にするそれに誰もがこう思う――腹が立つ、と。
まるで、そう考えるのが当然だと言うようなその感覚にエリザが眉を顰める。
『ミ、ミミミ、ミツ、ケタ、ケタ。メ、メ、メェェェエエエエエッ! イダイナルカミノメダァァァアアアアアッ!』
喉を震わせ声を上げたソレ。アリスは静かに聖剣を引き抜き構える。その表情は険しい。
あれは、マズイ。今までに戦ってきたエラーとは違う。人間を無理やり四足歩行にしたような体、姿こそ今までの物とあまり大差はないが、アリスの瞳に視えるはバケモノの口や体から流れ出る濃密な魔力。通常のエラーのような、邪悪に満ちた黒い魔力ではなく、澄んだ灰色の魔力からは邪悪さは感じられない。
なのに、その魔力を視ていると気持ちが悪くなっていく。胃の奥がムカムカとしてくるような。アリスがそんな考えに囚われそうになったその時、シュティレが声を上げた。
「――エスト! 待って!」
サッとアリスが振り向くと、シュティレが驚愕に瞳を見開きながら手を伸ばす姿が目に入る。その奥には廊下の奥へと走るエスティアの後姿があった。そんな彼女の腰には何もなかった。そして、いつもあるはずの魔剣と宝剣はまるで投げ捨てられたかのようにシュティレの隣に落ちている。
一体何が起きたのか。アリスは走り去るエスティアからシュティレへと視線を移す。すると、いつもなら何も考えずに追いかけるはずの彼女が今にも泣きそうな顔で座り込んでいる。
それを見たアリスはほぼ反射的にシュティレへと激を飛ばしていた。
「シュティレ! 何をしているのですか! 早くエストさんを追いかけてください!」
アリスの黄金の瞳がまっすぐシュティレを射抜く。ビクリと肩を跳ねさせたシュティレはゆっくり立ち上がり振り向く。そんな彼女の表情は悲痛に満たされ、その青い瞳に涙を貯めている。アリスはそんな表情を見せる彼女に小さく息を呑む。
「だって、エスト……私に、来ないで、って……っ」
悲痛で染まった声。本当に何があったのか。アリスはそう考えながら口を開こうとしたその時――バケモノがアリスへと襲い掛かる。気づいた時には遅い。鋭いかぎ爪がアリスの目前へと迫る。
キィィィィン、という音が響く。咄嗟に聖剣を構えていたアリス。だが、その音は聖剣が受け止めた音ではない。彼女前に立つ鋼鉄の戦士が構えた盾が防いだ音だった。命を刈り取るつもりだったバケモノは不満げにケタケタと笑う。
鋼鉄の騎士は、その防いだ盾を弾くように動かし、バケモノを廊下の奥まで吹き飛ばすと、追撃するように駆け出す。
「シュティレ。貴女、どんなことがあってもあの子から離れないんじゃないの?」
盾を持った鋼鉄の騎士が鋭いかぎ爪に斬り裂かれ、消えていく。が、新しく現れた二体の騎士たちがうなり声を上げるバケモノへと鋼鉄の剣を振り下ろす。エリザは騎士たちに指示を下しながら、冷たい声でそう言った。
静かな声は槍のように鋭く。シュティレはグッと唇を噛みしめ瞳を伏せる。エリザはそんな彼女を見ながらため息をつくと小さな小瓶を投げつける。咄嗟に受け取ったシュティレが首を傾げる。
「シュティレ、エストを守れるのは貴女だけよ。私たちは足止めしかできない」
「お姉ちゃん……」
二体目の騎士が切り裂かれ、倒れていく。エリザの表情が苦しくなる。聖剣を構えたアリスがシュティレへと微笑み小さく頷く。そして、そのままバケモノへと駆け出したその時、バケモノがエスティアが走り去っていった廊下を見ながら叫ぶ。
『ゥアアアァァァァアアアアッ!』
耳をつんざくほどの高音に駆け出していたアリスの足が止まりそうになる。が、勢いよく踏み込みバケモノへと斬りかかる。叫ぶことに集中していたバケモノの喉が大きく斬り裂かれ黒い泥のような重たい液体が噴き出す。だが、それはアリスへと降りかかる前に彼女の魔力によって蒸発していく。
「シュティレ、行きなさい。私たちはコイツを倒した後に追いつくから。なんかアイツ、エストのこと狙ってるような気がするしね」
そう言ってエリザは軽くウィンクをすると、もうシュティレの方へと振り向くことは無かった。再びエリザへと付き従うように何体もの騎士たちが各々の武器を構え、頭を上げ一斉に立ち上がる。その間にもバケモノの爪と聖剣のぶつかる音が響く。
シュティレは渡された小瓶を見つめる。炎の様に揺らめく赤い液体が入っているそれはシュティレの悲し気な顔を映し出す。そんな彼女の脳裏に浮かぶは抱きしめていた腕を振り払い怯えた表情で走り去るエスティア。あそこまで怯え切った表情は見たことが無かった。
「エスト……」
小瓶を懐へとしまったシュティレは投げ捨てられた宝剣と魔剣を拾い上げる。そして、それを自分の腰へと下げた彼女はフッと息を吐き出し、戦う二人の後姿へと顔を向ける。もう、その青い瞳に悲痛は浮かんでおらず、決意に染まっている。
