51 彼女には幸せに死んでほしい
「ねぇ、もう一回言ってくれる?」
風の槍をレインの喉元へと突きつけたシュティレは、凍てつく夜空のように暗い瞳で睨みつける。が、レインは臆することなく、決意の篭った瞳で見つめ返す。
その間にも、通路の天井からは絶え間なく、岩や氷のつぶてが降り注ぐが、彼女たちにと届くことは無い。
「何度でも言うよ、エストを貸して欲しい。その間は絶対にエストを傷つけないと約束する」
彼の言葉に嘘は無いだろう。だが、そんな物は彼女にとって聞くに値しない。つまらなそうな、うんざりとしたかのように座った瞳は、“失望”を浮かべている。
「貸さないと言ったら?」
シュティレの言葉にレインの表情が歪む。
「君を殺すしかないと思ってる」
その瞬間、レインの体を縛りつけていた魔法の鎖が、パキン、という音たてながら崩れ落ち、地面へと落ちる前に光の粒子となって消滅してしまう。その様子を眺めていたシュティレは内心でため息をつく。
鎖なんて最初から無意味だったのだ。彼は逃げ出そうと思えばいつでも逃げ出せた。きっと、今突きつけている槍も意味なんてなさないだろう。シュティレはグッと拳を握ると、持っている槍を放り投げるように消し去る。
その様子にレインは嬉しそうに表情を綻ばせた。
「僕のお願い聞いてくれるんだねっ」
シュティレはその言葉には答えずに彼を睨む。が、その表情はどこか悲し気だ。そして――巨大な風の魔物が彼女の背後から姿を現し、槍を地面へと突き立てる。
レインの表情が歪む。その瞳は“やっぱりか”と言いたげだ。
「やっぱり、ダメ?」
「ダメに決まってる。だって……」
シュティレの背後の魔物に追従するように無数のオオカミも姿を現し、臨戦態勢を取る。その様子はまさに圧巻。大量の魔力を惜しげもなく使う彼女に、レインは「羨ましい」と小さく呟くと、両手に魔力を込める。フワリとレインの髪を魔力が揺らす。
それだけで、彼の心臓の魔力が激しく減っていく。彼は苦しくなるのを必死に我慢しながら挑発的な笑みを浮かべたまま彼女を見つめる。
「――エストを守れるのはこの世界中で私しかいないから」
そう言ってニコリと微笑みを浮かべた彼女はさながら、無数の悪魔を引き連れた女神のようだった。
柔らかい感触と甘い香りが脳を支配しようと襲い掛かる。どうにかして抵抗しようにも体が動かない。縛られた鎖がチャリ、と音を立てるだけで、まるで自分の体が石にでもなってしまったかのように指一本動くことすら許されない。
「んっ……エスト……」
不意に離れたリーザベルの口からはそんな甘ったるい声が漏れる。そんな彼女の右の瞳が青緑色から、赤紫がかったピンク色へと変化していく。エスティアはその瞳に囚われたかのように目が離せなくなってしまう。
早く離れろ。ソイツは危険だ。頭の中で鐘を鳴らしたかのようにそんな自分の声が響く。エスティアは抵抗しようと首を動かそうとする。が、リーザベルはそんな彼女の両頬に手をあて、動きを封じる。
「リー、ザっ……やめ……てっ……こんなの……っ」
二人の唇が離れた瞬間にエスティアは無理やり顔を横に向け、荒い呼吸を繰り返しながら、余韻に浸るように自分の唇を指でなぞるリーザベルを横目に睨む。
シュティレとした時とは全く違い、嫌悪感でいっぱいになっているエスティアは自分の顔を斬り落としたい気分だった。例えどんな状況だとしても、シュティレ以外の人間に唇を奪われた。ここまでの屈辱感を感じたのはきっと人生で初めてだ。
エスティアは自身の唇を強く噛みしめる。すると、チクリとした痛みと共に、一筋の赤い滴が涙の様に口の端から零れる。
「エスト……好きよ……大好き」
リーザベルは、エスティアの噛みしめる唇から流れて出た赤い滴をペロリ、と舐めとると、その恍惚とした顔つきで嫌悪を浮かべる彼女の目元を撫でた。
そして、その手を目元、頬、下顎、首筋へと徐々に下げていく。エスティアの背筋に寒気が走る。そのまま彼女の指はエスティアのシャツのボタンを一つ、また一つと外していく。素肌が外気へと晒されブルリと体が震えそうになる。
エスティアは体をよじり、抵抗しようとする。ここまでされてしまえば、これからやれることは何となく予想できる。
「リーザ、それ以上は本当にやめて……今なら、まだ……冗談で済ますから」