「エスト、貴女を守れるのは私だけだからね」
そう小さく呟くと同時に、シュティレはエスティアを追いかけるため、駆け出したのだった。
シュティレが廊下の奥へと消えるのを確認したエリザは小さく息を吐き出す。その顔には先ほどまで浮かんでいなかった疲れが濃く浮かんでいた。騎士を一体呼び出すのも相当な魔力を使う。それを倒されるたびに補充しているのだから疲労は急速に体を支配していく。
エリザのフードがゴソゴソと蠢き、中からぬいぐるみが顔を出す。変化することの無い顔はエリザを心配しているようだ。
『エリザ親分、平気ですか?』
「……ちょっと、魔力がツラいわね。なんだか、今日はやけに疲れるのよね」
そう言ったエリザはグッと拳を握り、その手にピンのついた爆弾を創る。たった一つ作っただけで体の魔力がいつもより減ったような気がした彼女は唇を歪め、前方へと顔を戻す。そこには、休むことなく聖剣を振るいバケモノへと迫るアリスの姿。その勢いはまさに猛然たるものだが、バケモノは冷静に躱す受け流すなどしている。
アリスの表情が険しくなる。それは、攻撃が躱されてしまうだけではなく、いつも以上の疲れを感じているせいのようだ。バケモノへと蹴りを入れ、その勢いを利用してエリザの隣まで距離を取ったアリスは額の汗をぬぐった。
「あのバケモノ、少しおかしい気がします。まるで、未来予知でもしているかのように躱されてしまいます」
「確かに、貴女があんなヤツに一撃も入れられないなんておかしいものね」
軽口を飛ばすと、アリスは軽く肩を竦める。そして、聖剣を軽く振るい、余裕そうに口の端をあげた。
「まだ本気を出してませんから」
「言うようになったわね。……まぁ、私も本気出してないけどね」
そう言った二人はクスクスと笑い合う。廊下の壁へとめり込んでいたバケモノがゆっくりと這い出る。だが、二人はまるで見えていないかの如く、穏やかな表情で会話続ける。
「じゃあ、今度は本気を出してくださいよ」
「わかってるわ」
そう言った二人。だが、お互いに思っている。自分たちの攻撃はバケモノに通らないのでは、と。自慢の騎士たちはあっさりと斬り裂かれ、自慢の剣技はあっさりと躱されてしまう。バケモノの攻撃は今のところ防げているが、それも時間の問題。
アリスは聖剣を握り締める。すると、彼女の背後にはいくつもの光の剣が宙へと浮かんでいる。日光が差さず、狭い廊下のここでは多くは出せない。聖剣に薄く魔力を流し切れ味を高め、静かに構えた。
エリザは最大限のサポートができるように杖を構える。フードから顔を覗かせていたピーナッツが邪魔にならないように隠れる。
『ゥゥゥアアアアア! チカラ、チカラ、チカラァァァアアアアアアッ!』
ボキ、ボキ、と骨の砕けるような折れるような音が響くと同時にバケモノが咆哮をあげる。ビリビリと肌を突き刺すような高音のようでいて低音のようなそれは空気をも震わせる。二人はそれを見つめながら、ふと、まだ魔王討伐を目指していた時のことを思い出す。
いつも真っ先に敵へと斬り込み、その圧倒的なパワーと灼熱の炎で全てを壊し焼き尽くすノーヴェン。そんな彼はもうアリスの隣には居ない。
いつも、エリザの隣で杖を振るってはシールドを張ったり傷を癒す魔法使いのスライ。彼には何があったのか。
もう、揃うことの無い光の勇者一行。二人はそんな考えを斬り捨てるように、小さく息を吸い込み、長く吐き出した。
『チカラ、カミ、ノ、メ、セカイ、カエル、チカラ。アノカタ、ヒツヨウ、トシテイル』
二本足で立ちあがったバケモノ。まるで首の座っていない子どものように、ユラ、ユラ、と左右に頭を振りながら三日月型に裂けた口元からダラ、ダラ、と黒い砂状の液体を零す。ゾッとするような醜悪で邪悪な笑みのバケモノは体を低く構える。
ピリピリとした空気が辺りを包み込む。二人はいつでも動けるように神経を針のように尖らせ、次の動きを待つ。
『ホシイ、ホシイ、ヨコセ……オオイナル、カミノ、メヲ』
バケモノの口からベチャベチャと肉片のような黒い塊が吐き出される。それは、ジュウ、という音を立てながら絨毯を溶かし、その下にある大理石のように美しかった床さえもドロドロに溶かしていく。アレに触れれば、人間の肉体など呆気なく骨ごと溶かされてしまうだろう。
『――ヨコセェェェェェェエエエエエエエエエッ!』
ダンッ! と両足でバケモノは飛び上がり、かぎ爪を振り上げる。アリスはバケモノが飛び出すとほぼ同時に駆け出し聖剣を振り上げ、高らかに叫ぶ。
「――斬り裂けぇぇぇぇえええええ!」
闇をも絶望をも切り裂く声は骨の髄まで響くようだった。
次回更新は2019年5月9日(木)頃を予定しております。
中々、最近は更新ができず申し訳ありません。これからもどうぞよろしくお願いします。