エスティアの声が僅かに震える。いくつの戦いを切り抜けた彼女といえど、まだ――十八歳の少女に過ぎない。体が自然と震え、不安感で心臓がドクン、ドクン、と大きく波打つ。
リーザベルは小さく震えるエスティアの首筋に白い指を滑らせながら魅惑的な笑みを浮かべる。その右目は暗い赤紫色を濃く浮かべていた。エスティアの心臓が別の意味で跳ねる。
その瞳に――見覚えがあったからだ。小さな頃は毎朝の様に鏡の前で、色の変化を確かめていたのだ。間違いない。
「まさか……その目……」
乾いた口から漏れるように出た言葉にリーザベルはにんまりと笑みを零す。その表情はどこまでも嬉しそうに緩んでいる。そして、指をエスティアの晒された鎖骨をなぞるように動かす。
「そうよ、貴女と同じ瞳。でも、片目だけなんだけどねっ」
「でも……なんで……それ……」
そう言ったリーザベルは嬉しそうに右目を撫でる。だが、エスティアの表情は困惑を浮かべている。なぜならエスティアは、彼女の瞳が自然の物ではないと分かっていたから。小さな時に見た瞳とは明らかに色がくすんでいるためだ。
この世で“瞳”という存在は不思議な物で、失えば絶対に取り戻せないとされている。腕や足などの部位は魔法や魔術で再生が可能だが、瞳に関してはそうはいかない。どんな技術を持ってしようとも創り出せないことになっているのだ。
だから、エスティアは驚きを隠せない。リーザベルは嬉しそうに表情を綻ばせると、布で覆われた左目を撫でる。
「そう、これは“人工的に作られた虹色の瞳”。まだ試作段階だから、本物と同じというわけにはいかないけど……それでも、能力に関してはそこまで差は無いわ」
「あり……えない……だって……」
「フフフ、あの人は天才だもん……私の為にこれを作ってくれた。貴女と同じ……凄いわ、この瞳」
うっとりとした表情で右目を細める。
「片目だけなのに力が溢れてくる。こんなに凄い力を持った瞳をなんで――エストは手放したの?」
その一言にエスティアの表情から感情が抜け落ちる。まるで、全てを諦めてしまいそうなほどの絶望と怒りの混じった黄金の瞳が彼女の虹色の瞳を鋭く射抜く。そして、エスティアはその表情のまま答える。
「好きで手放したんじゃない。奪われたんだ……誰が好きでっ……自分の目を……手放すもんか……っ」
噛みつくように叫んだエスティアはそう言ってガックリと項垂れた。そんな彼女の脳裏に浮かび上がるは男性の笑み。人の好さそうな笑みを浮かべながら、瞳を奪った医者。何年も前の話で、恨んではいない。幼いとはいえ、力がなかったのがいけないのだから。だが、それでも、怒りの篭った彼女の声にリーザベルは気まずそうに瞳を伏せた。
「ごめんなさい。貴女の嫌な記憶を掘り起こしてしまって……でも、私は手放してよかったって思ってるわ」
「……は?」
思いがけない言葉に、エスティアは静かに顔を上げた。そして、今にも壊れそうな苦し気な笑みを浮かべるリーザベルに息を呑んだ。
その表情はあの時、別れ際に微笑を浮かべていたレオナードとそっくりだったからだ。そして、エスティアの体を這う彼女の手の温度がゆっくりと低下していることにも。
そして、エスティアは理解してしまったのだ――目の前の彼女はもう長くはない、と。彼女の手から流れる魔力が弱々しくなっている。それはまるで、命の灯が消えかかるように。ゆっくりと、だけど着実に。
「この瞳はね、命を奪うの」
リーザベルは困惑に固まるエスティアの胸元へと顔を埋める。その肩は上下に動いており、呼吸も苦し気だ。エスティアは何も言わずにジッと彼女を見つめる。が、その黄金の瞳は悲し気に揺れていた。
ドクン、ドクン、と響くエスティアの心臓の音が心地よいのだろう。リーザベルの表情は優しい。だが、それをエスティアは知らない。
「虹色の瞳は、とても貴重な瞳で、その希少さは魔眼以上とも言われている。それ故に、謎が多いけど、唯一わかっているのは“持ち主に絶大な魔力と力を与える代わりにその命を奪い取る”ということ」
「そんな……凄いものを……私はなんで……私の家は別に、特別な家じゃないのに」
特別な瞳――俗にいう、魔眼などの類は主に祖先に魔眼の持ち主が居たなどの血統が大きく関係している。だが、エスティアの両親にそんな祖先はいなく、いたって普通の人間であった。その為、エスティアは疑問を口にしてしまうのも無理は無い。
そんなエスティアの胸元に頬ずりしたリーザベルは、可愛い教え子を見るような優しい眼差しで口元に笑みを浮かべる。
「この瞳はとても特別でね。血筋は関係ない。ある日突然、なんの前触れもなくそこに宿る物らしいの」
「じゃあ、私はすっごく貴重な人間だったんだ……見世物にされなくてよかったよ」
吐き捨てるようなエスティアの言葉にリーザベルの表情が曇り、暗い青緑色へと瞳の色が変わる。
「ねぇ、他の瞳を持ってた人も私みたいになったの?」
苦虫を嚙み潰したように顔を歪めるエスティア。
「ええ、そうよ。その瞳を欲しがる人間は大勢いる。過去の持ち主たちは生まれてすぐに瞳を抉られ死んでしまうか、生き残っても一生暗闇で過ごす運命をたどっている。だから、貴女はとても運がいい。どこで、その瞳を手に入れたか知らないけど……大事にするのよ」
言い聞かせるような優しい声色でそう言った彼女は静かに顔を上げ、微笑む。その姿に、先ほどのような狂気じみた物は全く感じられない。
今なら、説得できるかもしれない。エスティアは大きく息を吸い込むと、彼女の右目をまっすぐ見つめる。
「リーザ、私を解放してほしい。私にはまだやらなきゃいけないことが沢山あるし、シュティレのことも探しに行かないといけないの」
もう体の震えは収まっている。エスティアがそう言うと、リーザベルの表情が一変――感情の抜け落ちた人形のような物へと変化する。だが、そんな彼女の右目だけは、くすんだ赤紫色を訴える。全ての感情を瞳へと集めたようなそれに思わず、エスティアの顔が緊張で強張った。
カクン、と。首を傾げたリーザベルは先ほどまでの弱々しさなど投げ捨てたかのように人形じみた顔。だが、右目だけは獣のようにギラギラと輝く。そのアンバランスな状態のまま、彼女はエスティアの顎に手を添え上を向かせる。
「ねぇ、どうして私から離れるの? 私、貴女が好きよ。この世で一番。でも、貴女はそのシュティレという子を選ぶの? なんで? 私に向けてくれた“愛”は嘘なの?」
「え、ちょ、リーザ……?」
「ねぇ、どうして? 私はこんなに貴女を愛しているのに……貴女も私を捨てるの?」
淀んだ暗い瞳のリーザベルの両手がエスティアの首筋へと伸び、それはそっと彼女の首を締め付け始めた。
「ぐっ……リーザ……ッ!」
「どうして? 貴女は私を愛してくれたじゃない? 笑顔を向けてくれた、こんな私を心配してくれた。私、貴女がたまらなく欲しいの」
「かはッ……リーザ……ッ! やめ……て……っ」
リーザベルの両親指がエスティアの喉へと食い込み、エスティアは苦しそうに息を吐き出す。どうにかもがこうとするが、いつの間にか動くことすらままならないほどキツク鎖が体を締め上げていた。
彼女はもう正常ではない。得体のしれない悪寒にエスティアの体が“死”とは別の戦慄を訴え、心臓を貫く。
どうにかして逃げなければ。エスティアはギリギリと閉まる喉で浅い呼吸を繰り返しながら、辺りを見回すが、石敷きの床が広がり、同じような石造りの壁が続く薄暗い部屋には石ころ一つすら落ちていない。
そろそろ、呼吸が苦しくなり始める。真っ赤に充血し始める瞳でリーザベルを睨みながら、エスティアはボーっとし始める頭で最後の力を振り絞る。
「わた、しは……アンタの物に、は……ならないっ! 私は、私はッ! シュティレの物だから! シュティレ以外の人間に捧げる物なんてもうなんにも残ってないッ!」
体の酸素を全て使い切る勢いで出た声に、リーザベルはビクリを体を震わせエスティアの喉を締め上げていた両手の力が緩む。その瞬間、爆発音のような物が轟く。
「え……?」
激しくせき込みながら、エスティアは爆発音が轟いた方へと視線を向ける。リーザベルも淀んだ瞳でその方角へと視線を向ける。砂埃が舞い上がり、全体像まではわからないが、誰かが石敷きの床へと倒れ込んでいるようだ。
小さな体格のそれは苦しそうに腹部を抑えながら、立ち上がろうとするその人影を――奥から現れた、一体の角の生えた影が踏みつけ、咆哮を上げる。
その光景に、エスティアの表情が緩む。対してリーザベルは、つまらなそうに瞳を座らせ、その光景を見つめていた。そして、その影の奥からまた一人の影が現れる。杖のような物を抱えたその影は開いている手を軽く振るい、濛々と立ち込めていた砂埃を風で吹き飛ばし――
「エスト、やっと見つけた」
そう、言って無邪気な笑みを浮かべた。




